第22話『海行き電車』

 十月二十二日は、僕と妻がはじめて顔を合わせた日。前の会社の電車に乗って、悠久の眠りについた妻と一緒に、愛した海を見に行こうとした。

 しかし、ふとした疑念が湧いた。

 遥か遠くから降りた妻と、そばにいる実感は得られるだろうか。そばにいる、それは僕の思い過ごしではないのか、と。

 朝の日課である線香をあげて、仏壇の奥に控える位牌に問いかけた。


「……一緒に行く?」


 僕は位牌を掴み取り、仏具屋から貰ったままの箱に納めた。そしてそれを鞄に入れて、発売して間もない本と一緒に、妻と待ち合わせをした横浜駅へと向かっていった。

 前の会社の電車に乗って菩提寺の最寄りで降り、花束を買い求める。古く静かな住宅街を、秋色の桜並木を通り抜けて墓苑に入る。


 墓石を水で洗い流して、花束を生けて線香に火を灯し「ん?」と僕は眉をひそめて、首を傾げた。

 僕が連れ出した位牌が妻で、目の前にある墓石の下で眠っているのも妻、お盆に五十六億七千万年の果てから迎えたのも妻である。妻の魂は、どちらにいるのだろう。


 まぁ、いい。どちらにせよ、これで間違いなく妻と一緒だ。

 好きだった前の会社の電車に乗って、好きだった海に連れて行こう。


 駅に戻って、海行き電車に乗り込んだ。車窓から海が見えるのは、東側。西側の席に腰掛けて、位牌が入った鞄を車窓へと向ける。南へ南へ疾走はしる電車は、駅に着くたび降ろして乗せてを繰り返す。それでも僕たちふたりの貸切にならず、妻を箱に納めたまま海岸そばの駅で降りた。


 改札口を通り抜け、海岸線を目指して歩く。海のそばらしい低い屋根を横目に路地を抜け、クランクを曲がって緩やかな坂を下ったら、海が見えるよ。

 海岸道路を横断歩道で越えた先、薄く長い駐車場を縫いタイル貼りの階段を降りる。人気のない砂浜を慎重に踏みしめていると、細かな砂がサラサラと靴の中へ侵食していく。


 僕は鞄から箱を取り出し、海が見えるように蓋を開けた。


 長く伸びる砂浜を、そのままゆっくりと北上していく。君が愛した深淵の青、押し寄せる白い波音、弥勒の向こうまで届きそうな秋の空を、位牌の君は見ているのだろうか。


 あの日は、三駅先まで歩いていった。途中、砂浜が消えて歩道のない海岸道路を、自動車と譲り合いながら歩くことになる。

 今日は、ひと駅先でいいかな? 他にも寄りたい場所があるんだ。

 駅入口の標識を見て、位牌の君に蓋を被せて鞄に仕舞う。そこからまた細い坂道の路地を縫って、駅から北に向かう電車に乗った。


 降りたのは、異国情緒を売りにする港町。街中に踊る英語の看板、街角に佇む両替所、あちらの国の名物料理、結婚してから訪れてハンバーガーを一緒に食べたね。

 そのとき過食気味だった君は、僕が付き合えないほどに食べていた。その食欲を、亡くなる前に分けられたら……なんて、そうはうまくいかないんだ。


 ハンバーガー屋はたくさんあるけど、今日は君が好きだったハンバーガーチェーンにするよ。ひと駅先のショッピングセンター、そこのフードコートに入っている。

 ちょうど昼どき、老若男女で賑わっている。

 注文をしてトレーを持って、あまり目立たない席を探す。が、各店舗は壁際に並んでいて、テーブルはフロアの中央に集められている。目立たない場所など、どこにもない。


 トレーを置いて、そのすぐそばに位牌を納めた箱を置き、蓋を開けないままにして、ハンバーガーにかぶりつく。せめて、と一番好きなフライドポテトを箱のそばへと寄せておいた。

 男ひとりと位牌が食事なんて、はたから見れば気味が悪い。だから、ごめんね。


 そそくさと食事を済ませて、港に背を向け駅へと向かった。各駅停車に乗って北へ、降りたのは君が眠る町の駅。お寺とは反対側のターミナルからバスに乗り、降り立ったのは君と顔を合わせた日の最後に行った自然公園。

 あの日は、歩いていったんだ。海岸沿いを三駅分と港町をひと駅分、更にバスで行く距離の公園まで歩いたから、次の日に僕は筋肉痛に苛まれた。


 寄り添っていたい、そう思えたから歩けたんだ。


 あの日とは違う入口から門をくぐり、黄色く染まりはじめた山そのままの公園を歩く。途中で地図を確かめて、あの日見た十月桜を目指した。

 斜面を利用した梅林の、つづら折りの道を行く。のぞんだ海も町並みも、歩みを進めるたびに見えなくなって、枝とわずかな葉だけが残る梅の中に、桜を探した。


 梅は、妻が愛した花のひとつ。季節になると香りを求めて大倉山、湯河原、熱海、曽我と、お互いが気に入る梅林を探して一緒に巡った。

 一番のお気に入りは、小田原フラワーガーデン。小田原駅からバスに乗り、山道を何度も切り返して辿り着いた山の上には、小川を木道で越える梅林があった。今、妻が住まう弥勒の浄土も、そんな景色なんだろうか。


 坂が終わった、十月桜は咲いていない。梅に似た華奢な幹で、説明板などもかけられていないから、どこにあるのかさえわからなかった。僕は語りかけるように、鞄の箱にそっと触れた。

 見せてあげたかったな、十月桜。


 公園を出て、住宅街を通り抜け、僕は位牌の妻とバス通りを駅へと向かった。

 茜色に暮れゆく歩道を歩く僕は、誰の目から見てもひとりだった。

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