第19話『下町ロケット』

 電車が行き交う線路際、ゴロゴロと鳴り響く車輪のそばで、僕の生涯における一番弟子の白井と顔を合わせた。会うのは妻の葬儀以来、一緒に呑むのは転職祝いだと近所まで来てくれたとき以来だった。

「どこか知っている店はある?」

「時間もったいないですから、目についた店に入りましょう」

 呑む気満々の白井に促され、立石のアーケード街へと線路沿いを歩いていった。


 それは、すぐに飛び込んできた。向こう側の通りまで真っ直ぐ伸びる、高い屋根つきの商店街。どの商店も古くから続く建物で、長らく利用してきたであろう近所の主婦が頬に手を当て、店先を彩る野菜に真剣な眼差しを浴びせていた。


 東京の下町は、ギュッと押し込んだ密度がある。人の匂いが漂っており、それが小説や漫画、ドラマや映画にピッタリなのだと感じられる。

 かくいう僕も、町工場が密集している東京蒲田の生まれだから、近いものを感じられて幼少期が思い出された。漂っていた匂いは人よりも、ツンと鼻を突く酸っぱい機械油の臭いだったが。


 生まれ育ち知っているから『下町ロケット』は僕のイメージと乖離があった。規模が小さいだけで、綺麗で設備も整っていて、機械油の臭いがしない。池井戸潤先生は元銀行マンで、実は町工場の話ではなく銀行の話、そもそも銀行から融資を受けられる時点で恵まれた会社なのだから、仕方ないか。


 一方、横浜の下町は水の匂いが漂っている。海が近いだけでなく埋立地や川の跡、漁師町など端々に水を感じさせる。

 観光地じゃない、本当の横浜を描ければ──。

「何にします?」

「あ、とりあえず」

のビールと、つまみを頼む。学生時代からの友人と日本酒を嗜んでいた時期もあったが、車掌になって乾杯ビールの始末を担当した僕は、すっかりビール党になっていた。


「出版おめでとうございます!」

「ありがとうございます」

 照れ笑いしながらジョッキを交わし、弾ける麦の香りを流し込む。そうたくさんは呑めないが……。

「もう空いたの!?」

「すみません、もう一緒に呑みたくて」

 互いに交わした苦笑いは、ホップの苦味せいではなかった。この気の置けない関係が心地よい。


 白井の注文を待ってから、今日一番聞きたいことをおずおずと尋ねた。

「……それで、読んだ感想は」

「非道い会社だと思いました」

 すぐ返されたひと言に、僕はジョッキの取っ手にしがみつき、こらえた笑いをテーブルの下へと沈ませた。しかし白井は真剣そのもの、率直な感想には違いなかった。


「悪いばかりじゃないんだけどね」

「そう! 師匠がいい方ですねぇ。こういう上司に出世してもらいたいですよ」

 出番が少ない師匠を褒められ、自分のことのように嬉しかった。しかし当の師匠は出世にまるで興味を示さず、委員会を通して会社と戦っていた。

 それを僕は受け継いで、正しい順法闘争を行っていた。決められたことをやって文句を言う、会社は言い返せないから、迷惑していたはずと自嘲した。


 小説に描かれる会社は、ファンタジーだ。窮地を救ってくれる上司は、会社から煙たがられる。出世して欲しい人ほど、出世に興味がなく出世しない。みんなに望まれて出世をしても、立場が人を変えてしまう。

 都合のいいスキルを持っていて、都合のいい環境に身を置いて、都合よく救いの手が差し伸べられるなど、そう滅多にあるものではない。だからドラマになるのかも知れないが、奇跡の連続はリアリティを削いでしまう。


 それに、僕の場合は病気をテーマに扱っている。安易に奇跡を起こしては、ファンタジーに夢を見て現実に打ちひしがれてしまう。この物語で許されたファンタジーは、妻が生きていた時間を切り取る、それだけだ。


 届いたジョッキを煽った白井は、五臓六腑に染み渡る愉楽とともに、腹の底から湧き上がる思いの丈を僕へと告げた。

「奥さんと付き合っているときの場面が、たまらなかったですねぇ! 自分もそうだったなぁって思い出して、何だかこそばゆくなってきちゃって!」


 ジョッキの底がテーブルを鳴らし、僕の胸が跳ね上がった。うつ病を患う人に恋をしている焦燥感、その視点で書いていたから、自分自身でも気づかなかった。そうか、妻と結婚するまでは恋愛ドラマを描いていたのか。

 数え切れないほどの片思いはしてきたが、恋愛を描けていたのは大いなる発見だった。


 胸の内のくすぐったさで、赤く染まった頬を指で撫でた。照れる僕に、白井は想いをぶつけてくる。

「婚活していた頃とか、嫁さんと付き合っている頃とか、ああそうだった、そうだったって共感して、結婚して子供が産まれたら経験出来ませんから」

「娘さんは大きくなった?」

「ええ、見てくださいよ! 女ふたりだから、俺の居場所がないんですから!」


 照れ隠しに逸らした話に、白井はスマホを開いて意気揚々と乗ってくれた。会うたびに大きくなる娘を見て、僕は愛想笑いを浮かばせた。

「目鼻立ちがハッキリしてきたね。あ、スペーシアの個室じゃない」

「よかったですよ。周りは気にしなくていいし、俺は呑んだくれていられるし」

 しばらく写真を眺めていると、白井が他意なく僕に切り込んできた。


「もし子供がいたら、どうなっていました?」


 猫たちが人間になった夢がよぎった僕は、ジョッキを掴んだまま固まった。

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