ほんとのはなし

山口 実徳

プロローグ『鎌倉の花 小辞典』

 塗りたくったような青空の下、はち切れそうな桜並木に覆われた、真っ直ぐ伸びる石畳。僕はひとり花束を抱え、寒々しくも期待に温まっている頭上を仰いだ。

 三月末が近づいても、桜が咲くには早かったね。

 それでも一輪、また一輪とひと足早く咲いた花を愛でるのも、これがまた楽しかったりするんだ。

 銀色に輝く桜の枝に、ちらりほらりと花がつく様を見ると、君と出会った十月が思い出される。


 病に長らく苦しむ君に、僕は海を見せたかった。

 当時、私鉄で車掌をしていた僕は自社沿線の海岸に君を誘った。僕は会社の乗車証で、君は一日乗車券で電車に乗って海を眺めて、食事をして街歩きをして、その間ずっと君の話を聞いていた。

 陽が傾いて、君が今日の最後にと一緒に向かった公園で、僕たちの話は驚嘆に打ち止められた。


「桜が咲いてる!」

「十月桜だ、はじめて見た!」


 頼りないほど華奢な木に、ぽつりぽつりと桜の花が咲いていた。僕は本で、准看護師の君は花好きのお医者さんから、その名を知った。

 その本は、かまくら春秋社『鎌倉の花 小辞典』。


 高校で鉄道研究部に入った僕は、二年生になると唯一無二の部員になった。必死に部員を募集して、入部したのはたったひとり。

 鉄道模型も鉄道写真も、文化祭で発表するすべてを、たったふたりでしなければならなかった。

 そうして僕はカメラを覚え、撮影対象を電車から風景、季節の花へと移していった。


 ちょっと前まで横浜に住んでいたから、四季折々の花咲き乱れる鎌倉は、すぐ近く。本で調べて花を撮り、その名前を本で調べる。鎌倉の名所と季節の花々がセットで紹介されていたから、僕にとっての必需品になっていた。


 君も花が好きだったから、その本を鞄に忍ばせ、ふたりで色んなお寺を訪れた。


 僕はありふれた花に魅了されていたけれど、君は何でも好きだった。

 特に好きだと言ったのは、スターチスと霞草。

 今日も花束に霞草を入れておいたよ。何せ、君の誕生日だからね。スターチスは……意外と単品ではないんだよなぁ。霞草もないときがあって、困る。


 桜並木は、もう終わり。このまま真っ直ぐ行けば庭園だけど、僕はすぐさま左に折れる。久しぶりに会えるんだ、その喜びに足取りが弾んでしまって、緩んだ頬を自嘲に歪めた。

 毎日一緒に過ごしていたのに、別々に過ごすようになってから君に強く惹かれるなんて、僕は非道い男だな、てね。


 遠い未来か近い将来か、いつになるかわからないけど、また一緒に過ごせる日が必ず来るから、その日まで待っていてね。

 今日は、あの日訪れた海に行こう。それから君が好きなハンバーガーを一緒に食べて、十月桜を見た公園に行って、晩ごはんは君が好きなうどんを食べよう。一緒に来てくれるよね?


 ガランと広がる空の下には、音がない。

 分かれ道を左に折れて、すぐ右手。

 君を正面に見据えた僕は、何て声を掛けようかと躊躇ってから、視線を落とした先に花束を置いた。


 水を汲み、君に贈った花束を飾って、柄杓で水を花瓶に注ぐ。会えなかった時間の形も、上から水で洗い流した。

 それから握った線香に火を点けて、薫る煙を空の向こうの君に捧げた。


「迎えに来たよ」


 昨年末、君は、僕の妻は、自ら生命いのちを絶った。

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