鈴木よしおと幽霊ビル

 ◆◆◆


 縁起が悪い場所…建物、そう言うモノはままある。

 その建物に限って事件、事故が立て続けに起こったり。

 殆どそれは偶然でしかないのだが、塵も積もれば山となるという言葉もある。


 偶然にも良くない事が続いてしまって、そして周囲の人々が“あの辺は縁起が悪いよね”だとか“あそこには近寄らないほうがいい”だとか“あそこは呪われている”だとか、そういった無責任な放言を積み重ねていく事で一体何が起きるのか。


 大抵は何も起こらない。

 余程運が悪くなければ、だが。


 では余程運が悪ければ?

 答えは簡単だ。


 屍体の山が出来るのだ。


 ◆


 ある朝、出勤したよしおは事務所で今日一日の流れを確認していた。


 副業の除霊では狂気のままに振舞うよしおではあるが、平日は普通の会社員として一見して世間に適合しているように見えない事もない。


 というより、よしおが狂態を見せてしまうのは、霊的異常空間に身を置く事により普段は隠されている心の闇が暴かれてしまうからだ。日常生活でのよしおは何の変哲もない三十路おじさんである。


 ◆


 ちなみによしおは最近、ビルメンテナンスの業務から清掃へと配置変えされていた。これは上司の高橋の嫌がらせの1つで、しかしそのお陰でよしおはイビりから解放されていた。高橋はメンテナンスの部署の人間だからだ。


 実の所はもっと上位の者の思惑があっての事だが、少なくともよしおは高橋のいびりの1つだと、そう考えている。


 ともあれ給料は1万円ほど下がり、ただでさえ少ない給料が更に少なくなった。


 とはいえ、よしおには余り関係がない。いっそ会社を辞めてしまっても問題ないくらいによしおは“副業”で稼いでいるのだ。


 それに、清掃でまわる現場にはいくつか特殊なものがあり、そこの作業に従事する事で“特別手当”を受取る事が出来た。ゆえにトータルで見た場合は元々安い手取りが更に減った所でどうということはないのだ。


 ちなみに当のよしおはこれを余り良くない事だと捉えていた。手取りが安くなった事ではない。

 上司からの理不尽なイビリが無くなった事だ。


 と言うのも、常の彼は自身の狂気・怒りといった感情を俯瞰的に観察しており、この負の想いこそが“副業”に大きく役立つ事を理解していたからだ。


 使えるモノは何でも使い、自身が置かれている状況に機敏に対応するという思考は元証券マンらしいといえるだろう。


 とはいえ、だからといって退職というのもよしおには選択しづらかった。副業中は狂気のデストロイヤーの如き振る舞いを見せるよしおといえども、副業外では案外にしがらみを気にする普通のおじさんなのだ。


 なお、なぜそもそもビルメン・清掃の会社に勤めているのかといえば、これは数奇な縁によるものだった。


 ◆


 時は少し遡る。


 礼子と別れて意気消沈・自暴自棄となり仕事では失敗の連続、ついには依願退職を勧められ、無職おじさんとなってしまった彼は自殺をしようと、とある雑居ビルの屋上に不法侵入した。


 月が綺麗な晩だった。


 そして雑居ビルの屋上で、よしおは人ならぬ存在…悪霊と対峙する事になった。

 彼の眦は吊り上がり、大気はよしおの怒気で満ちて震えている。そして悪霊もまた震えていた。


 ・

 ・

 ・


 固い意志を以って自死するのと、精神的に追い込まれて自死するのとではカレーと大便ほどに違う。

 だのに悪霊が自身の精神に干渉し、よしおの意思を無視して自死させようとした事はよしおの逆鱗に触れる行為であった。


 ――望む様に生きられなかった不器用な馬鹿は、望むように死ぬ事も許さないということか?苦しんで生きたなら、苦しんで死ねということか?


 そう考えながら怒りのボルテージを高めたよしおは、悪霊から垂れ流されている害意に触れて、“そうではない”と気付く。


 執拗に自己アピールしてくる悪霊の本心に気付いたのだ。悪霊はよしおに死んでほしくないのだ。


 これはよしおの大きな勘違いである。

 悪霊はよしおに死んでほしくないわけではない。


 むしろ精神に干渉し、恐怖させ、正気を失わせ、積極的に自殺させようとしている。その精神への干渉をよしおは“自殺を妨害されている”と感じているだけであった。




 人ならぬ存在の情に触れた…と勘違いしたよしおは、悪霊の本心をより深く知るためにその胸に腕をめり込ませた。


 強力な霊力が込められた対霊体貫手が悪霊の霊的中枢を取り返しがつかない程に破壊し、恨みつらみが込められた世にも悍ましい断末魔の絶叫がその場に響きわたる。


「やっぱり…」


 よしおの声が悪霊の断末魔に重なる。

 彼はなぜ悪霊が“そうなってしまったのか”を感得した。


 悪霊は生前、社会人に成り立ての青年であった。

 青年には恋人が居た。

 青年は都内に住んでおり、恋人は福岡だ。

 福岡県に住む恋人に逢う為に、青年は毎月福岡に通っていた。


 青年は恋人を愛しており、いずれ結婚をするものだと信じていた。恋人もまた青年の心に寄り添い……しかし、物理的な距離と言うものは時に心理的な距離以上の障害となる場合がある。


 ましてや若い時分の遠距離恋愛の末路などというのは…。

 多くの悲しき先例に倣い、2人も当然の様に破局した…事はない。なんと、2人は悲しき先例を乗り越え、同棲という1つのチェックポイントへ到達する事ができた。


 青年が恋人との将来を真剣に考えた結果、早い段階で恋人を都内に呼んだほうがいいと発奮した結果だ。

 青年とその恋人は1つ屋根の下に住み、そして愛を育み…普通に破局してしまった。

 遠距離という壁は恋の障害である事には間違いはないのだが、同時に火種でもあったのだ。


 人間関係には適切な距離感というものがあり、近すぎても遠すぎてもいけない。

 青年の恋人は、青年と一緒に住んでみて気付いてしまったのだ。


 “あ、なんか違うな”


 と。仕方のない話だが、むごい話でもある。

 だが青年にとって最悪だったのは、その破局の仕方であった。


 青年の恋人は青年との心理的な距離を儚み、インターネットを通じて知り合った若い社会人の男性と深い関係になってしまったのだ。

 その社会人の男性は青年と同じく都内に住んでおり、恋人は青年から受取ったチープなリングを置いて出ていってしまった。


 若さゆえの勢いとはいえ、己の命そのものとも言える恋人の愛を失った青年には、もはや生きる気力はなかった。

 青年はそのリングをニッパーペンチで細切れに切刻み、そして金属片を飲み込んで雑居ビルから飛び降りた。

 絶望した人間にしばしば見られる、理不尽かつ無差別な憎悪を抱えたままに。


 たかが恋愛でここまでする青年の心の重さ、青年の恋人はそのあたりに嫌気がさしてしまったのかもしれない。


 爾来、青年が自殺した雑居ビルの屋上には青年の悪霊が現れるようになる。

 そして面白半分で心霊スポット巡りをしに来た者達を呪い殺してきたのだ。


 そんな青年の悪霊の不幸は、理不尽な自身よりもさらに理不尽なよしおに出遭ってしまった事であろう。


「愛を失い、悲しんでいたんですね。分かります…分かる…分かるよ、分かるよ…違うよな、1人とさァ!!独りはさァ!!!違うよな!!字面は似ている…でも違う。それを理解出来た時にはもう遅いんだ…そして僕も、俺もそうなんだ…。愛する人と信頼していた上司を…うっすらと、年上の親友とすら思っていた人を同時になくしてしまった。彼等が憎いけれど、やはり寂しいんだ…。お互い似た者同士、という事か…。一緒に行こう。君の苦しみは俺が抱えていこう。せめて、俺の中で一時でも安らかに眠るといい…」


 よしおはそんな事を言いながら、大口を開けて悪霊の頭に齧りついて貪ってしまった。


 身勝手な絶望に衝き動かされ、何人もの命を奪ってきた悪霊はよしおに喰い殺され、その霊的エネルギーの残滓が彼の肉体に吸収された時、よしおは己の精神世界でジクジクと広がる粘着質な黒い炎のようなモノの火勢が僅かに緩まり、心が少しだけ楽になったような気がした。


 これは要するに、悪意の塊のような悪霊の霊的エネルギーがよしおの精神に侵食したところ、その精神が悪意の霊的エネルギーより遥かにドス黒く異常な状態であった為に、負の情念の濃度が薄まり結果としてよしおの狂気的精神がほんの僅かだが寛解に近付いたようなものである。


 ともあれ、彼が心霊界隈に本格的に足を踏み入れたのはそれがきっかけであった。


 ◆


 そういった経緯もありもはや自殺などする気分でもない…ならばどうするかと選んだのが居酒屋での暴飲である。


 そして当然の如く飲んだくれて潰れてしまったとき、たまたま隣の席にいた親父…伊藤銀太が会社の社長で、よしおの話を聞いて彼に同情し、給料は安いが仕事を用意してやれる、と親切心を働かせたのだ。


「そうかい、兄さんも若いのに大変だねえ」


「まあなあ、実は俺もよう、かかあとは一度離婚したんだ。いや、不倫とかそういう事が理由じゃねえぞ。なんていうのかなぁ、かかあが言うんだよ。“私と一緒にいたらアンタが不幸になる”ってよ」


「意味わからねえだろ?俺も納得なんかとてもできねえ。でもかかあは強情でよう。まあそこから色々あってな、再婚したんだ。あとから問いただしたらよ、“私は昔から悪いモノを呼び寄せるんだ”ってよ。なんていったかな、霊媒体質?だそうでな」


「俺はてんで信じちゃいなかったけどよ、かかあと一緒に暮らしている時、確かに色々妙な事があったんだよ…例えば……」


「え?兄さんもそうだって?ちょっと吞みすぎたんじゃないのかい?ほどほどにしなよ…次の日仕事だって…ああ、そうか、兄さんは…あれか、うーん…そうだな、なあ、兄さんは仕事がないんだろ?どうだい、俺の会社にこないか?これも縁だからなあ。まあ腰掛けくらいでいいんだ、兄さんが落ち着くまではな」


 これを一種のコネ入社と捉えた彼の上司である高橋は、よしおを執拗にいびるようになるのだが、それはまた別の話だった。


 ◆


 ところで彼の勤める会社、株式会社アローもそうだが、ビル設備の保守や点検のみならず、ハウスクリーニングや店舗の清掃なども含む清掃なども手がけている企業というのはこの界隈では非常に多い。


 ビルメンよしおならぬ清掃員よしおの業務は、アルバイト数名を引き連れて会社が契約しているいくつかの現場を清掃してまわる事。移動には会社所有のハイエースが使用され、清掃に必要な道具などは車に詰め込まれている。


 アルバイトは大抵2名~3名といった所で、大きい現場なら複数の班が向かうといった調子だ。


 ◆


「お早う…御座います」

「うす」


 よしおが事務所でバイト達を待っていると、ドアが開いて2人の男女が入室してきた。


 女性の方は高野真衣(タカノ マイ)。

 20歳のフリーターで実家は群馬なのだが、色々あって東京に出てきた。やや引っ込み思案な性格で、必要な事以外は話さない。黒髪のボブヘアーで常に周囲を窺うような目をしている。


 男性の方は灰田晃(ハイダ アキラ)。

 23歳のフリーターで、バンドマンだ。真っ赤な髪は少し伸び気味で、無造作に束ねられている。長身だが細身の体は華奢にも思えるが、これでいて冷静な顔でポリッシャーと呼ばれる重い清掃器具を車から上げ下げしたりする。

 色気すら感じられる切れ長の目も特徴的で、一見すると近寄りがたい。しかしよしおも真衣も晃が案外気安い男だという事は既に分かっている事だった。



「おはよう」


 よしおが挨拶に短く答えると、晃がよしおの傍に来て手元を覗き込んで言った。


「おー、今日は例のコースっすね」


 晃が言うとよしおは頷いた。


「うん。白河邸のハウスクリーニング、三津険ビル非常階段の洗いとエントランスの定期清掃。いつも通り、お手当ても出るから。それと、改めて言う事でもないけれど…」


 よしおが言うと、晃は神妙な表情をして答えた。


「三津険ビルの非常階段の洗い中、何かを見ても反応をしない、誰かから声をかけられても答えたりはしない事。おっさんから離れないこと」


 晃の言葉によしおはうんと頷く。


「余りよくない場所です。社長婦人の花矢子さんが言うには、出入りは多ければ多い程良いとの事ですが、無理はしなくて良いと思う。灰田さんと高野さんが怖ければ来なく手も大丈夫です。あと僕はまだ33歳だよ。おじさんではないと思いますけど」


 よしおの言葉に2人は首を振った。

 付いていくという意思、そして33歳はおっさんだという意思、2つの意味で。


 2人はわけあって金が欲しかったのだ。

 そして三津険ビルの定期清掃に従事すれば、額にして30万円もの特別報酬が出る事になっている。


 当たり前の話だが、一現場の手当てとしては真っ当な額ではない。だが三津険ビルの清掃に関しては充分とも言えない額でもあった。少なくとも30万で命をかけろというのは理不尽な話であろう。


 三津険ビルは、ある種の特性を持たない者にとっては非常に危険な場所であるからに。



 ・

 ・

 ・


 三津険ビルは東京都内の某所にある雑居ビルで、心霊現象が多発すると噂されている。


 夜間、使われていないはずの階の電気がついていたり、屋上から人影が飛び降りる姿が散見されたり…このあたりはネットで調べればいくらでも話は出てくるだろう。


 ビルの外観は古く、年季が入っている。


 外壁は所々罅割れており、建物内はかつては事務所や店舗として使用されていたが、今は空き部屋ばかりだ。

 多発する心霊現象により周辺住民からは避けられており、ビルのオーナーもさすがに業を煮やしたかお祓いを頼んだりしたが、結果は思わしくない。


 はりぼてではなくて、ちゃんとしたプロの祓い屋を雇ったにも関わらず、事態は少しも良化しなかったのだ。


 悪霊、怨霊…その類がどこにも見当たらない、それでいてビルでは確かに怪異現象…騒霊現象のような軽いものではなく、もっと性質のモノが多発する。


 ついには祓い屋も匙を投げ、これは何人雇おうと結果は変わらなかった。なお、この過程で複数人の人命が失われている。


 ビルを解体しようとした事もあったが、解体業者の主だった人物が不審死を遂げた。


 さすがにこれは、と嘆くオーナーに話を持ちかけてきたのが株式会社アローだった。


 ――現時点では祓うことは出来ないが、重篤な事故、事件を起こさないように“メンテナンス”する事は出来る


 そんな話にオーナーは飛びつき、結句、今に至るという事だ。


 ◆


 ちなみに現代日本には確かに怪奇・心霊現象に対応する組織というものは存在するが、なぜ彼等は三津険ビルのような心霊スポットへの対応をしないのかという疑問がある。


 これは簡単に言ってしまえば、注ぎ込むリソースやコストが馬鹿にならないからだ。


 心霊現象に対応・遭遇した者は精神が霊的な汚染を受ける。

 よくホラー映画か何かで軽々しく心霊スポットに行って発狂したりするが、あれは霊的な汚染が閾値を超えればどうなるかを分かりやすく示してくれていると言えよう。


 それは祓いを生業としている者も例外ではない。

 ゆえに、どれほど軽易な現場であっても一度現場に赴けば休養期間を設けなければならない。


 その間は変な話、業務ができなくなるわけだからその組織にとっては痛い。


 更に、祓い方の問題もある。

 これは罰当たりな例え方だが、一口にゴミといっても処理の方法は多岐にわたると言う事だ。


 ビン、缶といった資源ごみを燃えるゴミの日に出してしまっては問題になるだろう。

 ビンなどは砕け散り、場合によっては清掃員が怪我してしまう事もあるかもしれない。


 心霊・怪異…ひっくるめて霊異というが、霊異にも色々あり、うらみつらみが募って怨霊と化した者を祓うだとか、その怨霊は無差別なのか、それとも特定のターゲットが存在するのか、もしくは都市伝説のように噂話が実体をもってしまうパターンなのか…カタチが違えば対応も変わってくる。


 霊力があるからといって何でもかんでも無差別に対応出来るわけではないのだ。もちろんよしおの様に何でもかんでも力ずくで…と言う事も出来ないわけではないが、一般的にはそういう事が出来る者というのは多くは無い。


 適切の人員の配置や、更に事後の手配などするべき事は非常に多い。だからちょっと心霊現象が発生するからといって、無制限に対応する訳にはいかない。


 霊異現象に対応する組織が幾つもあるくせに、全国から心霊スポットが消滅しない理由はそれが原因である。


 では、そういう心霊スポットへの立ち入りを禁止してしまえばいいではないか、という意見もあるのだが、それは大きな間違いだ。


 人の出入りが無くなった家は朽ちる速度が早くなるというが、心霊スポット…霊的特異点も例外ではない。

 建築物の朽ちた度合いと霊異の規模というのは比例する傾向がある。適度に人が訪れる事は霊異を抑えるという意味では有効と言っても過言ではない。


 なお、株式会社アローの書類上の社長は伊藤銀太だが、その実質的な舵取りをしているのは伊藤花矢子(イトウ カヤコ)だ。


 会社がどこの物件とどういう契約を結ぶのか。その決定は花矢子がしており、三津険ビルの定期清掃の契約も花矢子が決めた。


 そして三津険ビルの定期清掃によしお、晃、真衣が選ばれたことには偶然ではない。


 ・

 ・

 ・


 ◆


 三津険ビルは危険な場所だ。

 特級厄地とも呼ばれる霊的特異点。

 そこを祓うというのは困難を極める。

 ビル内部から感じられるのは、業前優れたる霊能者といえども、準備無しでは命を落としてしまうほどの凶悪な呪詛…


 それでも外部から活動を抑制する事くらいならば可能だ。

 定期清掃というのも無意味ではない。

 掃除をする、人の手を入れるという行いは、建築物が霊的な意味で朽ちる速度を遅らせる事が出来る。


 ビルに渦巻く呪詛が外部へ放射されるのを防ぐ為に、株式会社アローの社長婦人である伊藤花矢子がよしおを使った…かどうかは今の時点では定かではないが、よしおがこの現場に定期清掃をする事になってから三津険ビル絡みでの死者が出ていない事は事実であった。


 ◆


「じゃあ先ずはいつも通り、最上階から順に始めよう。高野さんは洗剤を撒いてください。その後に灰田さんがブラシで磨いていきます。汚水は僕がバキュームで吸い取り、最後も僕が上から乾モップでふき取っていきます。僕が最後の拭き取りをしている間に2人は掃除用具を洗っておいてください。では作業開始」


 よしおが軽く指示を飛ばすと2人は思い思いに返事をした。


「はい」

「りょーかいでーす」


 ◆


 ――また、だ


 高野真衣は返事をしつつ、社員の鈴木の目をみた。

 鈴木の目はこちらを見ているようで、見ていない。

 あらぬ所へ茫洋な視線を投げる鈴木からは、どういうわけか人骨の骨粉でつくられた真っ白い砂漠を真衣に連想させた。


 ――ああいう目をしている時の鈴木さんは、少し怖い。けれど…傍から離れたらもっと怖い目に遭う気がする


 まるで自分達には見えない何かが見えている様だった。

 それは同僚の灰田晃も気付いているようで、しかし2人とも鈴木に何が見えているかを聞けないでいた。

 勘違いだったら恥ずかしいという気持ちもあるが、真衣も晃も知っている。世の中には別に知らないでも良い事があるという事を。


 その時、真衣の視界の片隅に何か黒いモノが過ぎった。


 上から下。

 何かが落下するような。


 反射的にそちらを見てしまいそうになるが、視界一杯に青い作業着の胸ポケットが広がる。


 ちらりと見上げてみれば、晃が憮然とした表情で真衣を見下ろしていた。


「変だなって思ってもそっちを見ない、だろ?センパイ」


「…ごめんなさい」


 ――気になるのは俺も同じだけどな


 晃はため息混じりにいいつつ、2人は作業に戻った。

 2人はどこか不安そうだ。

 何かに視られている気がしてならない。


 カン、カン、という階段を降りる音がしてこないだろうか?ビルの中にはどこの企業も入っていないはずなのに。

 三津険ビルは無人ビルなのに。


 ザワ、ザワという人の気配がそこかしこからしてくる。


 晃と真衣は“これ”が初めてではないので慣れてきたが、それでも表情は険しい。晃の腕は鳥肌がブワッと広がっていた。だがその鳥肌は、広がった速度と同じ速度で収まっていった。


「おっさん…」


 晃は安堵の為に思わず呟いてしまう。

 その視線の先には階上を見上げながら眼を見開くよしおの姿があった。


 ◆


 今日の三津険ビルは少し様子が違った。

 何かにつけ存在を主張してきたのだ。

 よしおが知る限り、それは余り良い兆候ではなかった。

 暴力的、攻撃的な者に対して頭を低くしていると相手が図に乗るように、霊異現象に対しては正しい手段で何らかの抵抗を見せる必要がある。

 さもないと状況はどんどんと悪化してしまう。



 ――僕の…俺の目をかいくぐって彼等を“喰える”とおもうのなら、やってみるといい



 後悔させてやるぞ、と言わんばかりの霊的威圧がビルに伝播し、よしおの意思をビルに巣食うナニカに伝える。


 そして、つぅ、と鼻から何かが垂れる感覚。


「鈴木さん、鼻血、が…。ティッシュです、使ってください」


 真衣が手渡してきたティッシュを礼を言って受取り、よしおはビルからの意思を確認する。

 よしおはビルの意思、いや、ビルのどこかに巣食う邪悪なナニカの意思を言葉ではなく、イメージで理解した。


 それは腐り落ちた巨大な目玉がこちらを見ているイメージだ。蕩けた巨大な目玉には当然ながら表情筋はない。

 であるのに、よしおはイメージの中でその目玉が微笑んだ事を理解した。


 真衣と晃は息を殺してよしおの姿を見つめていた。

 まるでよしおから不可視の気流が奔騰し、2人を包み込んで見えない悪意から護ってくれているような…。


 2人はよしおと共に“特殊な現場”をいくつか回ったことがある。そして今と同じようにはっきりと口では説明しづらい庇護を受けているように感じた事が1度や2度ではない。だから真衣と晃はよしおの班を希望して仕事をしているのだ。よしおが居れば危なくないから。そして大金を稼げるから。


「作業を続けましょう」


 よしおが作業再開を促すと、2人は不安そうに非常階段の清掃を続ける。

 掃除を進めれば進めるほどにビルのそこかしこから漂ってくる気配が薄れていくのを真衣と晃は感じた。


 9階から1階へ降りる頃には2人は大分平常心を取り戻したようだった。


 よしおはそれを確認し、作業確認書に記入をしていく。

 そして最後に終了時間、総括を記載して清掃を終了させた。


『15:26 作業終了。異常ナシ』


 そう、異常はない。

 今の所は。


 だが、それは“とりあえず”でしかない事をよしおは知っていた。


 よしおの霊感が囁く。


 ――いつか再び、ここへ訪れる事になる

 ――それも今より違う形で

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る