血を見る真珠


 明治十六年一月のことである。東京の木工船会社で新造した百八十トンの機帆船昇竜丸が試運転をかねてごうしゆうに初航海した。日本の国名も聞きなれぬ当時のことで、非常に珍しがられて、港々に盛大なモテナシをうけた。そのとき、もくよう島近海の暗礁にのりあげて船体を破損し、修理のために一か月ほど木曜島にとどまったのである。

 折しも木曜島では、明治十二、三年に優秀な真珠貝の産地であることが発見されて、諸国から真珠貝採取船や、仲買人が雲集し、銀行も出張して、真珠景気の盛大なこと。明治十八年には日本の潜水夫もこの島へ稼ぎに出たということだが、それは後日の話。昇竜丸の乗組員は偶然その地に長とうりゆうして、つれづれなるままに、真珠採取事業をつぶさに見学するに至った。

 船長の畑中利平はぼうしゆうの産で、日本近海の小粒な真珠採取には多少の経験を持っていたから、特に興味をもって業態を学び、自得するところがあった。これがそもそも彼の奇怪にして不幸な運命の元をなすに至ったのである。

 昇竜丸の修理成って、木曜島を出帆、シンガポールから大陸沿いの航路をすてて、ボルネオ、セレベスにはさまれたマカッサル海峡を、ボルネオ沿いに北上した。今やボルネオの北端に達してスールー海に近づいた折、又しても暗礁に乗りあげてしまった。船員たちの一両日にわたる忍耐強い努力の結果、ついに満潮を見て自力で離礁することができたが、この悪戦苦闘の最中に、そこの海底が木曜島にもはるかにまさってしろちようがい、黒蝶貝の老貝の密集地帯であることを発見したのである。

 後日に至って、スールー海が真珠貝の大産地であることは世界に知られるに至ったが、当時は全く知る人のない秘められた宝庫だ。のみならず、船長畑中利平、通辞今村善光らの手記によれば、この秘境は今日真珠の産地たるスールー海のどの地点でもなく、ボルネオの無人の陸地に沿うたサンゴ礁の海底で、今日もその名を知られず所在を知られぬ未開の秘境であるらしい。

 昇竜丸は無事故国に帰りついたが、帰国の途次、畑中は船員にはかって、

「木曜島でしようして白蝶貝の採取を見学しての帰路に又坐礁して白蝶貝黒蝶貝の無数にしきつらねた海底を発見するとは海神の導きと言うよりほかにないようなものではないか。オレは幸い房州みなとの産で、そこの海には八十吉に清松という二人の潜水の名人が居て、その技術は木曜島で見た潜水夫の誰よりも秀でているのをこの目で見て知っている。木曜島では二十ひろから三十尋の海底だったが、あそこの海では十尋から十五尋の浅海に差しわたし一尺の余もあろうという老貝がギッシリしきつらねてあるのだ。その上、付近の陸地は全くの無人の地、通る船舶もほとんどなく、密漁を見破られるという心配は百に一ツもないようだ。一つ八十吉と清松を仲間にひきいれて、真珠採りとシャレてみようではないか。れも、秘密、秘密」

 と、畑中は無類に豪気の海のつわもの、実際はよくしんよりも冒険心にうずかれたのだ。正直のところが、真珠採りとシャレてみようじゃないかという豪快な遊び魂が頭をもたげての話であった。

 木曜島で盛大な真珠景気を一見して大いにあおられてきた一同に異存のあろうはずはない。船長畑中の気風に心服している一同でもあるから、たちまち雄心ボツボツ、はやる胸をジッと抑えて、何食わぬ顔で祖国へ上陸したが、手筈は充分に打ち合せてあるから、船を修理に入れると、それぞれ受け持ちの任務を果して、畑中からの報知を待っていた。

 畑中は印度インド洋からセイロン、ボンベイへの航路調査を願いでて、再度の就航の許可を得た。さっそく密々に小湊へ走って、八十吉、清松両名に相談を持ちかけた。

 八十吉は二十八、清松は二十六。先祖代々海で育ち、海で働く男の中でも特にアワビ採りの名人だ。三十米ぐらいの海底なら裸潜水で楽にやる。潜水服はつとに英国シーベ会社のかぶと式潜水器が輸入され、日本でも和製のものが明治五年にはすでにつきしまの民間会社で製造されていたのである。主としてアワビ採りに用いられていたのだ。

 潜水夫の最も優秀なるものはアラブ人で、これに次ぐ者は沖縄人であるという。ペルシャ湾のアラビヤ沿岸が世界最良の真珠産地で、アラブ人は先祖代々真珠採りが主要な業務、今もなお機械を用いず、裸潜水一点張りでやっている。沖縄人も裸潜水をよくし、特に秀でた者は三十尋の海底まで裸で達すると言われている。

 八十吉に清松はそれ程の深海まで裸で潜るのは不可能であるが、アワビ採りでは抜群の巧者。機械潜水ならば三十尋から四十尋の海底で一時間近い作業をつづけて、殆ど潜水病も経験したことがない。それにはたいおいて恵まれているばかりでなく、用心堅固で、良く身を慎しみ、かりそめにも海を侮ることがないせいである。

 八十吉、清松も血気の若者、海に生れ、海に生きるからには、魔魚毒蛇のみかともはかられぬ遠く南海の底をさぐって、白色サンゼンたる大きな真珠を採ってみせたい。畑中の巧みな弁舌に説得されて、雄心やる方なく、協力を承諾したが、海底の勇者は細心である。十尋から十五尋なら裸潜水も不可能ではないが、未知の海ではどういうしようがいに会うかも分らない。機械潜水の万全の用意を申しでた。

 八十吉も清松も息綱持ちに各々の細君を使っていた。一般に深海作業になると、とても非力な女などでは綱持ちの大役はつとまらないと言われているが、彼らの妻女はいずれも海女あまで育ちあがった海底の熟練家。海の底を近所の街よりも良くみこんでいる。息綱握って加減をはかり、海底の良人おつとの様子を手にとるように知り分ける名手であった。二人の潜水夫にとっては、かけ代えのない綱持ちなのだ。

 次には呼吸の合った潜水船の船頭が必要だ。綱持ちの要求に応じて敏活に船をさばく両者のれが必要なのである。

 又、二十尋の海底で作業するとなると、ポンプ押しに十五、六名の屈強な若者を必要とする。これらの人数を全て揃えること、又、使い馴れた潜水船を積みこんで行くことも必要だ。ポンプ押しには船員を代用することが出来るが、船頭の竹造と、八十吉の妻キン、清松の妻トクの三名はどうしても連れて行かねばならぬ。又、竹造の潜水船も積みこんで行かねばならぬ。

 こうして八十吉ら五名の男女は畑中の注意にしたがい、沖へかせぎにと称して郷里をたち、昇竜丸に乗りこんだのである。昇竜丸は誰の怪しみをうけることもなく出帆した。


    *


 船には女は禁物という。その女を乗せるについては、畑中もはなはだ不安にかられた。しかし息綱持ちが彼女らに限るとなれば、どうにも仕方のないことだ。

 日数を重ねて目的の地に近づくころから、彼の不安が事実となって現れてきた。以前の航海ではこれ程のことはなかったのに、なんとなく船全体が殺気をはらんで息苦しい。船員たちが二人の女を見る時には、すでに優しさを失い、最もまわしい物を見るような憎みきった目付きになり易いのは、愛慾が野獣のものになりかけている証拠であった。

 キンもトクも同年の二十三。息綱を持つだけが能ではなくて、今も海底へくぐって海草や貝を採る海女でもある。その肉体はハチ切れるように豊かにのびて、きんせいがとれ、まるで健康そのものだ。キリョウも満更ではないから、この際ますます困り物というわけだ。

 この船の料理方の大和やまとは船底のボス、深海魚のような男であった。彼は海の浮浪児だった。子供の時に密航を企てて外国船に乗りこみ、それ以来、外国商船や捕鯨船の船員として七ツの海を遍歴してきた荒くれだ。それだけに、海についての経験は確かである。特に外国航路ともなれば、船長とても彼の経験にすがらねばならぬ。外国の港で水や燃料の積込みから、腐らない安酒の買い込みまで、大和の手腕にたよらなければならないのである。

 大和が料理方というポストを自ら選んで占領したのも、料理の腕があるからではなく、船内の特権を独占するためであった。彼は他の船員をアゴで使って料理に立働かせ、自分は終日酔いどれていた。そして他の船員が酒や特別の食物を所望する場合には、金銭でなければ何かの義務で相当の代価を支払わねばならなかった。

 大和を最も憎んでいたのは、通辞の今村善光だ。彼は元々船員ではない。海外への処女航海というので、通訳方に雇われたインテリで、この船内ではただ一人の文化人であった。

 今度の航海が真珠の密漁のためであっても、名目は外国への航海だから、今村は再び乗りこんでいる。否、恐らくこの航海の目的に対して、最も深い関心と執念を蔵しているのは彼であったかも知れない。彼は木曜島で見た真珠景気が目にしみて忘れられない。真珠貝の採取場の移動につれて、名もない浜辺に一夜にして数千数万の市が立ち、南洋土人の潜水夫やその家族に立ちまじって富裕な仲買人や船主や銀行家が従者をつれ高価な葉巻をくゆらして通り、又その家族の白人の美しい女たちや黒いながらも神秘なまでに容姿端麗なアリアンの美女が白衣をまとうて木陰に憩うていたりする。一夜づくりのテントの下で美女をはべらせて盛宴をはる紳士たち。一粒の真珠のために全てをささげて悔いることのない美女の焼きつくような情炎が舞い狂っているのだ。

 日本近海の真珠はアコヤ貝と称する真珠貝から採れるのであるが、これは小粒だ。最も大きな真珠は主に白蝶貝から採れるのである。この貝は三十センチにも達し、そのような大きな老貝に限って大きな真珠を蔵しているが、真珠船が集ってくるとたちまち老貝は採りつくされてしまうから、まだ潜水夫のくぐらない処女地へ一足先に潜るために船主は場所を争うのである。

 昇竜丸の発見した海底に於ては、木曜島に於て見かけることのできなかった一尺余の老貝がしきつめているという。又、六寸七寸の巨大なくろちようがいの群生地帯もあるという。この黒蝶貝はまれに黒色の真珠が現れることがあって、それはほとんど値に限りのない珍宝である。

 今村は冷静な現実家で、夢想癖には無縁の男であったから、木曜島にいる時には真珠景気にげんわくされもしなかった。しかし今や世界に比類ない真珠貝の群生地帯へ自ら急ぎ行く身となっては、猛然として頭をもたげてくるものは現実的な慾念であり、情熱であった。かの神秘なまでに端麗なアリアンの美女も彼の手にとどかぬ物ではなくなったのだ。

 二人の若い女が船に乗りこむと聞いた時に畑中よりも不安を感じたのは彼であった。彼は乗船に先だって畑中を訪ねて、

「息綱持ちがその女に限るとなれば仕方がありませんが、その代り、料理方の大和を解雇してもらいたいものです。あの猛毒の深海うなぎめが船内にトグロをまいている限り、女が乗り組んで、船に異変が起らぬということは有り得ません」

「自分もそれを考えないではないが、板子一枚下は地獄と言う通り、船乗りには身についた特別の感情があって、ともに航海するものは盟友であり、家族でもあるのです。女が乗りこむからと言って、その為に家族の一人を除くというのは情に於て忍び得ません。そのことからも不吉な異変が起りかねないという感じ方もあるものですよ。ここは船長たる自分にまかせていただきたいものです」

 こうなだめられると、船員でもない今村がたって言い張るわけにはいかない。

 畑中は船が東京湾を出たころ一同を甲板によびあつめて、

「さて、この航海に限ってお前たちに堅く約束して貰わねばならないことが一つある。ほかでもないが、船内のバクチを一切慎んでもらいたい。船乗りにバクチは付き物だが、給料をけるのとはワケがちがって、この航海にはお前たちの一生を保証するかも知れないほどのばくだいな富が得られるかも知れないのだ。それを当てにバクチをやると、元も子もなくなってしまう。せっかくこうして心を合せて冒険をやったがなくなるから、バクチだけは絶対にやってはいかんぞ」

 こうくぎをさしたのは、大和が目当ての言葉であった。彼はバク才にたけ、あらゆるインチキの名人だった。碁将棋まで達者なものだ。しかも一方的な勝ち方をせずに、勝ったり負けたり巧妙にバク才を隠して、結局小さく負けて大きく勝つ。いつも最後に勝っているのは大和であるが、いかにも際どい勝負に持ちこんでおくから、腕の相違が悟られずに、今もってカモになる者が多かった。

 航海も日数経て、女がいるだけ、りように苦しむと始末にこまる。大和が誘いの水をむけて、

「ナニ、真珠を賭けなきゃいいじゃないか。いつものように給料でやりゃアいいんだ。それなら船長も文句があるめえ」

 こう言われると、ほかに気晴らしのない船中生活、誘惑に勝てないのである。いつしか大ッピラにやるようになり、畑中の耳にも届いたが、イエ給料でやるんです、と言われると、たって止めることもできない。しかし、実際の勝負はいつか給料をハミだして、彼らのメモをみれば、船員の普通の収入では賄いきれぬ多額の貸借になっていた。

 ところが、困ったことには、潜水夫の清松が生来のバクチ好きである。幼少から潜水を仕事とも遊びともして先輩の行跡を見て育っているから、潜水病の恐るべきことは身にしみて知っている。ず花柳病にかかって潜水するとテキメンにやられる。殆ど即死の大患にやられるのである。次に大酒がよろしくない。酒色を慎しむことが潜水夫の第一課だ。しかし清松は海の男の中でも音にきこえた豪胆者、酒色を慎しめばとて、持って生れた負けじ魂が縮んでしまったワケではない。それがバクチに現れるのである。

「ヤイ、清松。手前だけ女がついているからッて、男のツキアイを忘れちゃ済むまい。いちゃつくだけが能じゃねえやな」

 と大和にひやかされると、根が好きな道、腕に覚えもあるから、何をしやくなと仲間に加わる。それからこッちバクチに明け暮れている。兄貴株の八十吉と船頭の竹造が心配して、女房トクと力を合せて時々いさめてみるが、利き目がない。畑中も見かねて清松をよびよせて、

「船中生活の無聊にバクチにふける気持は分るが、あの大和はちょッと心のよからぬ奴、賭の支払いで苦しんでから悔むのはもうおそい。今のうちにやめなさい」

「なアに、あんな奴に負けやしません。たいがい勝ってるのはオレの方でさ」

「それがお前の心得ちがいだよ。私も長い船乗り暮し、だいぶお前よりは大人だから目は肥えている。あの大和は実に驚くべきインチキバクチの天才だよ。何年となく負けつづけているこの船の乗員どもが、今度こそは大和に勝てるという気持をすてることができないのは、よほどバク才のひらきが大きいからだ。今にしてやられるにきまっているから、今のうちにやめなさい」

「アッハッハ。海の底の仕事場のオレたちには、水の上じゃア虎や狼とでも遊ぶ気持になりまさア」

 大胆不敵な清松はとりあわない。大和は清松の気質をのみこんだから、こ奴め良きカモ、今に鼻面をひきずりまわしてやろうとほくそ笑んで、先を急がない。大悪党の大和は時期を心得て焦らないが、ここに五十嵐いがらしという図体の大きな力持ちの水夫が、女色に飢えて、ひねもす息苦しい思いをしている。トクとキンの姿を見ると思わず抱きつきたい程の逆上的な衝動に襲われるのである。清松の太々しいバクチぶりに相好をくずすのは五十嵐であった。

「オイ。ナ。オレの真珠のもうけをそっくり賭けるから、お前は女を賭けようじゃないか」

 一日に二度も三度も持ちだす。清松の方は驚きもしないが、これをきいてサッと緊張し、たちまち血相が変ってくるのは一座の水夫どもである。思いは同じ、焼けつくような情念なのだ。これをきいてゆうゆうとせせら笑ってみられるのは大和だけであった。

「よさねえか。色ガキめ。潜水夫と綱持ちは一心同体のものだ。この野郎が夫婦げんを始めちゃア、こちとらの真珠がフイにならアな。慎しみをわきまえぬ色ガキったら有りゃしねえや」

 大和は五十嵐をたしなめておいて、清松に向い、

「この野郎どもの思いつめた顔付を見なよ。一様に血相変えてカタズをのんでいやがる。大事の女房を部屋から出すんじゃねえや。こいつらは女に飢えた狼だからな。男だけの船へ女房つれて乗りこむお前も大馬鹿野郎だ」

 酔いどれても大和は落付きを失わなかった。そのお陰でらんもなく、昇竜丸は目的の海に辿たどりついたのである。


    *


 今日は作業の第一日目。まだ本作業にはかからない。裸で潜って海の底を見てくるのだ。八十吉も清松も白蝶貝を知らないのだ。南洋の岩礁の状態についても何の知識もないから、今日は海底見学というわけだ。

 陸の山々はジャングルに覆われて真ッ黒だ。やがて昇竜丸と陸地の中間の黒い岩が波に洗われつつ頭をだしている。いよいよ干潮が近づいたのである。水夫たちはげんそくから竹造の潜水船を下す。下し終って竹造と八十吉と清松が乗りこむ。その時、水夫たちは驚きの余り目をまるく、息をのんで棒立ちとなった。

 水夫たちをきわけて舷側へ進んで行くのは、キンとトクだ。そでの短いシャツのような白ジュバンに白パンツをはき、頭髪をキリリとぬぐいで包んでいる。今日は彼女らは綱持ちではない。良人おつとにつづいて彼女らも海底を見てくるのだ。息綱を使うには海底の状態を知っているのが要件なのだ。

 彼女らは黙々と梯子はしごを降る。それにしても、この二人の海女あまたいはスクスクと良くのびている。真ッ白な長い脚も美しいが、キリキリと腹帯をしめた細い腰を中にして、胸のふくらみ、豊かな腹部が目を打つのだ。白布に覆われているために、あやしい夢の数々を全てよみがえらせてしまうようだ。

 畑中も小舟にのりこんだ。彼が山立てしておいた海面へ小舟は進んでゆくのである。四名の男女はタコメガネをかけ口中にナイフをくわえて十ひろに足らぬ浅海から順次潜水をはじめる。その海底は見渡す限り花リーフの大原野であった。大きな魚が逃げもせず目を光らせているのもあれば、悠々と通りすぎて行くのもある。いわにかこまれた広い砂原にでる。そこに大きな皿を二枚立てたように並んでいるのがしろちようがいであった。近づくとスウとふたを閉じてしまう。強いヒゲですがりついているから、手でひいても動かない。小刀でヒゲを切って採るのである。リーフ原の海底には急潮がうずまいて、相当にほんろうされる。しかし、色彩が豊富で、美しく、魔魚毒蛇の幻想に悩むことがないのであった。

 十米から二十米、三十米の海底に、綱につけた四貫ほどの鉛を抱いて急降下する。降下の途中は暗黒だが、底につくと、明るくなる。その辺が彼らの仕事の地点で、うすく白砂に覆われた砂原が点在し、白蝶貝の巨大なのが、いたる所に皿を立てているのであった。

 四名は一団にかたまりつつ、四時間ほども海底を潜りつづけた。二人の海女が海面へ浮上して一息つくたびに、昇竜丸の水夫たちはカタズをのんでその顔だけの女をにらみつづけていた。五百米も離れている。その顔は白い鉢巻がそれと分るぐらいにすぎないが、彼らにとっては数々の幻想のくめどもつきぬ泉であった。

 その彼女らを水夫にも劣らぬ情炎をこめて飽かず眺めていたのは今村であった。彼とてもまだ三十の青年だった。通辞といえば、その職業柄、そう堅くもない生活に通じ易いものではあるが、彼はこのように魅力の深い女の姿を日本において見ることは有りうべからざる夢のような気がしたのだ。夢想に縁遠い彼であったが、これが竜宮であろうか、あれはようせいであろうかとふと考えて見た。しかしそれは自分の心を偽るための見せかけだった。彼は余りにも強烈な欲情を自覚したくなかったのだ。彼は五十嵐や大和にも増して、色情に飢えた狼であった。

 潜水夫たちは上ってきた。二人の女が船へ上ると、男たちはそれをとりまいて、まるでふるえているように見えた。するとフラフラととびだしてきた一人の男が、まるで酔ッ払いがモミ手でもするかのように身をかがめたと思うと、キンのしりを拝むように押えていた。しかし彼はその手に力をこめることができなかったばかりでなく、押えたハズミに全身の力がぬけたのか、ガックリひざまずいて、うなだれてしまった。しかし、うなだれる一瞬早く、彼の目は赤い炎をふきあげてキンの尻に食い入るばかり見つめたさまじさを人々は見逃さなかった。

 人々は魂をぬかれたバカのように、それを黙って見つめた。キンが身をひいて走り去ると、人々ははじめて息をついたが、誰も言葉を発する者がいなかった。キンに抱きついた男は、実直のウスノロで通っている金太という三十三のこの船中では年配の水夫であった。誰も彼がこんなことをしようなどとは考えられないことだったのだ。

 今村はそれを見終ってせんりつした。それは金太の仕業に対しての戦慄ではなくて、金太が手に抑えたものの至上な魅力に対する戦慄であった。彼の目に、彼の心に、全身に蛇が宿ったのだ。

 翌日から正式の作業がはじまった。八十吉と清松は交代で潜るのである。畑中も潜水船に乗りこみ、十五名のポンプ押しが交替でポンプを押すのを指揮するのだ。万一のことがあっては困るから、大和や五十嵐や金太はポンプ押しから除外されたが、五十嵐はしつようにポンプ押しを志願した。それはポンプ押しの小船の上に二人の女が居るためであった。

 彼らが予期した通り、この海底は巨大な白蝶貝の無限のせいそく地帯であった。黒蝶貝も多かった。八十吉と清松は、木曜島の潜水夫等が一日に三ツしか見つけることができないような老貝を、それ以上の物を含めて、潜水中のあらゆる時間、ほとんど探す手間もなく採ることができるのである。夕方までに採った貝は数をかぞえて一夜をすごし、翌日の夜明けを待って、各人の見ている前で、畑中自ら貝をさいて、真珠を探すのである。

 真珠はその形成される場所によって品位の差がある。大別して袋真珠と筋肉真珠にわけ、前者の方が優良品である。袋真珠の中でもがいとうまくの周辺組織内にできる物が形も色も光沢もよく、比較的たまも大きい。貝殻のちようつがいに相当する外套膜にできるものは不正形であるが、非常に光沢のよい長円形の物が生ずることがある。外套膜の中央部、内臓を覆う組織の中に生じるものは一般に小形である。以上の袋真珠に比して筋肉真珠は形も光沢も悪く、殆ど宝石の価値を持たないものだ。

 しかし、いかな白蝶貝の老貝とはいえ、どの貝からも真珠がとれるというようなザラに在るものではないのである。しかし白蝶貝は、真珠がなくとも貝殻自体が装飾品として相当の値(今の値で千五百円、二千円ぐらいか)で売れるのである。

 昇竜丸が発見した海底の真珠貝は、貝殻も巨大であるが、真珠の含有率もはなはだ良好であったのみならず、良質の真珠が多く、畑中の指が銀白色の真珠をつまみだすたびに、期せずして一同の口から歓声があがった。

 採った真珠は数的には公平に分配することになっていた。ただ各自が真珠を選びとる順序があった。第一は畑中、次は八十吉、清松、竹造の順で、それ以後は船員の階級順であったが、今村は臨時の乗員であるために下級水夫の上位、ほぼ全員の中間ぐらいに位していた。ドン尻がキンとトクの女子であった。真珠の数の有る限り、何回でもこの順序で自分の物を選びとることを繰返すのである。これは畑中の発案で、彼としてはこれで公平と思っていたし、事実労資の分配率ははるかに差の甚しいものであったから、予測せざる現実が起きるまでは、誰一人異見を立てなかったのである。

 日を重ねるに従って、上質で大粒の真珠がその数を増していた。こんな光沢の良い大粒のものが一ツでも自分にまわればと思うような物が、たちまち全員に二ツも三ツも廻るような目ざましい収穫であるから、船員たちの潜水夫に対する態度にも多少改まったものが感じられるように思われた。

 四十五日目のことであった。その化け物の如くに巨大な黒蝶貝を採ってきたのは清松であった。翌早朝、ず畑中はその貝をとりあげて一同に示した。

「黒蝶貝の主だぜ。得てして、こういう怪物は神様の御神体と同じように、カラでなければ、とんだ下手物しか出ないものだて」

 今までの例がそうだった。しかし畑中は殻をさいて外套膜に手をふれると、にわかに緊張して、不思議そうに一同を見廻した。

「ハテナ。こんなところに大きなコブが。まさか、これが……」

 彼がナイフをとりあげて、注意深く肉をそいで行った。やがて指をさしこんだ彼は、まるで泥棒と組打でもするかのように、口を結んで顔をゆがめた。彼の指がつまみだしてきたものは、黒色サンゼンたる正円形の大真珠。なんという大きさだろう。今まで採った最大のものを五ツ合せても足りないほどの大きさである。実に三百グレーンの世界に無二の黒色大真珠であった。

 清松はその真珠を借りうけて、眺め入った。黒蝶貝といっても、主として中から現れるのは銀白色の真珠で、黒色の物が現れたのは始めてだった。なんという光沢だろう。あの月輪のような光沢の輪が、黒く冷めたく無限の円形を描いて人の心を冷めたく珠の中へ吸いこんで行く。その珠はやや大型のラムネ玉ほどの物ではあるが、その奥の深さは無限なのだ。宇宙と同じ深さが有るとしか思われない。

「怪物のような老貝には、さすがにこんな宝石があるのだなア。せっかくオレの手で貝を採りながら、この宝石が自分の物にならないのだなア」

 その日から、海底へ潜る清松のはくが違った。彼が宝石を選ぶ順は三番目だ。同じような宝石をもう二ツ採れば一ツは自分の物になるのだ。ようし、必ず探してみせる。それは不可能なことではないはずだった。なお海底は無限の老貝を蔵しているのだ。

 彼は必死に老貝を探した。怪物中の怪物を物色して、一時も長く水中を歩きたいと念じつづけた。それから四十五日たった。二度目の四十五日。それは不思議な暗合だった。彼は白蝶貝のいまかつて見ぬ巨大なものを見出したのである。彼はそのヒゲをきりとるのに相当の時間を費したほどであった。

「ほう、今度は白蝶貝の主だな」

 貝を一目見て畑中は軽くつぶやいたが、清松のただならぬ顔を見ると、ゾッとして口をつぐんだ。殺気であろうか。何か死神の影のようないんうつなものが、その顔から全身から沈々と立ちのぼっているように見えた。

 作業を終って昇竜丸へ帰ると、清松は畑中に頼んだ。

「済みませんが、その白蝶貝だけ、今さいて見せてれませんか。中が見たくて仕方がないものですから」

「そうかい。なるほど、こいつは確かに白蝶貝の主だなア。これを採っちゃア中があけてみたいのは人情だなア」

 そこで一同を甲板へ集めて、その老貝だけさいたのである。はからざることが起った。黒真珠の更に倍もあるような、白銀色サンゼンたる正円形の巨大な真珠が現れたのである。実に五百三十グレーン。世界最大の真珠である。古来の伝説に於てすら語られたことのない巨大な真珠であった。

 その真珠を手にうけとって眺めまわしていた清松の額から冷汗が流れ、目が赤く充血してきた。吐く息が苦しくなった。人々はあつにとられて彼を見つめた。清松は黙々と宝石を畑中に返した。すると彼はそのままゴロリと後へ倒れた。

「アアッ」

 叫んだのはトクと八十吉とキンと竹造と同時であった。トクは走り寄った。

「潜水病だ!」

 八十吉は仁王立になって、

「まだ陽もある。波も静かだ。海底へ降してふかすのだ。早く手当てすれば、早く治るのだ。潜水船を降してくれ」

 清松は巨大な真珠にめしいて無理をしたのである。老貝を探すために一時も長く海底を歩こうとした。老貝を探してつい深海へも降りて行った。その無理からである。ふかす、というのは当時にける唯一の療法。自然にあみだした日本潜水夫の療法だが、理にかなっているのである。つまり病人をもう一度深海へ降すのだ。軽症ならば、深海へ降すと、そこにいるうちは治った状態になる。これを徐々に上昇させて、くり返すうちに全治させる方法であった。

 幸い清松は軽症だった。肩から両手にかけて、又、ひざの下にしびれが残った程度で、三日もたつと激しい苦痛はなくなってしまった。

 積みこんできた食糧や水の用意が心細くなっていた。しかし清松をふかさなければならないので、畑中は一同が帰国を急ぎたがるのを制していたが、五日すぎて清松の身体に肩の痺れが残っているだけ、もう水中へ降さなくとも自然に全治すると分ったので、いよいよ出帆、帰国ときめる。その晩は酒を配って長々の収穫を祝う。

「さて、明日は一同に真珠を分配するぜ。まったく木曜島あたりじゃ想像もつかないような大収穫だ。帰国の途中には広東やこうしゆうなどのシナのにぎやかな港によるから、早く金に代えたい者は代えるがよい。一番不足の取り分の者でも、三万や四万円にはなるはずだ。世界一の首飾りの玉の一つになるようなものを誰でも一ツ二ツは手に入れるのだから豪勢だ。真珠は銘々が控えもあることだし、一ツも不足なく金庫に眠っているから、明日を楽しみに今日はゆっくり飲むがよい」

 そこでその晩は大酒盛りになった。畑中は特に八十吉夫婦と竹造ならびに今村を船長室に招待して労をねぎらう。清松はまだ病気が全治といかないので、酒を慎しみ、トクと共に自室にこもって出なかったのは幸運であった。八十吉は今は任務を果して心にかかることもないから始めて酒をすごしてめいていした。と、酒宴の途中にヌッと姿を現したのは五十嵐であった。彼は目を怒らせて、

「船長。今晩は特別の宴会だ。女を独り占めにしちゃア困るじゃないか。オレたちの席へも女をまわしてもらいたい」

 すでに大酔しているのである。畑中はかねてこういうこともあろうと用心して、女たちの姿をなるべく男の目にふれさせぬように配慮している。この船の船室は前後二房に分離されていて、一方は船員一同の雑居室であるし、一方は船長室のほかに三室あって、八十吉と清松夫婦は各々一室を占め、それまで一室を占めていた今村は竹造との同居を余儀なくせしめられている。彼らは便所なども他の船員とは別個のものを使用し、全く両者は分離された生活を営んでいた。船員たちは船長室の前を通らなければ奥の三室へ赴くことが不可能であった。もしも船長がその廊下にかぎをかければ何人も彼らの生活にふれることはできないのである。畑中は水火をくぐってきた豪の者、五十嵐が大力の乱暴者でもビクともするような者ではない。

「女をまわせとは何事だ。かりそめにもこの畑中がお預りした客人、お前らの手の届くものではないぞ。この船中に女などは居ないと思うがよい」

 しかし五十嵐は尚も執念深くキンにすり寄ろうとするから、畑中もたまりかねて襟首をとって突きとばす。武道に達しているから、五十嵐は一たまりもなく廊下の外へケシ飛んで、恨めしげに起き上り、

「よくもやったな。いつまでも貴様の一人占めにさせておくものか。オレにも覚悟がある。覚えていろ」

 捨てゼリフを残して立ち去った。

「酒を飲ませると、すぐこれだから困ったものだ。しかし今夜であらかた飲みほしてしまうから、明日からはこんなこともあるまい。又来るとうるさいから、おキンさんは先にひきとってカギをかけて休みなさい」

 キンをひきとらせて、男だけでますますメートルをあげる。畑中とても男、何か月もの独身生活の味気なさ、なまじ触れられぬ女などは目先に居ない方が清々と酔っ払えようというものだ。

 そこへ再びドヤドヤとあしおとがして、五十嵐を先頭に四、五名の水夫がなだれこんだ。畑中は素早くヒキダシのピストルをとりだして構えながら、

「オレも船長をつとめて久しいが、こんなに手数をかけるのは貴様だけだぞ。場合によってはち殺すから、そう思え」

 五十嵐もピストルには顔色を変えて、

「何も手数をかけてやしないよ。女をまわすのがイヤなら、オレたちをこっちの仲間へ入れてくれてもいいじゃないか」

「この部屋に女がいるか、よく見るがよい」

「フン。仲間にも入れたくねえのか」

 今村がたまりかねて立上って、

「何も仲間に入れないわけじゃアない。女はもう寝てしまったのだ。オレたちだけがこッちにいるからお前らもひがむのだろう。オレたちがお前たちの仲間に入っておれば、お前らも後顧のうれいなしというわけだ。八十吉君も竹造君も彼らと一しょに飲もうじゃないか。我々だけがここにいると、彼らの妄想は益々ふくらむばかりだからな」

 こう五十嵐をなだめ、八十吉と竹造をうながし、連れ立って立ち去った。

 竹造は無頼の酒好きだ。酔いつぶれるまで飲みたい男だ。真ッ暗なデッキを通り、雑居の大部屋で、薄暗いロウソクのちらつく影を目にしませながら飲みだしたまでは覚えているが、ふと目を覚すと真ッ暗で、あたりはイビキ声でいっぱいだ。又、ねこんで、翌朝目をさますとそこは雑居の大部屋である。ソッとぬけだして、デッキを渡り、船長室の前まで来ると、そこにあおざめて立ちすくんでいるのはキンであった。キンは黙って船長室の内部を指した。畑中が殺されているのだ。ひじかけ椅子に腰かけたまま眠っているところをモリで一刺しに心臓を刺しぬかれたらしい。そのモリは椅子の背にまで刺し込んでいた。そして、金庫が開け放されていた。白黒二ツの大真珠が姿を消していたのである。

 キンはよく眠った。ふと目をさますと、もう夜が明けているのに良人おつとの戻った形跡がないので、心配して船長室まで来てみると、畑中が殺されているのを発見したのである。

 船中くまなく探したが、キンの良人八十吉と二ツの真珠は再び現れてこなかった。


    *


 畑中変死の報に面色を失ったものは大和であった。彼の頭にひらめいたことは真珠であった。さっそく彼を先頭に金庫を調べると、白黒二ツの大真珠のほかには小粒一つの異常もない。

「フン。たとえ腹の中へみこんで隠しても、日本へ帰るまでには見つけだすぜ。船の外には出られないからな」

 大和は一同を見渡してせせら笑った。船長のたいは水葬にし部屋はれいに掃除させた。

「今から日本へ帰るまではオレが船長代理だ。不服のある者は言ってみろ」

 彼はこう言いながら船長室のヒキダシから持ちだしたピストルをガチャつかせた。

「異議なしときまれば、これから船内の捜査だ。どこへ隠しても、天眼通大和の眼力必ず探しだしてみせるからな」

 今村、清松、八十吉の部屋から順次隈なく調べた。身体検査もしたが、どこからも現れてこない。ついで船員一人一人について同じように検査をしたが、徒労であった。大和はそれしきのことで落胆しなかった。一同に足止めし、数名の者を率いて船内隈なく調べたが、出てこない。大和は益々せせら笑い、

「ナニ、今日一日で捜査が終るわけじゃアねえや。日本へ戻りつくにはまだ相当の日数があると覚えておいてもらいてえな。人殺しの罪人になりたくねえと思ったら、金庫の中へたまだけ戻してくれてもいいや。人殺しの犯人なんぞこちとらは、気にかけねえやな。盗ッ人だけは勘弁ならねえ」

「怪しいのはお前じゃないか。この船内で捜査をうけていないのはお前の身体だけだ」とたまりかねて進みでたのは今村であった。

「フン。面白い。探してみねえ」

 大和はアッサリ上衣をあけて、捜せ、という身振りを示した。今村は衣服の諸方に手をふれてさいに調べ、更に彼の所持品を提出せしめて調べたが、そこにも宝石の姿はなかった。

「オレが犯人でないことは分りきっているが、片手落ちは確かによろしくねえな。オレの持ち物で調べてみたいものがあったら、遠慮なく探してくれ」

 大和はニヤニヤ笑いながら、

「さて次には真珠の分配だ。人様の品物を預っていて殺されちゃア合わねえや。早いとこ分配するからあとは盗ッ人に気をつけなよ」

 全員を甲板へよびあつめてすわらせ、その三間ぐらい前に白布を敷いて、その上に大きな盆に一杯の真珠を置いた。

「いいかいオレがこう横の方から見ているから、順番の者から白布の向う正面に坐って、皆にハッキリ見せながら、ピンセットで一ツだけ真珠をとるのだ。選ぶ時には手をだしたり、手にとり上げてはいけないぜ。ピンセットで一度つまんで手にとったものは、後に気に入らねえと言っても取り替えはきかないよ。目で選ぶのは自由だから、ぬかりなくやりなよ」

 彼は言葉をきって、改まり、

「さて、船長代理だから、オレが一番目だ。二番目は死んだ八十吉に代って女房キン。その後はかねての順番通りだぜ。オレの作法をよく見て、同じようにやるのだぜ」

 と、一同の正面にまわって白布に向って坐る。盆から二尺ぐらい離れている。両手をピタリとひざにつけ、首だけ突き延して仔細に盆の上をにらんだあげく、膝の前のピンセットをとって真珠を一ツつまんだ。

 次がキン、清松、竹造の順だが、清松は腕がしびれているからトクが代る。一順すると、再び同じ順にくりかえして、二十順ちかく、事故なく真珠の分配を終った。

 もんちやくは大和が船長代理として船長室へ部屋替えしようとしたことから起った。

 真ッ先に反対したのは、意外にも金太であった。このウスノロのどこから出たかと思われる強情なしやがれ声で、

「そんなことは、やらせねえ」

 金太の目はどういう感情のためか白目だけに見えた。南洋の太陽にけした真ッ黒の額に青縄のような静脈がまがりくねって浮きたち、白い歯をむいていた。彼の首をたたき斬っても、締め殺しても、これだけの首でしかないように見えた。金太は死人の首をつけて白目をグルッと返しながら、

「断じて、やらせねえ」

 と、もう一度叫んだ。しばらくの間、人々はポカンとしていた。自分の感情を金太だけが適切に出しきってしまったからだ。間もなく彼らは、同じ職人がこしらえた木像のように堅くなった。一時に同じ魂を吹きこまれたように、ムクムクとふくれて動きだした。彼らは一斉にわめきだしてしまったのである。

「そんなことは、やらせねえぞ」

「やれたら、やってみろ」

 ここで大和が折れなかったら、袋叩きにもきにもされたであろう。大和も案に相違の面持で、苦笑した。

「フン。そうか。見かけ以上に鼻の下が長すぎるな。女の襟足を見ただけでヨダレの五升は垂れ流す野郎どもだ。はばかりながら、大和はアキラメのいい男だ。そうまでヨダレが流したきゃア、オレはひっこんでやるだけよ。助平どもめ」

 大和はしばらく考えていたが、やがて今村を指した。

「お前は、あの部屋をでろ。そして、みんなと雑居しろ、どうも、なじめねえ野郎だ。船乗りの気持は分るが、貴様が何を考えているか、その気持だけは、てんで見当がつかねえや。貴様があの部屋にトグロをまいていちゃア、助平どもの気が荒れていけねえ」

「そうだとも、そうしろ」

 何名の者かが口々に和した。それが一同の同じ気持であったのである。今村も仕方がなかった。大和にせきたてられて、即座に荷物をまとめ、雑居室へ移らざるを得なかった。

 全てそれらの事どもに馬耳東風だったのは、キンと清松であった。キンは良人が死んだために。しかし、清松はなぜだろう。まったく彼は死神が乗り移ってしまったようにいんうつであった。潜水病のためもある。しかし潜水病の原因をなした願望こそは、彼に死神の陰鬱を与えているのに相違ない。三百グレーンの黒真珠も、五百三十グレーンの白銀の真珠も、失われてしまったのである。そして、船はすでに北へ北へ走っている。再び真珠を採る機会も失われてしまったのだ。

 根気を失わないのは、大和であった。彼は毎日船内を探した。人々の挙動を探っていた。しかし、発見に至らぬうちに、日本の山々が見えはじめた。しかし彼は船を去る瞬間まで希望をすてなかった。

 昇竜丸は先ず房州で清松らの一行をひそかに上陸させた。上陸前に、一行の荷物や全身を検査することを忘れなかった。それから横浜へ帰港して、畑中は航海中に病死し、ために船は目的地に至らぬうちに途中から引返したと報告した。そして彼らは怪しまれずに解散してしまったのである。


    *


 その時から三年余の年月がすぎた。

 あるひるさがりのこと、神楽坂の結城新十郎を訪ねてきた女があった。八十吉のキンである。折から新十郎のもとに花迺屋、虎之介、お梨江の三名が居合せたのは神仏がヘタの横好きにあわれみを寄せたもうお志か。この三名は私の仕事の助手、どうぞお心置きなく、と新十郎から言われても見れば見るほど取り合せの奇妙さ、キンもウカとは打ちとけられるものではない。しかしここが名探偵の偉いところ、助手にそれぞれ変化が与えてあるのだろうと思えばワケが分らぬことはないから、

「実は足かけ四年前のことから申上げないと分っていただけないのですが……」

 と、昇竜丸の秘密を一切うちあけて語った。キンは言葉を改めて、

「さて、本日お願いに上りましたのは、ほかでもございません。帰郷以来、私の不在中に留守宅を家探しする者がありまして、今までに、たしか五回、同じことをやられたのでございます。奇妙に一物も盗まれておりませんが仏壇の奥から米ビツの底までひッかきまわして参ります。誰かが盗まれた真珠を探しているのかと思いまして、トクさんや竹造さんにおきしますと、あの方々のところでは、そういうことがないとのお話。私だけが家探しをうけるイワレが分らないのでござります。主人が生きておればとにかく、行方知れずですもの、私の家こそ特別家探しを受けないのが当り前と申せましょう」

 キンは帯の間から一通の手紙をとりだして新十郎に見せた。

 手紙の差出人は大和である。新橋の某楼において昇竜丸の犯人探しの会を開くから出席されたい。当日の出席者は今村、五十嵐、金太、清松、竹造、トク及び自分の七名であるが、遠隔の地の人には旅費を支弁するから、万障くり合せて御参会願うという文面であった。犯人探しの当日はすでに明日に迫っていた。

「この手紙が届いたのは一週間ほど前のことですが、私は昨日まで考えたあげく、度々の家探しをされて痛くもない腹を探られるのもしやくですし、亡夫が他殺でありますなら、この際ハッキリ犯人をあげていただきたく、思いきってお願いに上ったのです。一切の秘密を申上げては他の方々に悪いようですが、この手紙で見ましても内輪だけの犯人探しなどといかにもふざけた様子ですから、いッそらちをつけていただこうとの考えでした」

「清松さんや竹造さんは出席しますか」

「あの方々とは近頃は親しい交際もありませんので、きいて参りもしませんでした」

「足かけ四年前の出来事といえば大そう捜査も困難でしょう。私のような者が出席して、皆さんの口が堅くなっては困りますから、隣室で皆さんのお話が伺えるようなはずを致しておきましょう。私たちがお話を立聞いているということが分るような態度をなさってはいけません。たとえば、強いて話をききだして私たちにきかせようとなさるような御親切はかえって無用にねがいますよ」

 さっそく新十郎自身明日の会場を訪ね、主人に会って、頼むと、そこは今評判の紳士探偵の顔、隣席に部屋をとってうまいぐあいに話をきくことができるように、新十郎直々見て廻って、部屋を選定することができた。

 新十郎の一行は、少し早目に会場へ行って、お客のフリをして軽く飲食している。

 隣室へ次第に人が集ってきた。五十嵐、金太、清松、竹造、キンの五名が集ったが、今村と、当の言いだし平が姿を現さない。五十嵐が大きな声で、

「犯人探しをしてオレに犯人を教えてくれるとは大和にしては出来すぎた親切だが、どうも、そこが臭いじゃないか。オレに犯人を教えてくれれば、相手次第では大そうユスリの役に立つからな。どうも話がうますぎらア。もう二時間も遅れているが、大和は来ないぜ。ここには何かいわくがあるらしいな」

 悪党の勘である。五十嵐はしばし考えていたらしいが、

「ザックバランにきくが、この中で誰か犯人に心当りのある者がいるかい」

 誰も答えない。

「そうだろう。オレにもてんで心当りがねえや。そこで、もう一つ訊くが、大和の奴が犯人を知ってると思う心当りの人はいるかね」

 それに答えたのは金太であった。

「これをここで言うのはつらいが、大和がしつこく訊くもので、教えてやったことがある。しかし、これはオレにも確かに犯人だと心当りがあることじゃアないのでな。知っての通り、オレは酒には弱い男だ。あの晩はいくらも飲まぬうちに苦しくなって、真ッ暗な甲板へあがって、ウトウトねこんでしまった。人の気配にふと目がさめると、二人の男が大部屋の方から出てきたと思うと、アッという小さな叫びを残して誰かが海へ落ちた様子。そこに誰かが一人残って立っているが、突き落したのか、自然に落ちたのか分らないし、真ッ暗闇で、誰とも分らない。あの晩は曇天のところへ月の出のおそい晩のことだからな。ただオレが知っているのは、二人は皆の騒いでいる大部屋の方からデッキを歩いてきたことと、残った一人は船長室の方へ降りて行ったということだ。ほかに行方不明は居ないから、海へ落ちたのは八十吉だ。もう、一人は分らない」

「たいそうなことを知ってるじゃないか。それでハッキリしているな。その男は今村だ」と五十嵐。

「ところが、そうはいかねえワケがある。翌朝オレが目をさましたとき、みんなまだ寝てやがるから奴らの顔を見てやったが、今村はオレたちの部屋にねていたぜ。それから竹造も寝ていたな」

 間をおいて、声を怒らして喚いたのは清松であろう。

「フン。それじゃア部屋にねていたのはオレだけじゃないか。オレが犯人というワケか。バカにするな。オレは第一、あの晩は酒も飲まずに寝ていたのだ。大部屋へなんぞ行きやしねえ。部屋の外でオレを見かけた奴が一人でもいるか、探してこい」

「誰もお前が犯人だと言ってやしねえ」と慰めたのは五十嵐。「これで読めた。大和は利巧な奴だぜ。奴は今村をゆすっているのだ。奴は尾羽うちからしていやがるし、昇竜丸の乗員で出世したのは今村だけだ。奴めはしば一寸ちよつとした貿易会社の社長だアな。だが大和の奴がこんな芝居を打つようじゃ、今村に泥を吐かせる確証がねえような気もするなア」

「どうも変だな。オレはたしかに八十吉がデッキから戻ってきたのを聞いた筈だが」といぶかったのは清松である。「あれはまだ宵のうちだ。九時半か十時ぐらいに相違ないが、金太が八十吉の落ちた声を聞いたてえのは朝方じゃアないか」

「とんでもない。オレがそれと入れ違いに大部屋へ戻った時は、だらしなくノビた奴も半分いたが、半分はまだバカ騒ぎの最中よ。九時半か、十時ごろだ」

「そのとき今村は大部屋にいたか」

「そこまでは気がつかねえや。なんしろバカ騒ぎの最中だし、半分は酔い倒れていやがるし、ロウソクは薄暗えや。オレは隅ですぐ寝ちまったからな」

「人が海へ落ちたのを見ていながら。だから、お前はウスノロてんだ」と五十嵐。

「だからよ。オレにしてみりゃア、船長室へ降りた奴が教えに行ったと思ってらアな。ふんづかまって働かされちゃアつまらないから、早く寝たんだ」

 その時、思いつめて問いただしたのは清松の声であった。

「おキンさんにきくが、八十吉は十時ごろ一度戻ってきやしないか。イヤ。たしかに戻ったに相違ない」

「いいえ。戻って来ませんよ。戻って来たとすれば、私は寝ていて知らなかったが、あくる朝の様子では夜中に戻った様子はありません」

「イイヤ。お前の部屋へはいった者がたしかにいた。オレはこの耳できいていたのだ」

「部屋の間違いじゃないの?」

「そんなことはねえや。オレの部屋の隣は船長室だ。オレの真向いがお前の部屋だ。今村の部屋はお前の隣り、船長室の真向いだが、二ツの扉はちょッと離れているぜ」

「なんだか気味が悪いわね。いったい誰が私の部屋へはいってきたの。私は寝ていて知りやしないよ」

「不思議だなア。あれが今村だとしてみると、どうもオレには分らねえや」

「いったい、私の部屋へはいった人が何をしたの?」

「それがハッキリ分らねえや。その男がお前の部屋へはいると間もなくオレは眠ってしまったんだ。ただ、オレが知っているのは、その男はデッキから降りてくると船長室へはいったのだ。三十分ぐらい船長室にいて、それからお前の部屋へ行ったのだぜ」

「船長室で何をしたの?」

「それがオレには分らない。別に話声もきこえないし、シカとききとれた音もねえや。どうもな。まさか人を殺しているとは知らねえや」清松は何となく言葉を濁した様子であったが、キンの反問が今度は鋭かった。

「人を殺した音がきこえなかったというの? 板一枚でさえぎられた隣室じゃないか」

「分らない時は分らねえやな。しかし、まさかお前の部屋へはいったのが幽霊じゃアないだろう。どうにもオレには分らねえ」

「もうよしねえよ」さえぎったのは五十嵐であった。「そんな話をしたって際限もねえや。大和と今村を待っていても仕方がねえや。オレは一足先に帰るぜ。今日はバカバカしい一日だったな」と、彼は立って帰ってしまった。残った四人はいかにすべきか相談していたが、これもず立帰ることにきまった様子。そのとき新十郎はガラリと障子をあけて、

「皆さん、ちょッとお待ち下さい。私はこういう者ですが、明日のおひるごろ、もう一度ここへ集って下さいませんか。今度は私の司会で犯人探しをやろうという趣向ですが」

 一度はこの伏兵に慌てたらしいが、みんな聞かれて名探偵に開き直られては仕方がない。問われるままに今夜泊るべき宿や住所をそれぞれ新十郎に答える。清松は怒って、

「オレたち四人だけ集めて、そんなことをしたって何にもなりゃしねえや。五十嵐を帰したのはどういうわけだ」

「あの人の行先は分っています。芝の今村さんのところへユスリに行っているのですよ」

「フン、そこまで分っていたら、今から行って犯人をつかまえてきな」

「どういたしまして、五十嵐さんが見込んだ程度の証拠ではユスリの種になりません。明日は五十嵐さんも、今村さんも、大和さんも皆さんに参集を願いますから、あなた方も必ずお集りをねがいますよ」

 そして四名を送りだした。キンは利巧だから、新十郎とは一面識もないフリを通して、別れを告げて立ち去った。新十郎が事もなげに犯人探しを言いだしたから、虎之介ははなはだしく解せない顔、

「明日犯人が分りますかい?」

「たいがい分るだろうと思います」

「大きな真珠もでてきますかね?」

「そこまでは分りませんが、大和という天眼通がノミ取りまなこで探しても出てこなかった真珠ですから、この行方は謎ですね。私はここで失礼します」

「オヤ? どちらへ?」

「ちょッと潜水夫のことを調べなければならないのです。さよなら」


    *


 虎之介は翌日早朝、例の如くに竹の包皮をぶらさげて氷川の海舟を訪問していた。この大隠居はいつも在宅してくれるから、こういう時には都合がよい。

 海舟は日本近代航海術の鼻祖、その壮年期は航海術が本職だから、海のことには通じている。しかし昇竜丸の冒険たんには甚しく驚いた様子であった。くわしく話をきき終って、ナイフを逆手に暫時悪血をとっていたが、

「虎や。おキンというのは美人かえ?」

海女あまにはまれな、十人並をちょッと越えたキリョウ良しでございます。何せスクスクとまことに目ざましいたいの女で」

「船長畑中、冒険心に富み、豪の者だが、心のゆるみによってしきよくに迷う。酒のなせる一時のイタズラ心だ。好漢惜しむべし。もう一歩控える心を忘れなければ、何事もなかったのだな。同席の男が揃って水夫どもの宴会室へ立ち去ったから、ムラムラと悪心を催した。おキンの私室を訪れて、これをごめにしたのが運の尽きさね。八十吉はその心構え細心な潜水夫だから、ガサツな水夫どもの酔いッぷりは肌に合わなかったろう。おキンのことで何かにつけて水夫どもにからまれもしよう。長座に堪えがたかったのは当然だな。一足先に戻ってみるとおキンの部屋から畑中が出ようとするのにバッタリ出合う。平素は一点非のうちどころもない船長だから、八十吉はとッさに怪しむ心も起らなかったかも知れないが、これには畑中の方が驚いたに相違あるまい。室内へはいられては困るから、その場をごまかして、言葉巧みに八十吉を誘い、デッキへ連れ去る。オレが見ていたワケじゃアないから、こうまで細かには分らないが、おおよその事情に変りはなかろう。策に窮した畑中は八十吉を海に突き落してしまったのさ。自室へ戻って残り酒をひッかけたから、にわかに疲れが出て椅子にもたれたまま寝こんだのだろう。おキンは利巧な女だから、あらましの事情を察して、畑中の熟睡を見すまし、モリを執ってただ一突きに刺し殺したのさ。日本の海女はモリの名手だよ。モリを片手に十ひろの海底をくぐって魚を突くに妙を得ている。海女の手中のモリは、虎の手中のはしのように自由なものさね。おキンがわが部屋を出て船長室に忍びこんだ物音はきこえないから、畑中を殺し、金庫をひらいて真珠を奪い、再びわが部屋へ戻ったおキンを、清松の耳はデッキを降りた男の仕業ときいているのさ。今日までは、これを八十吉と心得ていたから、清松はおキンの留守宅に忍びこんで、再々真珠を探したのだ。清松にはあきらめきれぬ真珠と見えるよ。西洋では宝石にまつわる怪談ほど因果をきわめた物はないぜ。古来本朝にその怪談が少いのは、貧乏な国の一得さ。これがさしずめ本朝宝石怪談の元祖に当るかも知れねえや」


    *


 昇竜丸の冒険談から殺人事件に至るまで首尾一貫して語るのにヒマがかかって、虎之介が海舟邸を辞去する時はすでに午になろうとしている。幸いそこからしんばしは程近いから、人力車を追いこしけつける。すでに一同集って、まさにプレーボール開始寸前。虎之介は海舟から借用した名句も心眼も用いるヒマなく、先ず息を静め汗をおさめるのにおおわらわである。新十郎はポケットから一枚の紙片をとりだして、

「さて、今村さんだけが、本日欠席されましたが、欠席の理由は後刻申し上げますが、ここに質問にお答をいただいた紙片がありますから全員参集と認めて犯人探しにうつります」

 新十郎は改めて紙片に見入った後、顔を上げてキンに話しかけた。

「昨日の話では事件の夜あなたの部屋を訪れた男がなかったとのお言葉ですが、今村さんの御返事では、そうでないことになっております。夜十時ごろ、今村さんはあなたの部屋へ忍んで参られたそうです。それに相違ございませんか」

 キンははくするどく否定の身構えを見せたが、余裕しやくしやくとしてなおすべてを知りつくしているらしい新十郎の落着きをみると、あからんでうなだれた。やがて顔をあげて、

「たしかに、そういうことがありましたが、私は前後不覚に熟睡して、はじめは全く気付かなかったのです。どうきんしている人が良人おつとでないと分ったのは、手の施し様のない状態になった後でした。又、その人が今村さんだということは、今まで知らなかったのです。良人ではない赤の他人の誰かだということだけしか知りませんでした」

 尚何か付けたして言おうとするのを、新十郎はおさえて、

「それだけおききすればよろしいのです。清松君がきいた音はソラ耳ではありません。しかし、その人は八十吉君ではなくて今村さんだったのです。ところで、今村さんが質問に答えた言葉に、こういう重大な一句がありますよ。今村さんが八十吉君をデッキから突き落して自室の方へ戻ったとき彼が発見したのは、すでに殺されていた船長でした。又、すでに開かれていた金庫でした。清松君が隣室に殺人の物音をきかなかったのは無理がありません。今村君が降りてきた時、すでに船長は殺されていたのですから、今村さんは清松君の証言通り三十分程船長室に居りました。なぜなら、彼もまた真珠を探したからです。しかし、それがすでに盗まれていることを知ると、次には、それを盗んだ者が何人であるかを突き止めることに努力しました。要するに殺した人が盗んだと思ったのですが、それは当然の著想だったと申せましょう。そこで殺人の現場をつぶさに調べたあげく、犯人を知る代りに、アベコベの物を発見しました。つまり失われたと諦めた宝石を発見したのです。宝石はしやのはいた靴のカカトにはめこまれていたのです。屍者は死の瞬間に足をったので靴のカカトが外れかけていたのです。それに注意した今村氏は、それが専門の靴屋によって精密に造られた二重底の宝石入れで、船長が今日あるを察して出発前に用意した密輸用の容器であるのを知り得たのです。二ツの宝石はその中にありましたが、今村氏はそれをポケットへ納めずに、再び屍者の靴のカカトの中に戻して、誰にも分らぬようにふたをしてしまったのです。なぜならもしも宝石を所持しているのを発見されると、船長殺しの汚名までこうむらなければならないからです。後刻、人々の油断を見すまして宝石をとりだす時間はあるものと思ったのでしょう。そこでロウソクをふき消し、扉をしめて廊下へでましたが、ええ、ままよと思い、すでに船長が死んでしまえば怖い者はありませんし、それが八十吉君を殺した動機でもありますから、にわかにたまらない気持になっておキン夫人の寝室へ忍びこんだのです。しかし、目的を果し、酔いがさめると、にわかにおそろしくなり、自分の部屋には寝ずに、既に人々の寝静まった宴会部屋へ戻って素知らぬフリで眠ってしまったのです。その結果として、大和君の傍若無人な船長代理ぶりに妨げられて靴のカカトの中の宝石は、ついに再び手中に収める機会を失したのです。従って世界に類なき宝石は、船長の屍体もろとも再び海底へ戻ったのです」

 新十郎はニコニコして一同をまわした。

「さて、みなさん。以上によって分りました如く、船長殺しの犯人は、それが目的であったにもかかわらず、二ツの宝石を奪うことができなかったのです。彼が開いた金庫の中には無かったのですから仕方がありません。そこで彼はどう考えたでありましょうか。すでに誰か先に盗んだ者があると思ったでしょうか。否々。船長はおおむね自室を離れませんから、その時までに盗む機会はなく、又、盗まれて気付かぬはずはありません。したがって、金庫の中になかったとすれば、盗まれた為ではなくて、始めからそこに無かった為であると思ったのです。彼はこう結論するに至りましたが、それは金庫を開いた当時ではなくて、後刻に至って冷静に考えてからのことでした」

 新十郎は又ニコニコと一同を見廻した。

「今我々は二ツの宝石が海底へ戻ったことを知っております。しかし今日までは今村氏以外の何人もこれを知ってはおりません。したがって、大和君の天眼通にも拘らず宝石が見つからないとすれば、それはどこかに巧妙に隠されているのだと推定せざるを得ません。しからば何人がそれを隠したか。その結論をだしうる人物は船長殺しの犯人だけです。すなわち、彼が金庫をひらいた時には、金庫の中には無かったが、船長室のどこかには在った筈であります。したがって、真珠が船長室からき消えたのは、彼がそこを立ち去った後、そして事件が人々に発見される以前であります。そして、それに当る時間に船長室にはいった人はただ一人しかありません。今村氏ただ一人です。彼は犯人が立ち去った直後に三十分も船長室を物色しているのです。ところが犯人はその人物を今村氏とは知りませんでした。その人物が八十吉君の船室へはいった故に、八十吉君だと思っていました。その結果はどうかと言えば、日本へ戻った八十吉夫人は、その留守宅を五回も搔き廻されているのです。そして、今村氏を八十吉氏と思いこんでいたのは、清松君一人であります」

 逃げようとする清松は、いつのまにやら後に忍び寄った花迺屋が苦もなく捕えた。田舎通人、いつもながら、この時だけはカンがよい。新十郎は清松を静かに見つめて、

「お前は一同が真珠を分配する時に、腕がしびれているからとトクを代理に出したそうだが、潜水病は偽りで、予定のカラクリではなかったかね」

 観念した清松は悪びれず答えた。

「真珠を手にとって見ているうちに、たしかに潜水病のキザシも起ったのです。しかし何となく切ない気持、さびしい気持で、たまらなくなってゴロリと倒れてしまったのでしたろう。フカシてもらっているうちに、潜水病は二日ぐらいで治りましたが、まだ治らぬ、手とひざが痺れていると偽って、畑中を殺す機会を狙っていたのです。まるであやしい夢を見ているような気持でした」

 それが清松の告白だった。おキンが新十郎に感謝の言葉をのべて、

「あの強情の今村さんが洗いざらい良くも白状したものですね」

 と、きくと、新十郎はいささかてれて、

「ナニ、さっきの逆をやったんです。つまり清松の告白書をこしらえて、いやおうなく問い詰めてしまったのですよ。昭和二十三年以後はこんなことはできなくなるそうですがね」

 とは言わなかったという話。


    *


 海舟は虎之介から真犯人の話をきいて、軽くうなずき、

「そうかい。今村が八十吉殺しの、清松が畑中殺しの犯人かい。まことに意外な犯人だが、畑中を殺して金庫をあけた清松に宝石が見つからなくて、しきよくのために八十吉を殺した今村に宝石の所在が分ったことも意外。又、その今村に宝石を盗む余裕がなく、おのずから海底へ戻ったことも意外。その意外を知らず、清松があくまで宝石を捜しもとめることによって自滅したのも、又、意外。実に宝石にからまる不思議は、常にこのような意外なものだ。しかし、深く不思議がるにも及ばねえや。ラムネ玉ほどの小ッポケな奴が何百万円もするのだもの。この世に金の値打ほど不思議を働く物はないのさ。虎も清貧に甘んじて、みだりに富貴を望まないのが身の為だよ。かりそめにも金山を当てようなどと浮気心は最もつつしむべきところだ」

 これ又意外な説教。しかし虎はことごとく謹んで傾聴しているから世話はない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る