第三十六話 籐ヶ見颯

 はゆっくりと目を開く。視界に映るのは白い天井。見慣れない光景だが、そこがどこであるのかを彼は瞬時に理解する。そして現状を把握しようと数分を費やし、わかるだけの情報を並べてから、再び周囲を見渡した。


「……ここは病院だよな?」


 白に染まった室内。腕から伸びるチューブの先は、点滴のボトルに繋がっている。一定のリズムを刻む機械が心拍を測るものであるということは、何となく分かった。


 ふと左目が閉じられたままなことに気がつく。軽く触れてみると、そこは傷のようになっていた。眼球の感触はない。


 颯は軽く息をつく。


「あれからどのくらい経ったんだ?」


 颯はベッドを降り、窓際に立った。彼自身はまだ気付いていない。自分がこうも簡単に立ち歩いて見せるということが、どれ程ありえないことなのかを。


「あ……。ナースコール」


 その存在に行き着いた颯は、枕元にあるケーブルに繋がった小さなボタンを押し込んだ。




 その日、籐ヶ見家に一本の電話が入る。それは颯が入院している御坂総合病院からで、何と内容は「颯が目を覚ました」というものだった。


 雅恵と縁は急いで病院へと向かう。ウォーデッドになった颯とは会って話をしているが、身体の方が目覚めたというのはどういうことなのだろうか。


 病院へとたどり着いた二人は面会の手続きを済ませ、颯のいる病室へと足を運ぶ。病室の扉を開けるとベッドの上で座っている颯が目に入った。


「颯!」

「お兄ちゃん!」


 二人はここが病院だということも忘れて颯に駆け寄る。


「おいおい、どうしたんだよ二人とも。そんなに慌てて」


 当の颯はきょとんとしていた。まるで自分に何が起こったのかわかっていない様子である。


「だってあなた、ウォーデッドとかいうのになってるから、その……もう目覚めないのかと」

「……ウォーデッド? 何だそりゃ?」


 颯は心当たりがないとばかりに首をかしげた。どうも様子がおかしい。


「お兄ちゃん。覚えてないの?」

「何をだ?」

「お兄ちゃんが事故に遭ってからの一年間。ウォーデッドとして世界を守ってたって」

「世界を守るって……。何を言ってるんだよ。それに医者にも言われたけど、本当に一年間も眠ってたのか? 俺……」


 縁は雅恵と顔を見合わせた。どうやら本当に覚えていないようだ。


「それよりも、詩織は? 大丈夫だったのか?」

「それは大丈夫。今はちょっと入院してるけど」

「入院してるなら大丈夫じゃないだろ!? やっぱりあの時の事故が原因で」

「そうじゃないよ。それとは別件」


 どうやら事故のことは覚えているらしい。今までのことをどう説明したものか。


「ところでお兄ちゃん。お兄ちゃんはどこまで覚えてるの?」

「どこまでって?」

「目を覚ます前のこと」


 縁に促され、颯は自分の知り得る情報を開示する。それは縁達の知る一年前までの颯そのものであった。それを聞いて、縁は改めて問う。


「過去の記憶があるってこと?」

「過去も何も、俺にとってはついこの間のことだぞ?」


 ウォーデッドになった颯は、過去の記憶は持っていないと言っていた。しかし今の颯は過去の記憶を持っているという。代わりに、ウォーデッドとして活動していたこの一年間の記憶を失っているようだ。


「……まぁ、目が覚めたのならよかったわ。やっぱり心配だったもの」


 雅恵はホッと息をつく。それでも縁は納得がいかなかった。ウォーデッドとして活動していた颯の魂がこうして肉体に戻って来たと言うことは、颯に何かがあったからだと思ったからだ。


 それにウォーデッドの魂を肉体に戻すと、変異して妖になってしまうと聞いた。それなのに颯は妖になる様子はない。これはどういうことなのだろう。


「母さんは心配し過ぎだよ」


 颯は笑って見せるが、それでも縁は心配であった。何かよくないことが起こったのだ。その確信があった。


「お兄ちゃん、聞いて」


 縁は勇気を持って、これまで颯がしてきたことを話すことにする。颯が事故にあった後、肉体は眠ったまま魂だけが活動していたこと。その活動というのがウォーデッドであり、数多くの妖と戦ってきたということを。


 一通り聞き終えた颯は、やはり心当たりがないと答える。


「お兄ちゃん、思い出して。何か……何かあったはずなの!」


 それはたぶんとてもよくないことだ。縁は焦る。ウォーデッドであった颯に何があったのか。恐らくそれが、今回颯が目を覚ましたことと関係している。


「そんなこと言われても、そのウォーデッド? ってのが何なのかもよくわからないしな~」

「神楽さんは? 神楽さんのことは覚えてない? 同じウォーデッドなの!」

「神楽? ……ごめん。全く覚えてない」

「そんな~」


 縁はがっくりと肩を落とした。




 縁の言わんとしていることが今一理解出来ない。颯にしてみれば、一年も眠ったままだったと言うのも信じられないのである。ウォーデッドという存在がいるということも半信半疑だ。生まれつき霊感が強いという自覚はあったが、ついぞそんな存在とは出会ったことがない。


 しかし、現に妹がここまで言っているのである。これは兄としては見過ごせない。颯は縁の頭にポンと手を乗せ、落ち着くよう促した。


「とりあえず落ち着け。お前が騒いだ所で事態が好転する訳でもないだろ?」

「でもさ~!」

「まずは情報収集だ。この町で何かが起こってるってんなら、何か情報が必ずあるはずだろ?」

「それは……」


 縁は急に勢いを失い、黙り込む。昔から颯の言うことには素直に従ってきた縁だ。それは颯が間違ったことを言わないとわかっているからの行動である。


「でも、お兄ちゃんはもうしばらく退院は出来ないでしょ?」

「それはまぁ、そうだろうな」


 何ら身体に異常がないとは言え、それ自体が異常なことなのだ。しばらくは検査入院の日々を過ごすことになるだろう。だったら何をするか。颯は素早く考え、指示を出す。


「俺がそのウォーデッドとやらをやっていた時の関係者を集めてくれないか?」

「関係者?」

「神楽って人と、他にもいるならその人達も。出来れば詳しい話を聞きたい」


 颯は顎に手を当てた。ウォーデッドであった自分に何かが起こったというのなら、同じウォーデッドである神楽にも何か起こっていてもおかしくない。ウォーデッドという存在についてはわからないことだらけだが、敵対している存在がいるのは間違いないだろう。もしそうなら、自分と神楽はそれと戦い、負けた可能性がある。敵性個体の目的は不明。とは言え、この世の秩序を守るというウォーデッドと敵対しているのだから、その目的はたぶんろくでもないことのはずだ。


「神楽さんの居場所はわからないな~。いつもの研究室にいれば別だけど……」

「何とか探し出してくれ。たぶんそいつが何か重要なことを知ってるはずだ」

「わかった。やってみる」


 縁が頷いたのを見て、颯も力強く頷いた。

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