ブラック・ホール・ラン

外清内ダク

01-俺の女神



「奇跡の馬鹿」

 ブルはいつにも増して凄まじい剣幕で迫ってくるが、俺は一向どこ吹く風だ。雑然としたガレージを右へ左へ。固定金具を蹴り上げたうえでブルー・シートを手繰たぐぐ。方方ほうぼうのツレに借金しまくって手に入れたカバルリィ・SSRは結構な骨董品アンティークで、亜光速ドライブ全盛の現代から見ればライト1903フライヤーと大差ない。だが需要と供給が合致したとき、物の価値は実態と容易に乖離する。というより価値の観こそ実態になる。俺にはこれこそ理想のマシン。見ろよ、あの超高精楕球外殻の曲率の淫靡なことといったら。

「聞いてるのか、神憑かみがかり的馬鹿野郎」

「俺はそんな名前じゃない」

「馬鹿で悪けりゃボケカスだ。トンチキの間抜けの大糞虫おおくそむしだ」

「語彙が豊富なこって」

出走ランするだと……。神々のレース……。正気かグレイ……」

「怪しいもんだ」

 俺は苦笑する。

 まともじゃないと自分でも思う。勝負に命を賭けるなんて輩は銀河に掃いて捨てるほどあるが、生還可能性ゼロのレースにわざわざ首を突っ込む阿呆は過去数千年間ただのひとりも居なかった。ウケ狙いならウケた後の賞賛を味わいたいもんだし、自殺志願ならもっと効率のいい方法がいくらでもある。間違いなく俺の頭はいかれてる。ところが一方、「どうせ返済もしなくて済むから要るだけ金を借りちまえ」なんてちゃっかり計算してる自分もいて、狂ってるのかそうでないのか、俺にもよく判断がつかなくなっている。

「あれはな、グレイ、神様がたにだけ許された道楽なんだ。神ならぬ人は特殊相対性理論のくびきから抜け出せやしない」

「知ってるよ」

「シュバルツシルト面に飛び込んだら二度と戻っちゃ来れないんだぞ。お前は船ごと圧縮され引き伸ばされ、理想的に線径ゼロのスパゲティになり、黒丸ブラックホール重心に近づくほどに遅くなる時間の中で永久に落下し続けることになる。ただ死ぬってだけじゃない。死ぬこともできないまま無限に地獄に落ち続けるんだ。友達をそんな目に遭わせる手伝いをこの俺にやれってのか、おい、グレイ……」

「頼むよ」

 どっちが狂ってんだか分からないくらいに、俺は妙に穏やかな手付きでブルの二の腕に触れた。

「お前だけが頼りなんだ」



   *



 ブラック・ホール・ラン。シュバルツシルト半径42%地点から出発し、事象のイベント水平線ホライゾン突破の速さを競う。この狂った競技を考えだしたのは銀河にのさばる神様どもだ。言い出しっぺは確かお祭り好きのマウイか誰かで、それにギリシャの半神デミゴッド連が乗っかり、神聖四文字テトラグラマトンにかけあって正式なスポーツとして認めさせた。そのとき聖四T.G.が出した条件は、必ず人間の作ったマシンに乗って戦うこと。神々が自身の力をそのまま振るえば世界に傷をつけかねないし、だいいち力量差が開きすぎて面白くない。

「ハンディキャップ。人間の作ったものが私達にはちょうどいい足枷なのさ」

 あの女はそう言い放ちやがった。3年前のあの夜、アントニオの店の、“ローディ・ブルース”が漏れ聞こえるカウンター席で。質の悪いテネシーがプンと薬品臭を漂わせる中、あいつは潰れかけた俺の斜め後ろにいつの間にか立っていた。肉感の権化たる四肢。へその両側にこんもりと盛り上がる腹筋。そして俺の頬に垂れかかってくる金髪の、教会壁画フレスコめいた神々しさ。こんな安酒場の汚れた空気が、あいつの周りだけ不思議と輝いて見えた――

 精霊エヴォニッツァ。

 本物の女神を見たのも初めてじゃないし、大して信心深いほうでもなかった。彼女が東欧のカタルーシかどっかの神格で、冬風かなんかを司ってるらしい、と調べたのだって随分後になってからだ。にも関わらず、その時の俺は目の前の女神にただ圧倒されていた。根源的プリミティブ。鼻先18インチの真善美。その芳しさは、酩酊で溶けかかった脳味噌にはいささか刺激が強すぎた。

「貴公がグレイ……」

「俺を、知って……」

「NNS6630基準の極高速機をいじらせたら星系一と聞いた」

「ちぇっ。神様に嘘つくのは冒涜じゃないのかい……」

「違うのか」

「星系一じゃない。宇宙一だ」

 クリスタル細工みたいな顔に似合わぬ豪快さで彼女は笑い、俺の肩にもたれかかった。もう神への反感も諧謔心もどこかへ吹っ飛んでしまい、おっぱいが力強く押し当てられてるのが偶然か否かという哲学的命題で俺の頭はいっぱいになっている。

「気に入ったよ。仕事を頼まれないか」

「報酬は……」

「女神のキス」

 前払い分が耳朶じだに触れ、脳の酒気を追い払う。俺はかつてない勃起に息を飲む。

「不足があるかい、坊やワナビィ



   *



 あるね。あるとも。そんな不確かなもので動くような俺じゃない。色仕掛けに溺れたがってる堪え性のない男性性を必死の気合で抑え込み、俺が要求したのはトラペゾヘドロン資本複合体コングロマリットの株式0.2パーミルだった。神のみが持ちうる巨大経済利権の一部を譲渡となれば軽く全銀河経済紙の3面記事レベルのはずだが、彼女は即断即決した。

「いいとも。ただし」

 酔いましの甘露アムリタを奢ってくれながらエヴォニッツァは剣のような横顔で笑い、

「働き次第の歩合給だ」

 翌朝にはもう俺の身柄はγバレーナ中間I質量MブラックBホールH紡錘体スピンドル船渠ドックにあり、そこでマシンに引き合わされていた。いやあ酷いもんだ。前任者はよっぽど自分の任務への空虚感に悩まされていたらしい。外面だけ最新式のNNS機はエンジンどろどろ、プランク・チューブ断裂寸前、竜骨部ドラゴン・ラインに至っては目視可能なレベルの亀裂が走ってるありさまだ。常識的には到底飛べる状態じゃないが、奇跡的にこれでもまだ動いてた。というよりその奇跡を起こしてしまってたのが女神エヴォニッツァその人ってのが最大の不幸だったんだろう。つまりこんなガラクタを駆って超重力による湾曲空間を縦横無尽に飛び回り、シーズン戦績で平均値アヴェレージを超えてしまう。それほどの腕と神威を備えた女神様を前にしては、一介の整備士ふぜいが自分の存在の無意味さを思い知らされるのも当然だ。

 だが俺の反応はちょっと違った。この時の興奮は自分でも表現しづらい。まず第一に女神への「ざまあみろ」。次によぎった前任者への「半端仕事しやがって」。なのに実際に機体をいじり始めると、女神様がどんだけクソみたいなマシンで今まで孤独に頑張ってたか、その戦いぶりがだんだん目に浮かんできて、ふと気がつくと俺の頭は「勝たせてやる」で一杯になってた。やりがいを感じていた。この不信心の自堕落者がだ。

 ランは1週間後。俺はほぼ不眠不休で作業を続け、修理と調整を意地で間に合わせた。重賞だけに敵も豪勢。ギリシャからは虹のイーリス。遠く印度より韋駄天カールティケヤ。そして優勝候補はちょっと口では言えない黄衣の王様、ハスター御大おんたい。ド素人でも知らぬものはない強豪どもがひしめく中で、我が女神エヴォニッツァは、やらかした。

 スタート直後にコースを外れ、瓦礫デブリベルトに突っ込んだのだ。

 突然の奇行に「すわ発狂」と沸く実況。モニタの前に渦を巻く烏合の衆の怒号と罵倒。だが声は数秒で凍りつく。女神が走る。亜光速にまで加速された瓦礫デブリスパゲティがシャワーのように降り注ぐ中を針穴通す正確さで縫い進み、そのくせ1ミリ秒たりとも減速しない。恐るべき速さ。想像を絶する技量。神も、人も、その場の皆の目が釘付けになる。エヴォニッツァと俺のマシンはひとつに融合し、太刀の刃が走るかのごとくブラックホールを両断する。

 そして、抜けた。瓦礫デブリベルトをぶった切ってのショートカット。体感距離6200天文単位AUの圧差をつけて敵全員を引き離し、女神がトップに躍り出た。

 歓声だ。あまりの声量がために音というより皮膚の振動としてしか感じられない大歓声が紡錘体スピンドルの観戦室を震撼させ、俺は震えに酔い痴れて馬鹿みたいに口を開けていた。あのときと同じだ。女神と初めてまみえた飲み屋での衝撃と。あれは俺の仕事だ、見ろよ、俺があのマシンを仕上げたんだ、なんていう薄っぺらい承認欲求は女神の光輝の前に吹き飛び、俺の魂は彼女の走りに飲み込まれていた。

 行けラン行けラン。はじめは小さく。

 行けラン行けラン。やがて高まり。

行けランっ。エヴォニッツァ、俺の女神っ」

 絶叫する俺。行く女神。

 ランアップトゥホライゾン

 結局、最初の差を全く縮めさせずに超超先行逃げ切り突破ランアップ。2着ハスターがシュバルツシルト面を越えたときには観客がダレて溜息つくほどの時間が過ぎていた。当然のコースレコード。前代未聞の圧勝だ。

 数分後、俺がそわそわと待つ船渠ドックにマシンは音もなく滑り込んで来、女神エヴォニッツァは優美な肢体を操縦席から立ち上がらせた。投げ捨てたメットが床に跳ねて金属音を響かせる。そっちに気を取られた隙に彼女は俺に飛びかかり、後頭部に手を差し入れて強引に抱き寄せ、俺の唇を貪った。

 長くて乱暴で容赦ないキス。歯茎の裏も、舌の付け根も、みんな彼女の舌先に蹂躙され、混ざり合う唾液の芳しさに俺は窒息しそうになる。

「やめろ」

 震えながら彼女を押しのけようとし、うっかり手のひらで女神の乳房を握ってしまう。俺は童貞小僧のように慌てる。

ほだされやしないと言っただろ」

「歩合給だと言っただろ」

 エヴォニッツァは少女のように破顔して、純白の歯をのぞかせた。

「溺れるくらい呑みたい気分だ。

 お前もそうだといいんだが」



(続く)

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