覚悟 パート3


「それって……」


 やっぱり最悪の気分だった。

 香織は何も悪くない、むしろ俺を支え続けてくれたのに、俺は今最低なことを言っている。

 でも、俺は。


「香織は俺以外の人を好きになるべきだ」


「……っ」


 香織の表情が一気に歪み、今にも泣き出してしまいそうなのを必死にこらえているようだった。首をぶんぶんと左右に振り、俺の手を強く握ってくる。


「わた……何か、斗真に嫌なことしちゃった? 言ってくれれば直すよ! 斗真のそばにいられるなら、私はなんでも──」


「香織は何も悪くない。本当に」


 遮って言う。

 香織には自分を責めないで欲しかった。


「俺がダメになりそうな時、いつもそばで支えてくれた。ご飯も毎日美味しいし、香織といると心が落ち着く。無言さえ心地良い。こんなに大好きな人、他にいない」


「じゃあ何でッ」


「俺が香織に依存しすぎてるから。今でも相当だけど、もし付き合ったら俺は香織がいないと生きていけなくなる」


「それが恋愛ってことでしょ? 私もそうだよ、今もうすでに、斗真がいないと生きていけないよ私。だから絶対、斗真から離れたりなんてしないよ?」


 少し気持ちを持ち直した様子の香織だったが呼吸は明らかに荒かった。小さな体が救いを求めるように息をする。


「……優しいな」


「え?」


 やば、無意識に口から漏れてしまった。


 俺がいないと生きていけない?

 香織に限ってそれはないだろう。香織は誰とだって立派に生きていける。その実力も可愛さも優しさもあるんだから。


「もし付き合ったら、香織は俺から離れない。それはよく分かってる」


 一緒にいたいからいた中学まで。

 一緒にいないといけなくなった中学以降。

 俺が両親を亡くしてから、香織が俺の家にいる長さと頻度は急激に高まった。私が支えなきゃって義務感を抱かせてしまったんだろう。


「香織はさ、付き合った後で俺と別れるかもっていう可能性、考えてる?」


「考えてないよ。考えてるわけないじゃん」


「俺は考えて欲しいって思ってる」


「…………なんで? そんなことしたら斗真が──」


「耐えられないと思う。でも、俺といない方が幸せになれるって思った時、香織には躊躇わずに俺を捨ててほしい。これから先の人生の方がずっと長いんだ。だから香織を苦しめるようなことを俺がしちゃう可能性だってある。そんな時でも俺は香織の優しさに甘えて、ずっと香織と一緒にいたいと思っちゃう。でも俺は、香織が嫌になったら俺から離れて欲しい。香織に無理して欲しくないんだよ。俺から離れるって選択肢を香織に持っていてほしい。例えそれで俺が壊れたとしても、香織には自分の幸せを優先してほしい」


 ハァっと浅く息を吐く。


 俺はただ、香織に幸せになってほしい。

 もし俺といて幸せを感じられなくなった時、俺を無視してでも幸せな方の道に進んでほしいのに、香織はきっとそれが出来ないほど優しすぎる。


 自分の幸せを、俺の次に持っていってしまう。


 だから付き合えない。

 香織を束縛することを俺に許可しちゃいけない。


 俯いてしまった香織の両手はすでに力が抜けていた。

 俺の指先に触れる程度まで滑り落ちていく。


 その感触を、最後かもしれないと思って脳内に刻み込む。小さな優しい手のことを。


 香織は動かない。


 こういう時、俺は親しい人間と喧嘩した経験が乏しすぎて、どうしたらいいのか分からない。

 ごめんと謝るべきなのか、もっと酷いことを言ってでも香織に俺を諦めてもらうべきか。最も、後者は心が耐えられそうにないので、


「……ごめん」


と前者が消去法を制するのだが。


 香織とは多少の意見の相違はあれど、今まで全部、最後は笑顔で終わってきた。喧嘩らしい喧嘩なんて全くなかったし、そもそも意見の相違でどっちかの機嫌が悪くなることもなかった。


 ……。


 というか、意見の相違ですら、例がすぐに思いつかない。


 しかし、今日だけは譲れない。

 例え泣かれたとしても、俺は香織と恋人になっちゃいけない。


「…………いやだな」


 ボソッと香織が呟き、顔をあげた。

 泣いているかも。

 そう思ったが、目が合った刹那、俺の体は動かなくなった。


「……っ」


 息が詰まる。

 細められた目の奥で、幼馴染から初めて向けられる感情が燃えていた。


 俺は今、人生で初めて香織に睨まれている。


「斗真は私の気持ち、全然分かってない」


「……分かってるよ」


「分かってないよ。だから怒ってるの」


 ゾッとした。

 学校でも家でも決して見たことがない香織の純粋な怒り。最近感じていたものと、居心地の悪さの種類が違う。

 自然と背筋が伸びる。ちょっとのけ反っているかもしれない。


「斗真は、私が他の男の人にでも同じように恋愛感情を抱くと思ってるの?」


「……俺より優秀なやつはいっぱいいる」


 伸びてきたとはいえ、俺の成績はまだまだ優秀とは程遠い。

 しかし、香織の表情は変わらなかった。


「能力なんかで好きになってない。斗真は違うの? 私のこと、優秀だから好きになってくれたの?」


「違う!」


 それは断言できた。

 香織の成績の良し悪しなんて、正直に言ってしまえばどうでもよかった。

 勉強やスポーツができるのはもちろん素晴らしいことだしカッコいいとも思うが、それらが香織から欠けていたところで俺の気持ちは変わらない。『優秀だから』好きになったなんてことは決して無い。


 それよりも、辛いときにそばで支えてくれることや、日々浮かべる笑顔が誰よりも綺麗なことの方が圧倒的に俺にとっての香織の魅力だ。


「私だって同じだよ。勉強やスポーツの出来で斗真を好きになったわけじゃない。ねえ、私と初めて会った日のこと覚えてる?」


「……ああ、覚えてるよ」


 公園の隅っこでうずくまり、祖母に強制させられる勉強が嫌で嫌で逃げ出してきた香織の姿は今でも鮮明に覚えてる。


「そのとき、私が掛け算できるのを『かっこいい』って褒めてくれたよね。あれが私には本当に救いだった。ううん、今でも心の支えになってる」


「……誰だって同じこと言うよ」


「関係ない。実際に私にその言葉をくれたのは斗真だよ。あのとき斗真がかっこいいって言ってくれてなかったら、私とっくにおばあちゃんに壊されてる」


「……」


 嫌だと思いながらも勉強を続けた結果、香織は幼稚園で掛け算まで身につけた。見方によっては残酷なことだけど、嫌なことを頑張った本人に思うことなんて、「かっこいい」以外に何があるだろう。

 俺じゃない人があの場にいても、きっと同じ言葉をかけたはずだ。つまり俺が香織を救ったのはただの偶然でしかないのに、彼女はそれを関係ないと言う。


「斗真、私が笑うと笑い返してくれるよね」


「……それは、香織が笑ってると俺も嬉しいから」


「そうやって思ってくれる斗真が私は大好きなの。私がやってること何でも手伝ってくれようとする斗真が私は大好きで、いつ家に遊びにいっても歓迎してくれる斗真が私は大好き。この間のプレゼントも、膝枕も、ケーキも、本当に嬉しかった。嬉しいことばっかり。斗真と一緒だと、楽しい気持ちが止まらない。いつも私を笑顔にしてくれて、ドキドキさせてくれる。代わりがいるだなんて絶対に言わせない」


 真っ直ぐに目を覗き込まれ、何も言えなくなる。


「私が義務感で斗真を支えようとしたことなんて一度もないよ。全部私がしたいからしたこと」


「……でも」


「斗真」


 左右の頬を手で挟まれる。

 今までにないくらい力が籠った香織の両手に、目を見ることを強制される。


「好きな人に笑っていて欲しいって思うのは、そんなにおかしいことかな? 斗真は私を義務感で笑わせようとしてくれてるの?」


「……違う」


 香織の笑顔が見たい気持ちに理由なんて特にない。


「私も同じだよ。だから、私が斗真のそばにいたいって思うのは、義務感でも何でもない」


 だからね、と香織は笑う。



「斗真が悲しむって分かってて、私は斗真のそばを離れたりしないよ。だって、私と離れるのを悲しいって思ってくれる斗真は、私が好きなままの斗真だから」



 その言葉に思わず目頭が熱くなる。


 こんなにも……俺が心の底から愛せる人は、世界中探し回ったとしても絶対に見つからない。


「斗真は将来、私が泣いちゃうくらい私を苦しませる予定があるの?」


「……あるわけない。一生大切にしたいよ」


「なら、そうしてよ。一生私のこと大切にして、いつまでも笑顔でいさせてよ。それができるのは斗真しかいないんだよ。……大丈夫、もし斗真が最低な人になりそうだったら、今みたいに私が怒ってあげるから」


 そう言った香織の顔に怒りは微塵も存在してなくて、俺がずっと見ていたい世界一の笑顔があるだけだった。


 ああ、こんな良い人、俺がもらっていいのかな。


 そう思うと我慢できない幸福感がやってきて、俺は半ば吹き出すように笑った。

 すると香織がもっと笑ってくれて、頬に添えられた手が首の後ろに回される。


 ゼロ距離。


 耳元で、最愛の人の囁き声がする。


「……斗真に足りないのは覚悟だよ。私を一生幸せにしてやるって覚悟。ねえ、もっと私を好きになって? 斗真のことが大好きな私を、斗真ももっと好きになって? 斗真がいないとダメダメになっちゃうくらい、私に斗真の愛を感じさせて」


 覚悟。

 恐らくそれは、俺が両親を失ってからずっと抱けなくなっていたものだ。


 誰かを一生幸せにする。

 その一生は、百年続くと思って覚悟するものだから。何の前触れもなく途切れる可能性を体験してる俺は、もしもの可能性を考慮しすぎてしまう。


 だけど、そんなくだらない可能性は、香織と一緒なら何度だって超えていける。


「覚悟できたなら、ほら。……私のことも抱きしめてよ」


 恥ずかしそうに呟く声があまりにも愛おしくて、俺は香織の細い体を大切に抱きしめた。


「ぁぁ……ずっとこうして斗真のそばにいたい」


「俺もだよ。その、ありがとう、香織」


「うん。……あぁ、本当に幸せ」


 小さな体の柔らかさ。

 それを全身で感じながら、俺たちはベッドで横になった。












 これが、香織から別れ話をされる三日前の出来事である。

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