第六章 鏡地獄








 俺たちは体を寄せ合い、息を殺して身を潜めていた。


 俺の8メートルほど前方に、頭がぐしゃぐしゃに吹き飛んだJ一郎の死体が転がっている。


 身震いが止まらなかった。型から上に何もない人間の死体が、こんなにも恐ろしく見えるとは知らなかったのだ。頭の弾けたところから、まるで花が咲いたかのようにパッと血潮が広がっているのは、或る意味幻想的ではあった。床の白いのが余計にどす黒い血の色を際立たせるのも、一層恐怖心を煽る要因となっているのかもわからない。


 体中に氷のような凍える風を当てられているかのような気持ちである。


 死体は既に何人も見てきた。だけど、今日あったばかりとは言え見知った人間の死がここまで心にダメージを与えるとは。


 J一郎。多分お前は良い奴だった。安らかに眠ってくれ。R.I.P。


 心の中で南無三した後、さてこれからどうしたものかと、無い頭を絞り始めた。何しろカッスカスのスポンジのような脳みそなので、果たして良いアイデアを絞り出せるかどうか……。まあ誰も俺に期待なんかしていないか。


 俺たちの周りには、現状、全身タイツ改めゴブリンどもが跋扈していた。奴らのタイツ姿が目と鼻の先にある。


 ではどうしてそんな状況下で、未だに集団リンチに会っていないのかというと、あの銃撃の際に咄嗟に舞城が発動させた「鏡の魔術」によって、身を寄せ合っている俺たちの周囲に三面の鏡を展開しているのだ。


 三面の鏡、正確にはマジックミラーであるそれらを三角形上に配置し、周囲の景色を映し出すことによって、景色の中に自然と溶け込み、中心にいる俺たちを隠しつつ堂々と適地を突っ切ることができるのだ。かの有名なスタ〇ウォ〇ズだって撮影に利用した立派な鏡のマジックだ。


 え、そんな単純な仕掛けじゃ一瞬でばれるだろ、だって?


 それは当時の俺も当然思った。


 しかし、ふと横をみて、マジックミラー越しの自分と目が合ったゴブリンが首を傾げた後、普通にスルーしたのを見て、俺にもようやく気が付いた。


 ところで、周りにいる連中の姿をよく見て欲しい。


 奴らゴブリンは全身タイツに、白い仮面をつけている。



 そう。彼らはまごうことなきヘンタイである。



 それにこんな格好をしているのは、馬鹿である。



 つまり、こいつらは、ヘンタイで、馬鹿なのだ。



 馬鹿なので、こんな単純な仕掛けでもバレないのである。なんてこったい。


 そんなこんなで息を殺してよちよちと一階ロビーを抜け出した俺たちは、比較的安全だと思われる、使われていなさそうな人気のない小部屋へと殺到した。


 小部屋の扉の鍵を閉めた途端、開口一番に舞城が怒鳴った。


「どうして潜入のタイミングがバレているんだ!!おかげでJ一郎が殺されてしまったぞ!!」


「んなもん、決まってんだろ」


 対照的に、迦十先生は比較的落ち着いていた。それから、静かにこう言い切った。


「あのタイミングで襲われるなんてあり得ねぇ。つまり敵は俺たちの潜入作戦の時と場所、方法を事前に把握してたってこった。


 んなことが実現可能ってことは要するに……




 こん中に裏切者がいるんだよ」




 それを聞いた小部屋の連中は少しの間押し黙った後、








 全員が一斉に俺の方を振り向いた。




 え、俺?




「当り前だろ。もうお前しかあり得ないんだよ!!」


 舞城が叫ぶ。しかし俺はイマイチピンとこない。当たり前だ、心当たりがないのだから。


 俺が裏切者?


 確かにみんなからしてみればその可能性は十分にあるだろうけど、そもそも裏切るにしたってどうやって情報をリークするのだというのだ。俺はずっとみんなと行動を共にしてきたはずだ。俺を疑うよりもGPS発信機とかの有無を疑った方がいい。


「お前携帯電話持ってるだろ。それでメールでもしたんじゃないのか」


「いや、でも俺魔術結社のメアドとか持ってないぞ」


「それを鵜呑みにするほど間抜けじゃないんだよ俺たちは!」


 舞城はいよいよ限界だと言わんばかりに俺の襟を引っ張り上げる。どうやら人狼探しが始まってしまったようだ。このままじゃ俺が今夜中にしょっ引かれかねない勢いである。


「まあ、落ち着けよ舞城」


 激昂した舞城をたしなめたのは、やはり終始冷静の迦十先生であった。有難い。この人に一生ついていこう。


「しかし、内藤が裏切っていない、とは言い切れない」


 でも、本当に覚えがないんだよな。信じてくれよ。


「もちろん信じている」


 嘘っぽい。


「だが無意識のうちに洗脳されて、知らず知らず協力させられている可能性がある」


 ……?


「それって、魔術で操られているって話ですか。いやでも……」


「確かに内藤はトークンを所持していたし、魔術に対する「解錠」もちゃんと出来ていた。しかし魔術のコントロールはおろか、お前は解錠を行ったという自覚すらなかったよな。これはやはり尋常じゃない。だから、お前にはされている疑いがある」


 トークンが……偽装?


「お前のトークンを寄こせ」


 俺は言われた通りに、ポケットから引っ張り出したスマホを迦十先生に放り投げた。


 迦十先生は手に取ったスマホをしばらく握ったり振ったり眺めてたりした後、何かを確信したようにうなずく。


「「トークンの偽装」は魔術師なら肝に銘じておくべき注意事項の一つ。魔術師は魔術の「施錠」と「解錠」に必ずトークンを用いる。だから、トークンは魔術師にとっての必需品であり同時に命綱でもあるんだ」


 必需品であり、命綱。確かにその通りだろう。トークンがなければ魔術師とやり合うのは不可能だし、相手の魔術を解錠することもできなくなるのだから。


「で、だ。もし敵の魔術の作用によって万に一つ、、つまりトークンを魔術によって偽装させられた場合、どんな危険があると思う?」


 そりゃ、……魔術が発動できなくなるんじゃ?


「そんだけならまだマシなんだがな。はっきり言って、トークンを偽装された段階で完全に「詰み」だ。あらゆる行動を偽装元によって支配される。つっても複雑過ぎる命令は現実的に難しいところもあるが、味方みたいな顔しながら敵情報をリークさせるくらいなら、簡単」


 迦十先生はようやく満足したのか知らないが、スマホを俺に放り返した。俺はぼんやりしていたので、投げられたスマホは俺の胸にヒットし、それから派手な音を立てて地面に落ちる。


「このトークンの偽装を防ぐために、魔術師は自分のトークンを作製する際はその形状、重心、性質をフルオーダーメイドにして絶対に外部に漏らさない。トークンを偽装するにはそのトークンの情報が必要不可欠だからな。これだけでトークンの偽装に対する対策は十分なんだ。ま、そういうわけで対策は簡単だから偽装は滅多に起こらない。今軽く調べてみたが、お前のスマホも、外見、重心が市販のものと全く違うオーダーメイドだった」


 重心が違うだと?


 俺は拾い上げたスマホをまじまじと観察する。全くわからない。これオーダーメイドなの?


「オーダーメイドってことは……じゃあ偽装の心配はないじゃないですか」


「でもお前記憶ないんだろ」


 なーんだ、よかったと安心しきった俺の顔面にひびが入る。


「異世界だか平行宇宙だかのよくわからんお前の理屈はともかく、持っているトークンの真の情報をお前が知らない以上、そのトークンが偽装されたものなのか否か、お前自身判別がつかないってわけだ。当然私オレたちもわからん。


 じゃあ、疑われてもしょうがないよな。だってお前が嘘を付いていようがいまいが、どちらにせよ100%安全だっていう確証がねぇんだから」


 俺は手に持ったスマホをじっと見る。


 確かに、これが偽物なのか否なのか、俺にはわからない。これが市販品じゃないってことにすら気が付かなかったのだから。


 てことは、知らず知らずのうちに俺の行動は敵に操られているのか?


「それで、これからどうするんですか?もう作戦は、破綻していると思いますが」


 今まで口を開かなかった宮之城が、落ち着いた声色で迦十先生にそう質問する。俺はというと、「じゃあとりあえず内藤は怪しいから磔刑ね」と言われてもしょうがない状況なので、始終顔を青ざめさせるより外なかった。


 ところが、迦十先生は色々と型破りな人だった。


「内藤は引き続き連れていく。それから、作戦は続行だ」


「いやいやいや」


 迦十先生からは有無を言わさぬ迫力を感じたが、ここは無理をしてでもとばかりに舞城が反論する。


「おかしいですよ。おかしいでしょ。内藤をチームに引き入れた時点で妙だとは思ってましたけど、さすがにこの状況になってまで内藤を擁護する意味が解りません。悪いことは言いませんから内藤はここにおいて、逃げましょう。そして組合に救援要請しましょう!」


「確かにお前の言ってることは御尤もだな」


「そうでしょう!じゃあ……」



「だが断る」



 言うと思ったわ。つーか、寧ろ俺がいいたい。人生で一度はいってみたい。


「案ずるな、私にも考えがある。まず第一に組合は救援に応じないだろう。それと、この機会を逃せばゴルゴ―マとベルサーチを討ち取れない」


「その二人を倒すための作戦が今しがた破綻したところでしょうが」


「いや、作戦ならまだある!」


 迦十先生が力強く立ち上がる。


「ローラー作戦だ」


「……ロー、ラー?」


 舞城が茫然と呟く。



「今からこの建物にいる敵を、一階から順に殲滅していく」



 舞城は絶句した。二の句が継げないでいる。



「私たちはどんどん上の階に上がっていくよな。てことは、この建物にいる奴らは逃げ場がないまま、上の階に追いやられるか、或いは私たちとぶつかってぶっ殺される。そうしていけばいずれゴルゴ―マとベルサーチにも会えるってわけだ」


 おお、前提の部分に狂いが生じなければ、確かにその通りだ。


「会って……どうするんです?勝てるんですか、師匠」


「やられる前に、やる。それだけだ」


「わかりました。わかりましたよ100歩譲ります。でも、内藤は置いていきましょう」


「ダメだ。一人じゃ可哀そうだろ。内藤の分もう100歩譲ってやれ」


 もうこれで話は終わりだとでも言わんばかりに、先生は小部屋の入り口に向かっていく。まるで信用していた男友達に強姦されてしまった直後の女学生のような、失望と絶望のいり乱れた表情を浮かべながらも、舞城は後に続く。


 宮之城は特に突っ込むことなく後に続いた。アリスもである。モルグは、やはり俺の方ばかり見ている。


 俺も迦十先生についていくことにした。というか、それしか選択肢は残されていなかった。


 でも、正直な話、俺ですら舞城と同じ疑念を迦十先生に抱いていた。先生は一体何の目的で俺をこうまで贔屓しているのだろうか。











 驚くべきことに、俺たちは誰の妨害も受けることなく、駆け上がるようにして非常にスムーズに二階へたどり着くことができた。


 「出入り口に戦力を固めているのでは?」とは近くにいた宮之城の仮説である。どちらにせよ俺たちにとっては好都合だろう。


 「挟み撃ちにされるんじゃないのか」俺を睨みつつこのような嫌味を言ってのけるのは、少し離れたところにいる舞城である。


 階段を駆け上がった先の二階の構造は、長い廊下にドアがいくつも並んでいるというものだった。特に気になることはない。強いて言うならよくわからない絵画がいくつも飾られていることくらいだろう。


 そんな中、迦十先生は手前のドアからかたっぱしに開けていく。どうやら本当に殲滅する気なようだ。できるのだろうか。


「こんなに勢いよく突っ込んでいったら、またマシンガンに撃たれてハチの巣エンドじゃないんですか」


「いや、もう銃撃はないだろう。さっきので弾切れのはずだ。ここは日本だぞ?銃なんてそうそう手に入れられないさ」


 迦十先生は自信満々にそう答える。


 どうもそういうことらしい。なぜそんなことが分かるのだろう。


「J一郎が調査済みだ」


 ということは、敵が銃を持っていたことも事前に把握していたということか。なら初めから言ってくれれば……いや、俺たちは奇襲に会ったのだ。どちらにせよ結果は同じだったか。


 考える暇もなく、物凄い勢いで二階の部屋を制圧していく迦十先生。俺たちはもうついていくので精一杯である。


 いや、それよりも気にすべきは、二階がまるでもぬけの殻という点だ。廊下にも、部屋の中にも人っ子一人いない。魔術結社が実は社内の雰囲気がいいホワイト企業で、今日は総出で慰安旅行に行っている、なんてわけではないのはロビーでの襲撃の一件でよくわかっている。


 ということは……。


 匂う。罠の匂いがプンプンするぜ。


 多分、この状況で一行と分断されたら、俺は真っ先に死ぬ。


 全力でついていこうと決めた、その矢先の出来事であった。


 それは、ほんの一瞬の油断だった。壁に掛けられている小さな絵画が、どこかで見たことのあるような、ないような、そんな絶妙なラインの作風だったのでつい目が留まってしまった。


 と言っても、それは瞬きするほどの時間だったし、俺はそのあとすぐに視線を前に戻した。



 ところが、その瞬きするほどの間に、俺の前を走っていた迦十先生たちが、忽然と姿を消したのだ。



 そんな馬鹿な。


 もしここに俺一人だけが取り残された状況だったならば発狂必至の危機であったが、まさに不幸中の幸いというべきか、一行から分断されたのは俺だけではなかったようだった。


 必至の形相で先生たちを呼んでいた俺の肩に、細い指がそっと添えられた。


「落ち着いて、内藤くん」


 宮之城である。すぐに落ち着いた。


「……ちょっと、急に落ち着かないでよ。なんか怖いから……」


 それはともかく。


 こいつは一体どういう状況なのだろうか。


「これを見て」


 宮之城が指さした先には、一枚の絵画が立てかけられている。一見何の変哲もない絵のように思えるが、


「……ん?」


 絵にはとある一直線の廊下を描かれている。というか、これは今俺たちのいる廊下だ。それだけじゃない。この絵には廊下に何人も人間が描かれているが、それらの人物像は俺の知る奴らと姿形がよく似ているように思われた。


 というか、迦十先生たちだった。


 なんで絵の中に先生たちがいるんだ?


「逆ね。私たちが絵の中に閉じ込められている」  


 俺は周囲を見渡した。先ほどまでいた廊下の景色と寸分の狂いもない。


 これが絵の中の世界、だと?にわかには信じがたいが……。


「ちょっと、静かにして」


 突如、宮之城に鋭い口調で制されて、閉口した。


 それで、俺にもようやくそれが聞こえてきたのだった。妙な音だ。微かにだが、地面を強く打つような打撃音がどこからともなく聞こえてくる。


「こっちの部屋」


 宮之城は音のする方に見当をつけ、とあるドアの前に立つと、首に下げていたネックレスを素肌から引き剥がして左手に握り締めた。胸元からネックレスを引き出す所作からは、なにやらそこはかとなくではあるが「見てはいけない物を見た」ような気がして、俺は咄嗟に目を逸らした。


「……いくわよ」


 そんな俺には目もくれず、宮之城はドアノブを握りしめて、勢いよくドアを開ける。


「おお」


 部屋の内装を見た俺は、こんな状況にもかかわらず、思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。その部屋には、大小さまざまな絵画が無数に飾られていた。


 中にはよく見知っている有名なものもあった。


「……」


 宮之城は厳しい視線を部屋全体に投げかけている。あの奇妙な音はなお続いているどころが、徐々にその気配を強めていくような気さえするからだろう。


 俺はというと、絵画の内容を見て、ふと何やら引っかかるものを感じていた。


 そして、すぐにその正体に思い至った。


 どれもこれも中々の絵ではあるが、無作為に選ばれているように思えたその絵画の数々には、一つの共通点があることに気が付いた。


 どの絵にも、必ず「馬」が描かれているのだ。


 三百六十度、どこを見渡しても、どの絵にも、馬がいる。



 ぐるりとあたりを見廻して。



 俺はそれを見つけた。



「……あ?」



 その絵にも馬が描かれている。正確には、馬と、馬に乗った騎士が。





【ドン・キホーテ】(ホノレ=ドーミエ)






 絵画の名前らしきものが下の名札に書かれている。もちろん、無学な俺ですらドン・キホーテの物語の概要くらい知っている。となると、絵画の中央にいる黒騎士はドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャで、騎士に乗られている馬は彼の愛馬のロシナンテだろうか。


 ……しかし、それにしては騎士の方も馬の方も妙に筋骨隆々なのはどういうことなのだ?


 いや、そんなことよりも、もっと奇妙なことがある。


 絵の中の騎士が、長い槍を振り被ってこちらへ向かって馬を走らせているのが分かった。画の内容が刻一刻と書き換わっている?そうではない。静止画であるはずの絵の中の騎士が、まるでアニメーションのように絶えず動いているのだ。


 やっとわかった。この妙な音の正体が。


 これは馬の走る音だ。地面を打つ蹄が、ド、ド、ドというコントラファゴットのような低音を奏でているのだ。



「あ」



 フッと。



 絵の中の騎士が消えたと思った途端。



 俺の目の前の視界を丸ごと奥に押し込むようにして、大きな栗毛の馬に乗った黒騎士が、爆発的な勢いで虚空に出現した。



 長い槍の穂先が、天井からまさに降り降ろされんとしているのが遠目に見えた。穂先は鈍重でかつ鋭い。




 それは人生の終了を覚悟した時だった。




 生を諦めて潔く瞼を閉じるより先に、空間が膨張した。ような気がした。それから、俺の周囲を取り囲むように、オレンジ色の閃光が弾けたのだ。



 フラッシュライトのような炎。



 周囲を覆う無数の絵画が、閃光で塗りつぶされる。


 目が眩み、収まる。少しずつ目を開けると、俺の目の前には、途轍もないほどの熱量をもって踊り狂う炎の柱と、その光を一身に吸い込む人影が立っていた。


 顔の左半分がメラメラと燃えている少女、宮之城だ。


 どうやら彼女に助けられたらしい。俺はいつの間に部屋の隅に追いやられていた。


 命を助けられると、好感度の上昇が凄まじい。命の恩人のバフが掛かって宮之城が女神に見えてくる。これが迦十先生だったらまたちょっと事情が変わってくるのだろうけど。いや、あの人も美人ではあるんだがね。


 しかし、命を救われたとて、油断するにはまだ早いらしい。宮之城は未だに警戒を解いていない。


 それで、俺もあれだけ巨大だった黒騎士の影が、どこにも見当たらないこと気が付いた。



 どこ行きやがった。



 俺は炎に紛れる周囲の絵画に視線を投げかける。



 どこだ。



 どこだ!



 ……あ、あれか?あの絵か?



 うん、多分あれだな。



『違うっ!こっちだ間抜けがっ!!!』



 俺は叫び声のしたほうを振り返って見た。かかったなダホが。間抜けはどっちだってことよ。


 黒騎士は、先ほどまで確実に存在しなかったはずの、巨大なキャンパスの中に入り込んでいた。大きすぎてほかの絵が押しやられている。どうやらしびれを切らして絵と共に出てきてしまったらしい。 


『私の名は「黒騎士」……そしてこの馬は』


 黒い甲冑に覆われた騎士が槍を掲げると、栗毛の見事な馬が嘶く。


『「ホイッスルジャケット」。気高き競走馬よ……。貴様らの命、我々が頂戴する!!』






【ホイッスルジャケット】(ジョージ・スタッブス)






 等身大の馬と黒騎士の描かれた巨大なキャンパスが、騎士の宣言と共に一気に燃え上がった。


 宮之城が左手を掲げている。


 これが彼女の魔術か。容赦ねぇな。宣言も早々に、一瞬で燃えてしまった……。


『遅しっ!』


 ギョッとして、後ろを振り返った。






【サン=ベルナール峠を越えるボナパルト】(ジャック=ルイ・ダヴィッド)




 


『フフフ、雄大なアルプスよ』


 黒騎士はノリノリで遠征中のナポレオンになり切っている。


 絵画の世界を優雅に観光してやがる。クソっ、余裕そうな声色だ。言っとくけど、そいつナポレオン本人じゃねぇからな!


「……」


 宮之城は無言で左手を動かす。すると、かの絵も焼失した。左手を振るうだけで火焔を自在に操る宮之城の姿は、さしずめ「焔の指揮者マエストロ」といったところだろう。


 しかし、指揮者が騎士に勝てるのだろうか。


 どうだろう。


 正直、贔屓目無しに見て、宮之城は分が悪そうだった。熱焔を指揮していた左手の先が燃え上がり、宮之城の表情が苦悶に満ちる。 


 次々に周囲の絵画が炎に染まる。


 合わせるように、黒騎士は名馬ホイッスルジャケットと共に絵画の世界を縦横無尽に駆け回っているようだった。





【嵐に怯える馬】(ドラクロア)






 徐々に肉体が炎に覆われていく宮之城。






【エプソンの競馬】(テオドール・ジェリコー)






 燃やした分だけ、燃えてゆく。






【貴婦人と一角獣 —―味覚】(不明)






 左半分を覆っていた炎が口元にまで広がった。魔術の副作用が徐々に宮之城を蝕んでいるのだ。






【聴覚】






「宮之城!」


 俺は叫んだ。何も目的などない。ただ不安に押しつぶされまいとしてそうしただけだった。


 宮之城は俺の叫びに応えない。いや、応える余裕がないのか。





【視覚】






 左目が炎の勢いで覆われて、見えなくなる。






【嗅覚】






 最早顔の下半分が完全に炎によって覆われてしまっていた。


 宮之城はうめき声一つ上げない。しかし、全身が燃えているということは、当たり前だが尋常でない痛みが宮之城を襲っているはずなのだ。辛うじて垣間見える右半分の顔から、玉のような汗が噴き出しているのが分かる。


 体力が限界に達したからなのか、否か、定かでなかった。


 宮之城の左腕の動きが、ワンテンポ振り遅れる。





【触覚】





 宮之城がよろけた。右腕から、鮮血がほとばしった。


 あれは、魔術によって見せられているだけなのか?それとも、本当に怪我をしているのか?


 いや、俺にはあの怪我と宮之城の苦痛の表情が、本物に思える。


 俺は絵の中の黒騎士に注視した。






【我が唯一つの望み】






 六枚のタペストリーの中を飛び回っていた黒騎士の槍の穂先に、先ほどまでなかった血糊がべったりと張り付いてる。やはり、あの槍は魔術ではなく本物の槍だ。あの黒騎士は魔術による完全掌握ではなく、殺害にて決着をつけようとしているのだ。


『中々やるな、焔の少女、熱焔の指揮者よ』


 絵の中から、くぐもった声が響いてくる。……どうでもいいけど、黒騎士も宮之城のことを「指揮者みたいだなぁ」とか思ってたんだな。こんなピンチの時になんだが、アイツと考えが被ったのが異常に腹立たしい。






【白紙委任】(マグリット)






 新たな絵に飛び移った黒騎士は、どこか楽し気な口調だ。遠近感の狂った奇妙な絵の世界が愉快なのだろうか。


『では、これはどうだ?』


 こんな厨二を拗らせた奴に負けるのか?


 なんて言っている場合ではない。俺は唖然として、周囲をぐるりと見渡した。


 そんなのありかよ。


『貴様らにこれが防げるか』


 部屋の中の無数の絵の中に、黒騎士と馬がいる。


 どれを取って見てもだ。


 間髪入れずに、絵の中の無数の黒騎士がこちらに突っ込んでくる。拙いぞ。


 宮之城を縋るようにして見た。彼女は蹲っている。とてもじゃないが迎撃できそうにない。


 何か、俺にできることがないのか?


 俺は周囲の黒騎士たちを見た。駄目だ。こんなに数が多いんじゃ、そもそもどれが本物の黒騎士なのかわからない。


 なんて項垂れてから、死に瀕して脳細胞が活性化したのか、ふと電撃のような閃きが舞い降りて俺はハッと顔を上げて、もう一度絵の中の黒騎士をよく観察した。


 やはり、無い。


 宮之城を切りつけた時に着いた、槍の穂先の血糊が、無数の絵の中の黒騎士にはついていない。


 ということは。


 俺は目まぐるしく周囲に視線を駆け巡らせた。時間にして約コンマ数秒もかからずにそれを見つけた。俺の動体視力はこの土壇場にきて覚醒の兆しを見せているのかもしれない。


 とある絵の中にそいつはいる。穂先に血が付いた黒騎士が。

 




【サンデーサイレンス】(長瀬智之)






 見つけた。奴が本物だ。


 しかし、だから何だ。奴は絵を燃やしても死なない。別の絵に飛び移るだけなのだ。


 いや、もう時間がない。


 ええい、もう何でもいいとばかりに、履いていたスニーカーの片方を脱ぎ捨てて、遮二無二に絵に向かって靴を投げつけた。


 良い狙いだった。


 靴は絵の額縁にクリーンヒットした。


 それだけだった。


 掛けられていた絵画はその衝撃で壁から外れて、重力に従い落下していった。



 そして、額が床に激しく衝突した後、



 ぱたりと、



 絵を下にして倒れたのだった。




「……」




 周囲の無数の絵の中の黒騎士が、はたと音もなく消失した。


 倒れ伏した絵は、ピクリとも動かない。


 ……。


 えっ、


 いや、まさか。



 嘘だろ?


 俺は恐る恐る近づいた。倒れた絵の下から、何やら声が聞こえてくる。


『おい、出せ!貴様、卑怯だぞ!騎士道に則り正々堂々と勝負するのだ!!』


 ……。


 馬鹿だ。



 こいつ、馬鹿だ。


 顔のにやけが止まらない。口角が上がり過ぎて天井に突き刺さりそうだぜ。


 わかっちゃった。


 コイツ、絵の入り口をふさがれたら、絵の中から出られないんだァ~。


 良いこと知っちゃった。ある意味、コイツの「絵画の魔術」の副作用はこれなのだろうか?俺たち同様、本人も絵の世界に囚われてしまう危険性がある、ということか。


『出せ、出せぇ!』


 ガンガンと槍で地面をつついている音が聞こえる。ははは。


 うーん、甘美甘美。ここは浄土か?叫び声が心地よい。


 さぁ、どう調理してやろうかと息巻いていると、体中の炎がすっかり収まった宮之城がよろよろと近づいてきた。


「……ありがとう。助かったわ」


 若干不服そうな表情を湛えつつ、お礼を言った宮之城は、それから地面に落ちている絵の額縁にそっと触れる。


 瞬間、絵画が勢いよく燃え上がった。


 メラメラと燃えあがる火の手を、どこからともなく聞こえてくる悲鳴を肴に、しばらく二人でじっと眺めていた。


 終わる時はなんとあっけない。


 しかし、宮之城が苦戦したということは、こいつ強敵だったのだろうか?結末がアホすぎてよくわからん。


 なんて考えつつ暫くして、ようやく絵が鎮火した。


 それと共に、周囲の無数の絵画も崩れ去る。完全掌握完了、というワケだ。










 こんがり焼いたあとの黒騎士を引きずりながら、部屋の扉を開けると、目の前に迦十先生たちがいた。


「お、出てきたな。お前たちの無事を信じていたぜ」


 よろよろと部屋から出てきた俺たちを見るなり、真っ先に迦十先生が真顔でそう言った。ちょっと嘘くさい。


「うそ。十秒立ったらおいていくって、パメラ言ってた」


 アリスが容赦なくネタバレする。子供は正直で偉いねぇ。


「バッカ、お前、信じていたのは本当だっつーの。信じてこの場は託すってやつだ」


 言い得て妙だな。


「時間がねえ、すぐに上に向かうぞ」


 先生は何事もなかったかのように先に進もうと踵を返した。まあ、別にいいんですけどね。ところで、俺たちどれくらいこの部屋に閉じ込められていたのだろう。


「お前たちが消えたのに気が付いてから、一分もたっていないな」


 舞城が教えてくれた。体感、向こうには一分以上閉じ込められていたように思えるけどな。


「どうでもいいけど、早くしないと師匠に置いていかれるぞ」


 舞城の言葉に同意する。置いて行かれるのは勘弁だ。


 と思ったら、先を行っていたはずの迦十先生が真顔で引き返してきた。なんだ、トイレか?


「舞城、鏡の魔術を展開しろ」


 マジのトーンで、先生は舞城にそう命じた。言われて、俺もようやく先生の背後から迫りくる脅威に気が付いたのだった。



 そいつはいつか見た奴にそっくりだった。



 魔犬。



 俺をリアカーの中に叩きつけた奴。


 迦十先生たちがそう呼んでいた存在。


 外見は奴にそっくりである。


 しかし、俺の知る奴と違う点は、目の前の奴はリアカーを押していない、というところだった。


 だからと言って不気味さが緩和されているわけではない。むしろマシマシだ。


 そいつは、明らかに身の丈に合っていない小さな三輪車に跨っているのだった。


 明らかに小さすぎるハンドルに前脚を添えて、長い後ろ足で器用にペダルを漕いでいる。尻はもう浮いている。もっと大きなチャリに乗り直してきなさいとアドバイスしてやろう。


 犬が、三輪車に乗っている。この端的な説明、字面では到底伝えきれない不気味さを奴らは醸し出していた。或いは想像力豊かな人間ならば、これだけでも十分奴らの不気味さ、おぞましさが伝わっているかもしれない。


 リアカーのお次は三輪車というワケだ。全く歓迎されていないリージョンフォームのご登場である。


 それが一匹だけならまだよかったのだ。


 しかし、そいつらは縦にずらりと並んでいる。何匹も、だ。それに気が付いた時は背筋が震えたね。すこし視点をずらすだけで、無数の犬の目と目が合ってしまう。単縦陣形である。おかげで悪夢のようなひと時を味わってしまった。こんなに恐怖を掻き立てられる「101匹ワンちゃん」状態が果たしてこの世に存在していいのだろうか。


 俺は思わずといった風に後退して、それから後ろを振り返って、更に絶望が加速した。後ろにも全く同じような光景が広がっていたのだ。


 まるでそれは鏡合わせのような光景だった。


 反対側にも、魔犬の集団がいる。


 俺たちは挟撃されたのだ。



「師匠っ!!」



 舞城が、懐からチェスの駒、ポーンを取り出して掲げたのとほぼ同時に、左右の魔犬の陣形が、一瞬で切り替わった。


 廊下目一杯に、横並びへとシフトした魔犬が、頭部を勢いよく射出する。


 それから、途轍もない衝撃が俺の頭を揺さぶって、俺はすぐに気を失ったのだった。
















 誰かの手が、髪の毛を梳いていた。


 きめ細かな指先が、地肌をくすぐっている。誰の指だろう。野郎の手じゃないだろうな。俺は想い瞼を何とか押し上げて、顔を上げて、目の間の人物にボケた焦点をあわせた。


「やっと起きた」


「芭芭?」


 芭芭はニコニコ笑って、俺が顔を上げてなお、俺の頭から手を放そうとしなかった。何をやっているのだ。


「んーん、別に?」


 やはりニコニコ笑いながら、芭芭は俺の髪を梳くのをやめない。なんだか異様に気恥ずかしい。芭芭の指先が揺れるたびに、心臓が妙な揺れ方をする。ドキドキ、とかではないが、心臓の筋膜が擽られているような心持とでも言えば上手く伝わるだろうか。


 芭芭はいったい何を考えているのだ。今が放課後だからよかったものの、もし休み時間にこんなことをされた暁には周囲の好奇の視線で射殺されてしまうところだったぞ。


 と、思ったら、後ろの方から強い視線が。


 俺は上に乗っかっている芭芭の掌に構わず振り返ると、宮之城が分厚いハードカバーの本を開いたまま、横目でこちらをガン見していた。うわわ。


「違うんだぞ」


 謎の弁明を始める俺。


「何が?」


 案の定、宮之城は凍ったサンマのような冷たい視線を、俺と宮之城の間辺りに彷徨わせている。圧倒的勘違いの大旋風が巻き起こっている。


「別にいいんじゃない?いちゃいちゃしていても。付き合いたてほやほや、て感じで微笑ましいわ」


 全く微笑まし気でない顔で、宮之城は吐き捨てるように言った。自分の吐いた言葉すら汚らわしいとでも言わんばかりの表情だった。


 なんか滅茶苦茶怒っている気がするんだけど、コレ俺のせいなのか?


「勘違いも甚だしい。俺と芭芭は付き合ってなどいない」


 それから、俺は後ろで頭をなで続けている芭芭はに同意を求める。


「だよな?」


「……」


 ところが芭芭は、ピクリとも返事を寄こさない。こらこら。悪ふざけはやめなさい。マジでちょっと本気で怒ってらっしゃるから、あの方。


「……」


「……」


 かたや、俺には目もくれず、速読というにはちと早すぎるのではと、違和感を覚える程度の絶妙なスピードで開いた本を繰る宮之城と、かたや無言のまま、やはりどういう訳か頭をなで続ける芭芭。


 俺が爆睡している間に何があったのか、頼むから誰か教えてくれ。教えてもらったところでどうにもならんだろうけども。


「あ、お、俺ちょっとトイレ……」


 この謎に気まずい空気から逃れるため、俺は秘儀「ちょっとトイレ」を使った。


 芭芭は名残惜しそうに手をどかし、宮之城はじっとこちらに視線を寄こす。


 俺は慌てて教室を後にした。し、しかたないよね?トイレだから。生理現象だから!


 俺の心の中での必死な言い訳は、トイレに駆け込んで、白い便座に腰を下ろしてしばらくまで続いた。


 どれだけ踏ん張っても一滴も絞り出せないことを思い知らされてから、ふと冷静になる。なにやってんだ、俺。


 冷静になった俺は、思案に暮れた。


 芭芭と宮之城の不審な態度に、ではない。それも気にはなるが、それよりも最近よく見る夢の内容についてだ。


 今なら、もはや辞書でも引くかのように思い出せるほど、夢の内容を鮮明に思い出せる。


 直近の内容は、あの魔犬バージョンツー、魔犬2とも呼ぶべき三輪車のヘンタイ犬に襲われたところまでだ。


「……」


 なんというか。


 俺は天井を見上げて、個室の天井のシミを数えた。そんなにたくさんはない。それから、胸の内にたまりにたまっていたため息をトイレの個室一杯に吐き出した。


 思ってたのと、違うんだよな。当初こそ異世界転移だ並行世界だ、って内心盛り上がっていたのだが、いざ蓋を開けてみれば、読者どころか当の本人すら置き去りの超展開に無茶苦茶ハードな魔術師ライフ。ていうか、肝心な魔術の方も、なんか思っていたのと違うし。


 高度に進歩した催眠術?


 違うんだよなぁ。求められているものが。


 需要と供給が致命的にかみ合っていない。


 時代が求めているのは、適度なファンタジーと適度な謎、適度な冒険だ。ゆるい時代なんだからゆるいコンテンツが求められてるわけ。


 ところが今の所、謎100冒険100ファンタジー1って塩梅なんだもんな。


「……」


 俺は子供の頃読み漁っていた数々の小説のストーリーやら設定やらに、想いを馳せた。あのけったいな夢やら妄想やらの土台は、これらの記憶のかけらからなるものなのだろうか。それとも……。それとも、妄想や夢なんかじゃ、ない?


 ファンタジー、SF、ミステリ。あらゆるジャンルの創作物がこの世には存在する。


 もちろん、それらが作り話なのだという前提は、なんなら幼稚園の頃から俺はちゃんと知っていた。だけど、いよいよ完璧なフィクションだと信じて疑わなくなったのはいつ頃だ?その時から、俺は何もかもがつまらなく感じるようになったのだ。


 あの世界は?


 俺にとってあれはどう解釈すべきものなのだろう。


 夢?それとも現実?


 魔術なる奇怪な概念が存在し得る、隣り合わせの世界が、並行世界が本当に実在するとでもいうのだろうか。 


 思案に暮れていた俺の頭上に、何者かの気配がじっとりとした湿度をもって突如出現した。


 俺はなんとなく顔を上げて、


「――っ!!?」


 ハッとして、もう一度よく、個室の上の隙間辺りを見つめる。誰もいない。


 しかし、ほんの瞬きする前は、巨大な犬の頭が隙間からこちらを覗き込んでいたような気がしたのだ。


 魔犬の頭が。


 俺は慌てて個室から飛び出した。それから、入っていた個室の両隣の個室をすぐに確認する。当然のように、何もいない。


 それもそうか。いるわけがないのだ。あいつが。こちらの世界に。


 なんて、どれだけ言い聞かせても心臓の高鳴りを抑えることができなかった。言っとくが恋じゃないぞ。


 俺は荒れる息を整えつつ、洗い場に立って手を洗う。あの世界のことを考えすぎているせいで、あんな変なモンを幻視してしまったに違いない。


「……」


 ドバドバと流れる水を一身に受け止めていた手が、はたと中空で静止した。


 いる。


 鏡越しに、その姿を完全に見た。


 三輪車に乗った怪物。魔犬2が。血管の浮き上がった黒と茶の毛並みが、手洗い場の鏡の世界に幽霊のように浮かび上がっている。


 有無を言わさない勢いで振り返ってやった。幻覚じゃないというのなら、これではっきりと目があっちまうだろう。藪蛇でないことを祈る。


 ところが、やはりというべきなのか、確かに鏡でみたはずのその姿は、現実の世界には出現していなかった。


 咄嗟に鏡に視線を戻してみても、どういう訳だか魔犬の姿は忽然と消失しているのだった。なんだというのだ、全く。


 止まらない冷や汗を拭いつつ、俺はトイレを後にする。もう付き合ってられん。教室でうたた寝なんかするから、あんな妙な幻を見てしまうのだ。帰って寝よう。


「悪い、俺もう帰るわ。いい時間だし」


 教室に逃げこむように入った俺は、開口一番にそう言ってやった。宮之城と芭芭の間にはなおも微妙な空気が流れていたが、今他人様を気にする余裕は俺に残されていなかった。


「そう?わかったよ。私はもう少し残ってく」


 芭芭はとくに俺の様子を気にすることなく、手をひらひらとさせた。宮之城は無言でこちらを横目に見るだけだった。


「おう、そうか」


 俺は机に掛けていたカバンを素早く手に取ると、


「じゃあな、芭芭」


「うん、ばいばーい」


「宮之城も、また明日な」


 宮之城は、今度は視線すら寄越さなかった。どうにも機嫌が悪いらしい。心なしか冷や汗をかいているような気もするが、もしかして体調も悪いのだろうか。明日は気遣ってやろう。今は……すまん、家に帰って寝かせてくれ。


 俺は教室を飛び出した。


 自然と早足になっていくのがわかる。身体が丸ごと、何かから逃げようと必死にもがいているようだった。向こうの世界じゃ逃げている真っ最中だったか。じゃあ、その時の感覚が残っているのかもな。


 もし。


 もしもだ。向こうの並行世界と、こちらの世界。何かしらの繋がりがあるとしたら?あの魔犬は世界の壁を越えて俺を襲いにやってくるだろうか。この思い付きをバカバカしい妄想だと切り捨てられるか?


 俺は首を振った。振らざるを得ない。日常が崩壊していく面白さはフィクションだからこそ成立するのであって、現実にそのような出来事が起こってしまえば、面白さよりも寧ろ困ることの方が圧倒的に多い。人間なんて、スクリーンの向こうでいかなるドンパチが起きていようが素知らぬ顔のくせに、現実世界じゃトイレットペーパーがなくなるってだけで発狂するような生き物なのだ。俺だってトイレットペーパーがなくなるのは困る。誰だって困る。尻を拭けないからな。


 悠々自適で安心安全な日常のためなら、面白おかしいフィクションなど糞食らえ。


 ガキの頃は違ったかもな。危ない橋をいくつも渡ろうとした。ジャングルジムのてっぺん。ブランコ一回転。マダニやらアオダイショウやらの潜む雑木林。分別のつく大人ならゾッとするようなことに、何でもかんでも突っ込んでいった。学校の退屈さを紛らわせるために読んでいた本の世界も、土地開発ですっかり見かけなくなってしまった、草むらへの冒険も、子供の頃の俺にとっては等しい現実であった。


 それだけじゃない。どんな些細な疑問にも突っかかっていった。謎は解き明かしたくて仕方がなかった。俺はそういう人間だった。


 いつからこんなに大人になったのだろうか。小学生の頃か?それとも中学?もうどうでもいい。


 とにかく、もう魔犬は出てこないでくれ。向こうの世界なら別に構わないが、こちらの世界にはやってこないでくれ。


 わけのわからぬままに廊下を走り回った。


 すると尻ポケットが振動した。


「うわっ」


 慌てて携帯を取り出す。電話が鳴るたびに冷や汗がにじむのは現代病か?それとも。


 電話は非通知だった。でるか。出ないか。


 俺が大学生やら社会人だったらば、或いは無視したかもしれない。だけど、俺は好奇心に負けて、電話に出ることにした。


「……もしもし」


 返事がない。


 いや。何かが聞こえてくる。


『—―って……たんだろ――』


 誰の声だ。女性の声だ。聞いたことがある、ような、ないような。電話の声と実際の声は結構違うかなら。知り合いのであっても判別がつかないことがままある。オレオレ詐欺が成立する所以だ。


 でも、声のイントネーションなんかで、俺には向こうの相手が誰だかわかってしまった。


『この尻軽が』


 芭芭だ。


『ミミズみたいな汚い顔で、私の内藤に媚びへつらいやがって。色魔』


 なんだ。何の話をしているのだ。


『な、何の話』


『惚れたんだろ。優しくされて。ビッチが。殺すよ?』


 え?


 芭芭……だよな?何言ってんだ?これ、俺に話してるんじゃないよな。誰に話しかけているんだ。もう一人別の声が聞こえてきたのだが。


『そんなわけ……』


『おい、とぼけないでよ、こら、ねぇ。ゆるさないよ。ちょっと可哀そうだからって。


 古狸、


 悪辣、


 妖婆、気持ち悪い。恥を知れよ』


 何これ、ラップ?


 全然ライム感じないけど。


 じゃなくて。これって……。


 俺は嫌な予感がして、すぐさま引き返した。携帯は耳に当てたまま。


『今度誘惑したら、こんなんじゃ済まないから』


 俺は疾風の如く駆けた。まるで、強風で背中が帆のように膨らんでいるような気がした。その幻覚が俺の背中を後押ししたのだ。見てはいけないなどとは微塵も考えなかった。


 俺は教室にたどり着いた。そう遠くはなかった。


 教室の戸は閉まっていた。俺はその扉越しから、教室の中を覗くこととなったのだ。


 扉を開こうと取っ手にかけていた手が、ぴたりと止まった。


 芭芭と、宮之城が対面している。宮之城は少しばかり後ずさっているように思えた。何かに怯えているかのような表情を浮かべながら。


 芭芭は己の左手を口内に突っ込んで俯いていた。まるで暑さでおかしくなった蛇が自らの尾を飲み込んでしまうかのように、左手を、手首の更に向こう側まで、すっぽりとのみ込んでしまっていた。


 うつむいたまま、芭芭の視線の先は宮之城の机の上にじっと凝らされて固定されている。机の上には宮之城のカバンが、口を開けた状態で無造作に置かれていた。


 芭芭の背中とお腹が大きくうねった、かと思ったその瞬間、ずぼっと引き抜かれた左手とともに大量の吐瀉物が宮之城のかばんの中へと吐き出された。なにやっとんの?


 もう完全に使い物にならないだろう。あのかばんは。


 これは、もう……冗談では、済まなくないか?


 自然と、俺と二人を隔てていた扉が開いていった。どうやら手に力が入り過ぎたらしい。思いがけず開けてしまったようだ。


 芭芭がギョッとした表情でこちらを見る。


「ば――」


 俺が何と声を掛けたらいいかもわからないままに口を開きかけたその時、芭芭は脱兎の如く駆けだした。俺の脇を、信じられない程機敏な動きで抜けて、教室を飛び出す。


「おいっ!」


 教室を出ていった芭芭をすぐにでも追いかけようとして、はたともう一度教室の方に視線を戻す。宮之城がこちらを茫然とした様子で見ている。


 事情を聴くなら、まずはこちらが先か?


「何があったんだ」


「いや、私にも、何が何やら……」


 俺は宮之城に近づいて、それから机の上のカバンを見る。


 ……。 (色々アレなので細かい描写は避けます)


「私のことは良いから、あの人を追いかけたら?」


「えっ、でも……」


 俺はカバンから何とか視線を引き剥がし、


「よくわからんが……これ、俺が原因でこうなったんじゃ?」


「別に。これは私が、片付けておくから……」


 いやでもこれ、だいぶ匂うけど。いいのか?ほったらかしで。洗うのとか手伝うけど。


「あの人がやるならともかく、内藤くんにそんな義理ないでしょ。それよりも、芭芭さんの問題が先決じゃないかしら。あの人、尋常じゃない様子だったから……」


 こんなことしやがった人間を慮る。


 聖人の生まれ変わりかなにか?


「バカなこと言ってないで」


 俺は宮之城になけなしのお礼の言葉を投げかけてから、芭芭の後を追った。


 しかし、追ってどうするのだというのだろう。手首を捻り上げてカバンの弁償をせよとでも宣うか、事情を聴いて宮之城との仲を取り持つか。もうそういうレベルも奇行ではなかったような気もする。二度と取り返しのつかない出来事が起きてしまったような予感がするのだ。どうしてこうなった?あの謎の電話越しに、アイツ、なんて言ってたっけか。駄目だショッキング過ぎて思い出せねぇ。


 無駄に長い廊下を、俺はひた走る。つーか、こんなに長かったかしら。


 そんな疑念が降ってわいたのもつかの間、俺の身体は不意に謎の不可視の障壁に阻まれ、俺は額をぶつけて、あっけなくひっくり返った後、死に瀕した蝉みたいにもんどり返って仰向けに倒れ伏したのだった。


 一体何が起きたのか。


 身体を起こして、目を開くと自分自身と目が合った。


「……」


 違う。


 鏡だ。


 俺の目の前に、巨大な鏡が出現している。目が合ったのは鏡に映った自分だったのだ。一瞬とはいえ勘違いしてしまうとは情けない。今時タコですら自身の鏡像を認識できるというのに。


 そうじゃないだろ。なんで学校の廊下のど真ん中に、こんなバカでかい鏡が置かれているのだ。


 鏡の向こう側には廊下が無限に広がっている。おそらくこの鏡写しになっている廊下を見て、やけに廊下が長いと感じたのだろう。


 俺は体当たりをして鏡を割ろうとしたが、びくともしない。仕方ないから引き返そうと踵を返して、再び自分自身と目が合った。目が合ったどころではない。縦に並ぶ無数の俺と、目が合った。いつか見た単縦陣である。


 つまりどういうことか。先ほどまでなかったはずのもう一枚の鏡が合わせ鏡となって、俺に盾に続く無限の像を見せかけている、ということらしい。


 俺はいつの間にか鏡の牢獄に囚われてしまった。


 俺は目頭を押さえようかどうか迷ってから、やはり押さえることにする。夢でも見ているのか、見ているとしたら、何時からだ。芭芭のショッキングな例のアレも、全部夢だったのか?


 それともここはもうすでに並行世界なのかもしれない。


 だとすると……。


 俺はもう一度、鏡に顔を向けた。


 鏡には、俺と、三輪車に乗った魔犬が写っていた。


 逆の方の鏡を見る。当たり前のように、そっちにも魔犬が写っている。


 魔犬は小さなペダルを踏みしめるたびに、ゆらゆらと、犬の頭を左右に揺らした。振り子のような動きだ。


 合わせ鏡の中の魔犬は、巨大な単縦陣を組んで俺の元へと迫り来るようだった。それが合わせ鏡の性質が生んだ錯視なのか、それとも本当に魔犬の大群がやってきているのか、俺には定かでなかったが、ともかくとして俺は必死で脚を動かして、その場から逃げ出した。


 校内は夢幻のミラーハウスと化した。どこを見ても、そこには鏡に映った俺か、或いは俺を追いかける魔犬の鏡像が見えるばかりだった。最早俺の見えている景色が、鏡による錯視なのか、或いは俺の思い込みが映し出された単なるイメージなのか判別がつかない状況にまで陥っていた。俺は何度もガラスに頭を打ち付け、前進も後退も叶わない。やがて気力を失って、俺はその場にへたり込んだのだった。


 これはあの魔犬の攻撃なのだろうか?それとも、すべては俺の妄想なのか。


 敵が誰にしろ、攻撃しなくてはならない。俺は襲われているのだ。ただ怖れ、ひたすら狼狽し、みじめに逃げ惑うだけではこの脅威を覗くことなどできないのだ。俺はおい詰められて確信せざるを得なかった。


 攻撃だ。


 俺は、握り締めたまま手に持っていた携帯電話を、更に強く握り込んだ。


 舞城は言っていた。俺のトークンは「スマホ」だと。もし本当に俺が魔術を扱えるというのなら、魔術が存在するのなら。


 このスマホを使えば、魔術を発動できるはずだ。というか、できないと困る。


 攻撃、いや、「解錠」するんだ。


 この何者かの魔術的攻撃を防がなければならない。


 魔犬がすぐそばまでやってきている。いつのまにか無数の鏡像が俺を囲んでいた。犬の唸り声が乱反射する。



 逡巡。葛藤。決意。絶叫。



 俺は声の限り、叫んだ。



 直後、或いは叫んでいる最中。



 無数の中に鏡の中にそれは出現した。巨大なトラックの断片が鏡のあちこちに映し出される。やがて、それらは奇妙な模様を描き始めた。大型トラックの各種パーツが織りなす万華鏡。


 ヘッドランプ。ウィンカー。ワイパー。ドアハンドル。サイドミラー。タイヤ。ホイール。マフラー。ブレーキランプ。コンビネーションランプ。


 フロントパネル。フロントグリル。レーダーガーニッシュ。バンパーコーナー。コーナーパネル。ドアガーニッシュ。クォーターガーニッシュ。オーバーヘッドコンソール。フロントガラス。ドアトリム。バックパネルトリム。


 サイドドア。サイドパネル。サイドガード。ジョロダレール。リアバンパー。リアドア。リアドアフレーム。



 ナンバープレート。



 さしずめ大型トラックの百花繚乱である。



 咲き乱れるトラックの鏡像。



 全ての鏡像が開いて、うねり、



 やがて一点に収縮した次の瞬間、



 鏡の牢獄が木っ端みじんに弾け飛んだ。



 無数の鏡の粉塵が俺を包み込んで。












 ―――――意識が消失した。





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