カモミールの滝 2

「暮れる前に水浴びしてくる」

華寿海が持ってきてくれたタオルを持って、池の淵をぐるっと周る。小川で服を濯いだ後、浅瀬のところまで行き水に入った。

澄んだ水の中では、大小様々な魚が泳いでいる。膝ぐらいの水位のところまで行き、夕飯になりそうな魚を見繕ったが、万が一その魚が主だったらいけないと思い、捕まえることはしなかった。

「華寿海ー!!服乾かして頂戴!!」

大声で呼ぶと、滝の後ろから華寿海が出てくる。石の上に広げた服を拾い、温かい風を呼ぶと一気に服が乾いていく。

「早く身体拭け。服着たら髪も乾かすぞ」

「あ、待って。魚が沢山泳いでるから捕まえてくる」


急いで池に戻り、中くらいの大きさの魚を2匹捕まえた。

「これ、主じゃないよね?」

「ああ、違うよ」

「良かった。中で鯉がよく泳いでたから、主はきっと鯉だったんじゃないかな」

「そうか」



その夜は、魚を食べてすぐに布団に入った。

居場所が見つかった時の夜、華寿海はいつもより長く寝る。この晩も、華寿海が食後に「もう寝る」と言ったので一緒に布団に入ったものの、全く眠くなかった。

大きな水音が華寿海の寝息を掻き消す。

頬杖をついて轟音の方を向くと、洞穴の入口で縁取られた森の景色を、滝が分断している。

今夜は月が明るい。月の光を通して見るこの水場は、昼とはまた違ってとても幻想的だった。跳ねる飛沫のひと粒ひと粒が、光を纏って水面に還る。そうして還った光の雫は、緩い風を受けて繊細に波を立てるのだった。細かな波によって、水面は魚の鱗のように輝いている。

いつまでも見ていられた。



華寿海の呼吸のいくつ分だろうか。

ぼんやりと景色を眺めていたその時、月光に透ける滝に小さな影が混ざった。

最初は一つ、次は五つ、八つ……。

そうして数えきれない程の影が落ちてくるようになった。

布団を飛び出し池の淵を周っていくと、滝から流れ着いたであろう影を浅瀬で見つけることが出来た。

影の正体は、あの白い花だった。

しかし白い花弁は水に濡れ、透けて黄色い花粉にべったりと纏わりついている。もう、紛れもなく「黄色い花」と呼べるものであった。

水に濡れたその花はますますその芳香が高まり、月下の神秘的な景色と相まって、どこか強い意識が感じられた。


この花が流れてきた崖上を見ると、人の形をした何かが居た。

月の光を浴びているが、全身はそれ以上に光を放っている。人ではないと思った。

目が合うと、それは背を向けて逃げようとした。

「待って!!!」

大きな声に驚いたのかすぐに止まり、何かを考えた後にまたこちらを向いた。

「待ってて!!今そっちに行くから!!」

濡れた花を置いて、上に続く岩まで走って行こうとしたその時、


「…良ければ、このままでお話しませんか」

静かで透き通った声が聞こえた。

「え、……声、どこから?」

「水を流れるカモミールが声を伝えます。ですからそちらも大きな声でなくて大丈夫ですよ」

「カモミール、ってこの花?」

「そうです。私はカモミールの精なのです」

「そうなんだ!僕は人間です。滝の裏の洞穴にお邪魔してました。本当はもう一人居るんだけど、今寝ちゃってて…」

「ええ、知っています。こちらの春の神様でしょう?」

「知ってるの?」

「はい。風の噂で」

「そうだったんだ」


「あの…、カモミールの精さん」

「冴仁衣(さにい)とお呼びください。名はそう言います」

「分かりました!冴仁衣(さにい)さん、僕は絵都(えつ)って言います。一緒に居るのは華寿海(かすみ)です」

「絵都(えつ)さん…」

「はい。それで…、冴仁衣さんがこのカモミールを滝に流していたの?」

「そうですね」

「どうして?」

「…ふふ、」


「どうしてでしょうね」

ゆっくり考えてから、冴仁衣さんは微笑んだ。身体から放たれる光が闇に溶けていく。

黄色にも、黄緑色にも見える光。

一瞬、あの宝石の色を思い出した。


「…秘密?」

「ふふふ、絵都さんは素直なのですね。その通り『秘密』です」

「仲良くなったら、話してくれますか?」


「ふふ、約束は出来ませんが」

「それでも嬉しいです」



「あ、そうだ。冴仁衣さんはこの滝の主を知りませんか?一緒に居る華寿海が、こういう水場には大抵居るはずなのに、気配が無いみたいだって」

「ああ…、ここには鯉の主が居るのですが、今は不在です」

「やっぱり鯉なんだ!でも、主が不在でも大丈夫なの?」

「ええ、私が代理を任されています」

「そうだったの!ごめんなさい、挨拶しないで勝手にお邪魔しちゃって…」

「いえ、大丈夫ですよ。私も春の花です、あなた方がいらっしゃってとても嬉しいのです」

「本当?」

「ええ、本当ですよ」

「良かった…」

ほっとして、緊張が解けていく。


「月もだいぶ動きました。絵都さん、そろそろお休みになった方がいいでしょう」

「うん、そうする。でもまたお話したいなー!次も会えますか?」

「ええ。次の夜にも花を流しますから、その時にでも」

「分かった!また次の夜に」


「カモミールの香りには安眠の効果があります。ぜひ、摘んでいって枕元に置いてみてください。崖の下にも少しですが咲いています」

「ありがとう!…ええと、華寿海の分も摘んでも良い?」

「ふふ、華寿海様のことがとても大切なのですね。勿論です、お好きなだけどうぞ」

「ありがとう!冴仁衣さんおやすみなさい!」

「おやすみなさい、絵都さん」


僕は2人分のカモミールを摘んで、滝の裏の洞穴に戻った。

花を枕元に置いて布団に入り、目を開けたら朝になっていた。

「すごい…、眠ったのも気付かなかった」

「この花、摘んできたのか?」

「うん!夜、冴仁衣さんっていうカモミールの精に会ったんだ」

「カモミール?」

「うん、この花の名前。で、カモミールには安眠効果があるから枕元に置いてみて、って言われて置いてみたらぐっすりだったよ」

「そうか。良かったな」

「ありがとうって言わなきゃ。また夜話す約束したんだけど、華寿海も一緒に行こう」

「いや、お前が話してくれば良いよ。俺は別にいい」

「そう?」

「ああ、行っておいで」

「あ、でも一回ぐらいふたりで挨拶しに行こう。冴仁衣さん、この滝の主の代理をしてるんだって」

「そう言ってたのか?」

「うん。思った通り滝の主は鯉だったんだけど、今は不在だって」

「そうか」


その夜、また滝に小さな影が落ちた。

「冴仁衣さんこんばんは!華寿海も連れてきたよ」

この夜は僕たちが崖の上に登って会いにいった。

「絵都さんこんばんは、華寿海様も初めまして」

「様は付けなくて良い」

「分かりました」

「やっぱ遠くで話すのもどかしくて、会いに来ちゃいました」

「崖を登ってきたのですか?」

「はい」

「……」


「冴仁衣さん?」

「お前が崖を登るなんて思わなかったんだろ」

「え?」

「ふふ、人間というのは崖を登れるものなのですね」

「いや、こいつは別だ」

「えー、別に誰でも登れるんじゃない?でも、驚かせちゃったのはごめんなさい」

「いえ、驚いたというより感心したのですよ。こうして会えて嬉しいです」

「良かった!」


「ひとついいか、カモミールというのはカミツレのことか?」

「ええ、こちらではそう呼ばれていますね」

「華寿海、知ってたの?」

「春に咲くからな、名前は聞いたことがあった。この花がそうだったのだな」

「そうでしたか。光栄です」

「そんなに畏まるな」

「ははは」



また、別の夜。

「ねぇ冴仁衣さん、主ってどんな人?あ、人じゃなくて鯉か」

「ええ、人ではなくて鯉ですね。どんなと言われますと…、大きい鯉でしょうか?」

「大きいの!?」

「ふふ、主ですからね、身体は大きかったです。ここからでも泳いでいるのが見えましたよ」

「へー、それは大きいね」

池は月の浮かぶ夜空を反射して、魚影などひとつも見えない。


「主はどうして不在なの?」

「旅をしているのです」

「旅?」

「ええ」

「へー、ずっと同じところにいると他のところに行ってみたくなるのかな。僕たちとは正反対だね」

「そのようですね」

「あとどのぐらいで帰ってくるの?」

「分かりません」

「え。じゃあ、どのぐらい帰ってきてないの?」

「五十年ぐらいですかね」

「え!!」

「……」

「驚かせてしまいましたね」

「うん、驚いた」

「長いな」

「ええ、長いですね」

「主、勝手だね…」

「ふふ、そうですね。勝手なのです」

「…もう貴方が主で良いんじゃないか?不安だったら、俺も便宜を図れるが」

「まあ、そうなのですが…。私は陸に棲む花の精ですし、一応その主の顔は立てているのですよ」

「そうか」

「ええ…」



こうして僕たちは夜の間、冴仁衣さんと話すようになった。最初「俺はいい」と言っていた華寿海も、毎晩一緒に話している。

冴仁衣さんは西の出身で、昼は天上というところに行っているのだという。毎夜、滝から花を落とすのを合図にして、僕たちが上に登っていって話をした。西の話、天上というところの話、そして冴仁衣さんが仕えているという太陽の神様の話。

今夜も崖の上で、冴仁衣さんがカモミールを滝に流すのを見ながら話をしている。


「へぇ、カモミールって薬草なんだ。確かに言われてみれば匂いが薬草っぽいかも」

「沢山の効果があるのですよ。安眠効果のほかに、頭痛、風邪、婦人病、炎症、消化不良など、様々な症状に対して用いられていました」

「そんなに!?すごいねー!僕あんまり調子が悪くならないから、実感出来ないのが残念だけど…」

「ふふ、健康なのは良いことでしょう。それに健康な方であっても、香りのリラックス効果などは感じることが出来ますしね」

「確かに、僕ここに来てから毎晩寝てるかも。夜、寝転がってて気づいたら寝てるんだよね」

「今までが変だったんだ。それが普通なんだよ」

「えー、そうなのかな…?」

冴仁衣さんは今夜も変わらず身体に光を纏っている。

水面はその黄緑の光を反射し、花はひとつずつその光る手を離れていく。

放たれた花は水中で少し光り、ゆっくりと流れ、そして落ちて行く。


「睡眠は健康を齎します。毎日眠れているのは良いことだと思いますよ」

「絵都、今のうちにもっと嗅いどけ」

「えー、まだここ離れたくないよー」

2人で改めて挨拶をした際に、僕たちが訳あって転々としていることを冴仁衣さんには話しておいた。冴仁衣さんが華寿海のことを「知っている」と言っていたからだ。予想通り、冴仁衣さんは僕らの事情も風の噂で知っていたらしく、「しばらく居ても構わない」と言ってくれた。


「ふふ、結構ですよ。前にも話しましたが、ここは私の棲家なので、一年中カモミールの花が咲きます。元々季節はあまり関係ないのです。それに、私は別に仕えている神様がいらっしゃいますし、華寿海さんの影響もほとんど受けないでしょう」

「有り難いが、元々長居するつもりは無いからな」

「え、」


「そうですか。ではお別れの際にはポプリを差し上げましょう」

「ポプリ?」

「ええ、乾燥させた薬草を布の袋に入れて、その香りを気軽に、長く持ち運べるようにしたものです」

「良いの!?」

「はい、作るのも簡単ですから。それに、お二人が来てくれて感謝しているのです。長いこと、一人で夜を過ごしていましたから。こうしてお話が出来ることを、嬉しく思っています」

「本当!?冴仁衣さん!ありがとう!!僕たちも嬉しい!!」

「こんなとこで急に立つな。落ちるぞ」

「ふふ」

「あ、ごめん。でも本当に!?」

「ええ、本当です」

「やったー!!その、『ポプリ』も大切にするね!」

「ありがとうございます。そうして下されば、私も嬉しいです」

僕たちの存在が、そして時間が、共に受け入れられていることが嬉しい。

心が暖かくなって、その日は新しくカモミールを摘むのも忘れてぐっすりと寝た。





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