第6話

 先頭を走っていた車から降りたライモントは、後続車のドアを恭しく開けた。さっと左手を差し出せば、きめ細やかな肌をした右手がそっと触れる。ワンピースの裾から足先を覗かせ、洗練された動作でシフォニアは地面に立った。一抹の寂しさを叱咤し、ライモントは手を離す。最低限のエスコートしかしないというのは、まだダヴロスのことを思っているだろうシフォニアに対して密かに立てた誓いだ。

 クルエ辺境伯爵邸ほどではないが、豪勢な造りをした貴族の屋敷が目の前にある。ライモントの亡き父親の友人である、ジャッツ伯爵の邸宅だ。

「クルエ辺境伯、ヴィリーズ令嬢、ようこそお越しくださいました」

「ジャッツ伯爵、久しぶり。せっかく会えたんだから、他人行儀はよしてよ」

「では、お言葉に甘えて。久しぶりだな、ライ」

 玄関の外で出迎えてくれたトール・ジャッツ伯爵と、ライモントは心からの笑顔で抱擁を交わした。貴族学院の卒業と婚約で忙しくしていたので、前回顔を合わせたのは随分と前のことだ。己が幼い頃から変わらぬ関係性に、ライモントの心はふっと緩む。

 トールは、焦げ茶色の短髪をオールバックに整えた五十路の男性だ。紅色の双眸は柔らかな光を宿しており、振る舞いからもその気性の穏やかさが感じられる。

 二人の様子を眺めているシフォニアは、およそ身分の隔たりを気にしないやり取りに驚いたようだ。トールはもう一人の父親のような存在だと、ライモントは事前に教えておいたが、それでも珍しいものは珍しいらしい。しかし、優雅にカーテシーをしてみせる対応力は失っていない。

「初めまして、ジャッツ伯爵。この度ライモント・クルエ辺境伯爵と婚約させていただきました、シフォニア・ヴィリーズと申します」

「お初にお目に掛かります。トール・ジャッツと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

 トールの案内で、ライモントとシフォニアはテラスに通された。春陽が差し込むそこは、ぽかぽかと暖かい。用意された紅茶は赤く、カットされた苺が沈んでいた。

 ようやくライモントも伴侶を見つけて安心できたと、トールは慈愛に満ちた表情で息を吐いた。ライモントは現在十八歳であり、爵位を継ぐには若すぎるが、婚約するにはやや遅れている。尤も、その理由は父親の早すぎる死の他に、シフォニアを見詰めているうちにめぼしい女性が皆婚約してしまったことにあるのだが。トールの態度にその見透かしを感じ取ったライモントは、恥ずかしいやら申し訳無いやらで目を伏せた。わざわざ口に出しはしないでくれてありがたい。

 二人はいつ頃からの付き合いなのかとシフォニアが尋ねたので、己が生まれたときからだとライモントは答えた。ライモントの父親とトールは貴族学院の同級生であり、非常に親しい仲を築いていたとトールも言う。その眼差しに郷愁を見たライモントは、第二の父親であるトールにシフォニアを紹介できて嬉しいと、努めて明るく述べる。

「私は、ヴィリーズ令嬢と婚約させていただけて良かったと思っておりますので……」

 ちらとシフォニアを窺いつつ告白すると、シフォニアの顔には困ったような微笑が浮かんだ。前科など関係無いと伝えたかったのだが、逆に圧力を与えてしまっただろうか。己の過失に、ライモントはすっと目を逸らす。

「――……お二人は、婚約なさっているのではないのですか?」

 不意にそう問うたのは、トールだ。シフォニアに対してもの問いであるから、ライモントにするような気楽な口調ではない。あくまで確認といった意味合いのそれに、ライモントもシフォニアもきょとんとして頷いた。すると、トールはおどけるように肩をすくめてしまう。

「そのご様子では、あたかも主人と使用人かのようですよ。ライ、君は将来の妻をファーストネームで呼ぶことさえ許されていないのか?」

「いや、そういうわけでは……」

 今度はライモントが困る番だった。シフォニアと距離を取っているのは、わざとだ。きっとシフォニアは今もダヴロスのことが好きで、ライモントはいっそ邪魔者でさえあるだろう。ライモントが介入しなければシフォニアはダヴロスと共にいられたとは言えないものの、シフォニアが望まぬ形になってしまったのは事実だ。ライモントは、シフォニアを無理矢理手にしてしまったことに負い目がある。だからこそ、できる限りの不干渉を貫いたほうがいいはずだ。

「――私は……」

 そこで口を開いたのは、シフォニアだった。はっとしてライモントが視線を向けると、意気込んだかのごとき双眸と交差した。

「良ければ、ライモント様と親しくなりたいと思っています。この先も、共に暮らすことになるのでしょう?」

「……は、はい、それは……そうでございますね」

「ライモント様が、私に気を遣ってくださっているのは分かっています。ですが……このままではいけないと、考え直したのです」

 つい先日のことですが、とシフォニアはばつが悪そうに眉尻を下げた。しかし、その声に以前のような悲痛は含まれていない。

 確かに、とライモントは気づく。ここ数十日、シフォニアから話しかけてくれる機会が増えた。それはやはり日に三度の食事の席のみで、わざわざ訪ねてくることはなかったが、その心に変化があったというのは何となく感じられた。だが、そこにライモントこそが関わっているとは思いも寄らなかった。

「どうか、私のことはシフォニアと呼んでくださいませんか?」

「……」

「差し出がましいことを申しますが、敬語もやめるべきかと思いますよ」

 夫婦円満の秘訣は互いを認め尊重することだと、トールは助言した。どちらかが上であったり下であったり、そういう関係にするべきではないと。礼儀は決して失ってはいけないが、謙虚も行きすぎれば毒であると。たった一人の女性と三十年以上寄り添い、子供を四人持っているこの先人の言葉には含蓄があった。

 二人の視線を浴び、ライモントは決心する。

「分かったよ。では、私のこともライモントと呼び捨てに。……長くて呼びづらければ、ライと呼んでくれても……」

「ええ。では、ライ、これからもよろしく」

 柔らかに笑ったシフォニアは、片手を差し出した。ライモントはそれをそっと握り、握手を返した。初めてきちんと触れた素肌は温かく、己の表情が歪になっていないか心配になる。どきどきと高鳴る、この胸の鼓動が伝わってしまっていないだろうか。

 その後はいっそう和やかに会話が弾み、気づけば長い時間が経っていた。そろそろお暇すると二人が席を立つと、トールも見送りのために立ち上がる。

 ロータリーに停車している車のドアを開け、ライモントはシフォニアを乗せた。己は別の車に乗ろうとし、けれどシフォニアに呼び止められて首をかしげる。その手は、空いた隣席を控えめに示している。鳥の歌声に似た美しい声は、良ければ隣に、と唯一の婚約者を誘った。

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