第4話

 月が昇る頃、ライモントは食堂を訪れた。約束の時刻にはあと三十分以上あるので、当然ながら待ち人はまだ来ていなかった。大人しく座って待っている気にならず、窓辺に寄ったり壁にもたれたりと忙しなく足を動かしてしまう。傍らで紅茶の用意を進めている侍従に苦笑されたが、それに笑い返す余裕も無い。

 シフォニアが話したがっていると侍女から聞いたとき、ライモントは歓喜とも恐怖とも言えぬ衝撃を覚えた。どうやら遅ればせながらの親睦会といったようであるものの、予想外の急展開にこちらが付いていけていない。果たして、面と向かって何を言われるのか。婚約を解消したいとか実家に帰りたいとか言われたところで、それを叶える術をライモントは持ち合わせていないのだが。

 シフォニアが食堂に姿を見せたのは、それから二十分ほど経った頃だった。

「ライモント様、こんばんは」

「あぁ、ヴィリーズ令嬢……」

 振り返ったライモントは、一瞬、目を奪われた。極力不自然にならないよう呼吸をやり直し、こんばんは、と辛うじて挨拶を返した。

 静かに現れたシフォニアは、何とも無防備な格好をしていた。最低限の装飾だけが施された純白のワンピースに、化粧をしていないからなのか日中よりもあどけないかんばせ。藤色のショールを肩に羽織っているとは言え、そう易々と他人に見せるべき姿ではない。まるで赤く熟した白桃かのごとく、甘美で蠱惑的な佇まい。

 すでに夕食も湯浴みも済ませた後とあっては当たり前かもしれないが、ライモントにしてみれば刺激が強すぎた。席を勧めるふりをして目を逸らし、息苦しいほどの胸の高鳴りを落ち着ける。テーブルに用意されたハーブティーを飲むと、体の熱がすっと抜けていく心地がした。

 二人共喉を湿らせたところで、シフォニアは口を開いた。

「貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございます」

「いえ、滅相もございません。こちらこそ、ヴィリーズ令嬢とお話させていただく機会をいただけて光栄でございます」

 シフォニアが困ったように黙ってしまったので、庭の散策はどうだったかとライモントは尋ねた。そのときの様子は案内した侍女から報告されているが、せっかくなら本人からも聞きたい。すると、シフォニアは少しだけおかしそうに頬を緩めた。何でも、侍女が教えてくれた動物たちのエピソードが印象に残っているそうだ。中でもお気に入りは、食事中に居眠りしてしまう小鳥の話だった。ちょうどその現場に居合わせたらしく、他の鳥の翼の音にぎょっとして飛び起きるのが愛らしかったのだと言う。ここの庭に住み着いて平和主義者になったのだとライモントがおどければ、シフォニアはころころと笑った。久しく目にしていなかったその表情に、ライモントはほっと息を吐く。

 やがて、抱えていた緊張がいい具合にほぐれたのか、シフォニアはややばつが悪そうに言葉を紡ぎ始める。

「あの……ライモント様は、どうして私にここまで良くしてくださるのですか?」

「……どうして、とは?」

「……恥ずかしながら、私は咎人です。王命を賜った以上、私はこの場にいさせていただくより他にありません……。つまり、ライモント様が私にお優しくなさる必要性は全く無いのです」

 それなのになぜ、とシフォニアは悲痛そうに表情を歪めた。そこにあるのは、ライモントへの疑心だ。深く傷を負ったその清らかな心は、人として当然の施しにさえ恐れを抱いている。

 ライモントとシフォニアの婚約は、国王による命令だ。第一王子の殺害未遂への罰として、シフォニアはクルエ辺境伯爵領で一生を終えることを命じられている。ライモントがシフォニアを歓迎しようが冷遇しようが、その決定が覆ることは決してない。それゆえにシフォニアが疑心暗鬼に陥るのも、何ら奇妙なことではないだろう。

 しかし、この経緯にはもう一つの出来事が関与している。そして、当のシフォニアはそれを知らないらしい。両親から何も聞いていないのかとライモントが問うと、言われたかもしれないが心当たりは無いと、シフォニアはすこぶる申し訳無さそうに答えた。ライモントはそれを責めはせず、にこやかに了解した。シフォニアの心の目が現実を認め始めたのは、つい最近のことだ。

「実は……この婚約は、元々私が申し込んだものなのでございます」

「ええ、パーティーでライモント様自らおっしゃってくださったと……」

「いえ、そういうことではございません。――ヴィリーズ令嬢が帰国なさる三ヶ月ほど前に、私はヴィリーズ公爵に婚約を打診しておりました」

 ライモントが意を決して放った言葉に、シフォニアは瞠目と沈黙を返した。

「……どういう、意味ですか……?」

 その震え声に、やはり言わずに誤魔化していれば良かったかとライモントは思う。だが、すでに後の祭りだ。シフォニアの傷を抉ると分かっていながら、ライモントは恐る恐る口を開いた。

 シフォニアとダヴロスの婚約が解消されたのは、今年の春のことだ。されど、シフォニアを除く関係者たちは、去年の秋にはとっくにそのつもりで動いていた。他でもないダヴロスが、シフォニアとの婚約を取りやめたいと早いうちから国王夫妻に申し出ていたからだ。また、シフォニアの両親であるヴィリーズ公爵夫妻は、娘の意見を聞くまでもなくそれに賛同していた。たった二年間の留学も待てない王子のもとへ、そして、それを咎めず浮気を傍観していた国王夫妻のもとへ、最愛の娘を嫁がせる気は無かったのだろう。それがシフォニアにとって最善であったかは微妙なところだが、紛れもなく親心というものだった。

 この動きはあくまで水面下で進んでいた。同時に、シフォニアの新たな嫁入り先もひっそりと探された。しかし、全てを隠しきったまま事態を解決することは不可能だ。木の葉を伝い落ちる雨水のように情報は動き、程無くしてライモントの耳にも入った。

「密かに、お慕いしておりました。もし月に手が届くのならと、あなたのお気持ちを存じておりながら、私は……」

「ま、待ってください。私は、あの方との結婚を誰からも望まれていなかったということですか?」

 ガタン、とシフォニアは立ち上がった。ショールを胸元でかき寄せ、蒼白な顔でライモントを見下ろした。その双眸は潤み、シャンデリアの明かりを反射して揺れている。見ているこちらが痛みを覚えるほど、その傷の凄惨さは明瞭だった。

「違います、それは決して。少なくとも、私もヴィリーズ公爵夫妻も、あなたが第一王子殿下と幸福になることを夢見ておりました。ただ、そうはならなかったがゆえに……」

「いいえ、いいえ!」

 まるで宵の空から紡いだかのごとき黒髪は、真冬の荒れ狂う曇天のごとく乱れた。シフォニアは取り乱し、一歩、二歩と後ずさる。椅子に体をぶつけるのも構わず、ぐちゃぐちゃの感情を湛えた眼でライモントを非難した。私は、と何かを言いかけ、けれど文にはしないまま口を閉ざす。叫ぶことも喚くこともせず、あたかも暗い水の底で溺れているかのよう。はらり、とその目尻から涙が落ちた瞬間、シフォニアは逃げるようにライモントの前から姿を消した。

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