第2話

 悪夢が現実となったパーティーから、一ヶ月後。どうにか貴族学院の卒業式を終えたシフォニアは、翌朝には逃げるようにして王都を出た。車の窓から見える空は、今の心模様と同じ曇天だ。分厚い灰色の雲に遮られ、初春の光など一切地上に届いていない。

 本当は、留学が終わる前から気づいていた。初めて妙だと思ったのは、離れ離れになって一年経った頃だろうか。ダヴロスからの手紙に、それまでのような愛情を感じられなくなった。代わりに漂っていたのは、ぎこちなさと負い目だ。

 当時のシフォニアは、何がダヴロスをそうさせるのか想像もできなかった。ダヴロスのことを愛していたし、あの人も帰国後の結婚を心待ちにしてくれていると信じていた。何か悩んでいるのかと尋ねても明確な答えは与えてもらえなかったから、まだ王族でない己には言えないことなのだと楽観視していた。結婚したら聞かせてほしいと、叶うわけがない想定で励ましの言葉を綴った。今思えば、それに対する返事が必ずではなくありがとうであったことに、もっと疑いの気持ちを抱くべきだったのだろう。

 帰国したら、家族も友人もよそよそしかった。留学中の出来事は楽しそうに聞いてくれるのに、シフォニアがダヴロスのことを尋ねると曖昧なことしか教えてくれなかった。そして、開かれたパーティーで全てを悟った。己はとっくにダヴロスから見放されていたのだと、その隣に立つ女性を見て突きつけられた。

 その後のことは、よく覚えていない。気づけば婚約を解消しており、気づけば新たに婚約しており、気づけば卒業していた。

「――お嬢様、到着いたしましたよ」

「……?」

 気づけば、シフォニアが乗っているのは自動車ではなく汽車だった。

 侍女と護衛に挟まれ、シフォニアは乗り物から降りた。駅はたくさんの人で賑わっており、誰かが捨てていったらしい新聞紙が地面で丸まっている。ぼんやりとしていたシフォニアの意識は、煙の臭いで徐々に覚醒していった。己が王都を出てから、どれだけの時間が経ったのだろうか。クルエ辺境伯爵領は、当国の最北に位置している。侍女に今日の日付を尋ねると、卒業式から半月が過ぎていることが分かった。言われてみれば、気温はすっかりと暖かい。

 太陽の下に出ると、一人の貴公子がシフォニアに気づいて駆け寄った。色素が薄い茶髪に、初夏の木々を思わせるような澄んだ翠眼。背は十分高いのだが、どこかあどけなさを感じさせる不思議な青年だ。

「ご無沙汰しております、シフォニア・ヴィリーズ公爵令嬢。私はライモント・クルエと申します」

「ええ、存じております」

 しまった、とシフォニアは口に出してから後悔した。今の言い方は、あまりに素っ気なかったのではなかろうか。いくらシフォニアの実家のほうが強い力を持っているとは言え、相手は正統な辺境伯爵だ。しかも、建前はどうであれ、本来ならば処刑されるはずだったシフォニアを救ってくれた命の恩人でもある。それにも関わらず口を突いたこの一言は、ライモントの善意を侮辱するにも等しい愚行だったのではないか。

 しかし、ライモントは溜め息の一つさえ吐かなかった。

「お疲れでしょう?車をご用意しております。こちらへ」

 そう言って、ライモントはゆったりと歩き始めた。程無くして目的の車を見つけ、運転手でもないのにドアを開けてシフォニアを乗り込ませる。そして、己はその隣に座らず、代わりにシフォニアの侍女を入れるとドアを閉めた。やがて、車は走り出す。

 シフォニアたちがクルエ辺境伯爵邸にたどり着いたのは、同日の夕方だった。ヴィリーズ公爵邸ほどではないものの、立派な門扉が一行を迎え入れる。窓からそっと様子を窺っていたシフォニアは、これから暮らす屋敷が煉瓦造りであることを知った。

 ロータリーに停まった車のドアを開けたのは、やはりライモントだった。左手を差し出し、シフォニアの右手を優しく引いて車から降ろす。

「ようこそ、我が屋敷へ。夕食までは時間がございますから、お先にお部屋へご案内いたします」

「ありがとうございます」

 玄関ホールでは、大勢の使用人が頭を下げてシフォニアを迎えた。ライモントはその中から何人かを指し、家令やら侍女長やらだと最低限の紹介をした。その最中にシフォニアが感じたのは、どの人も礼儀をきっちりと弁えているが、同時に人懐っこさがにじんでいるということだ。主人であるライモントを侮っている風ではないが、自然と笑顔を交わしている。これまで目にしたことがない光景に、シフォニアは漠然とした疑問を覚えた。尤も、それは輪郭を得るまでもなく消えていったが。

 長い廊下には、動物の剥製が等間隔で飾られている。クルエ辺境伯爵領は自然豊かな土地であり、領民は森の恵みを糧として生きている。ここに展示されている剥製は、クルエ辺境伯爵家の者が自ら狩った獲物だそうだ。ライモントが仕留めたものもあるのかとシフォニアが聞くと、玄関にあった牡鹿がそれだと言われた。シフォニアは褒め言葉を贈ろうとして、けれど具体的にどのような見た目をしていたかはっきりとは思い出せなかった。正直、紹介された使用人の顔もよく覚えていない。気まずさから逃れようとして、シフォニアはライモントの顔から目を逸らした。

「こちらがヴィリーズ令嬢にお使いいただくお部屋でございます。そちらの使用人の話を参考に色々と揃えましたが、ご要望がございましたら何なりとお申しつけくださいませ」

 案内された部屋は、ライモントの私室から距離を置いた位置にあった。すでに荷ほどきは済んでおり、開け放たれた窓から春の香りが舞い込んでいる。揺れるすみれ色のカーテンを目にし、シフォニアはほっと息を吐いた。あれほど焦がれた青色は、この部屋のどこにも無い。

 ふと、思う。シフォニアがダヴロスの瞳の色を好んで身にまとっていたように、ダヴロスも控えめながら銀色を好いてくれていた。まれに王城の私室にお邪魔させてもらうと、銀糸で刺繍されたカーテンがそよ風に揺れていて、シフォニアはその景色にささやかな幸福を感じていた。今、あのカーテンはどうなっているのだろうか。シフォニアとの婚約を解消してすぐ、過去の象徴として片づけられてしまったのだろうか。それとも、シフォニアが帰るよりも早くに捨てられてしまっていたのだろうか。今、ダヴロスの部屋を彩る色は、シフォニアではなくあの女性の色に変わってしまっているのだろうか。

「……ヴィリーズ令嬢、夕食の頃になりましたら、お迎えに上がります」

「……」

 ライモントが退室するや否や、シフォニアはうずくまった。服の裾が床に着くのも構わず、膝を抱えて顔をうずめた。涙というものは、そう簡単に涸れてくれないらしい。う、あ、と引きつるような声と共に、透明な滴が頬を濡らした。

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