第16話/Agape



 彼女の目にじわりと浮かんだ涙は、すぐに滝のように流れ出して。

 豪雨の夜だというのに、慎也の目には不思議とはっきり見えた。


「ど、どこっ、どこに行ったのっ!? パパ、ママ、何処に――」


「――俺も探す、見つけよう」


 青ざめた顔は鬼気迫る形相で、砂緒は汚れるのも厭わずアスファルトに這い蹲りながら必死に探し始めた。

 彼もまた、彼女と同じように探し始める。


(少し離れてるとはえ排水溝か……転がって入ってなきゃいいけど)


 ない、ない、と譫言のように繰り返す砂緒の声が、慎也にも強い焦燥感を与えた。

 自分まで引きずられる訳にはいかない、少しでも冷静に探して早く見つけないと二人とも風邪を引いてしまう。

 ガードレールの下、植え込みの下、車道と歩道の段差など、思いつく箇所は全て探して。


「――――ッ、ネックレスのチェーン……」


「指輪はっ!? 指輪は無事なの!?」


「チェーンが切れて指輪は……」


「ッ、ち、チェーンがあったなら、きっと近くに――」


 彼女が転倒した数メートル先に、千切れたネックスのチェーンだけがあって。

 発見した慎也に駆け寄り、砂緒は這い蹲って付近を探す。

 豪雨であり、傘もないがスマホのライトで探すべきか彼が悩んだその時だった。


(あれ、このネックレス……けっこうボロいな)


 メッキが剥げている所を見ると、随分と使い込まれている上に安物である気がする。

 砂緒は何故、こんな物を大切な指輪に使っていたのか。


(違う、こんな物じゃない。たぶん……これも砂緒のご両親の)


 形見の一つなのだろう、でなければ使い続ける理由がない。

 きっと彼女が記憶を失った時も、同じ状況だったのだ。


(強がって、一人で生きてく、って顔してさ)


 恋人になる前に教室で見ていた彼女の刺々しくも凛々しい姿は、きっと寂しさの裏返しで。


(見つけないと、――でも、本当に見つかるの?)


 いくら今が夜で、豪雨で、広い交差点だとしても。

 恐らく、落ちている範囲は今二人でいる一角。

 それを丁寧に探しているのだ、なのに見つからない。


(最悪を……考えなきゃいけないのかッ)


 落ちて転がって行った先で、排水溝に落ちてしまった可能性が高いのかもしれない。

 もしそうなら、絶対に見つかるはずがない。

 慎也は絶望的な思いで再び探し始める、こうなれば諦めるように説得した方がいいのだろうか、と。


(――――指輪はもう一つあるよね、俺が持ってるの)


 素早く外して見つけたフリをすれば、きっと彼女は喜ぶだろう。

 感謝の涙を浮かべながら、慎也に満面の笑みを向けてくれるかもしれない。

 でも。


(それは、砂緒を傷つけるだけだよ)


 拳を強く強く、痛いほど強く握り、彼は弱い考えに至った己を戒めた。

 今はそれで誤魔化す事ができるだろう、だが大切な指輪が、彼女にとって大切な両親の愛の証が欠けてしまった事実に変わりはない。

 何より、後でソレが露見した時に一番傷つくのは言うまでもなく。


「――――っ、砂緒?」


「もしかしたら、車道にあるかも……」


「砂緒ッ、車ッ、車来てるからっ!!」


「~~~~っ!? ご、ごめっ、……ありがとう」


 危ない所であった、立ち上がりふらふらと歩き出した彼女は周囲が見えておらず。

 赤信号だというのに、横断歩道を渡ろうとしていて。

 慎也が慌てて後ろから抱きしめて止めなければ、彼女は轢かれて死んでいたかもしれない。


「……気づいてないかもだけど、探し始めてからもうすぐ一時間近くだ。一度帰って、明日の朝早くまた探そう?」


「で、でもッ!! あれは――」


「お願いだよ砂緒、君にとって大切な物だって分かってる、でも…………君が死んでしまったらどうするんだよ!! お願いだ、お願いだから……」


「~~~~~~ぁ」


 泣き叫ぶような慎也の懇願が、砂緒の胸に突き刺さった。


「ズルい、ズルいよ、そんな言い方……っ」


「どんな手を使ってでも、一生かかってでも俺が見つけるから、必ず見つけるから、だから今は帰ろう?」


「で、でも!!」


「――――今の君まで、俺から奪わないでくれよ頼むからさァッ!!」


 嗚呼、と砂緒は観念した。

 後ろから抱きしめられているから慎也の表情は分からない、けど声は確かに泣いていて。

 震えているのは雨に打たれている寒さからじゃない、喪うかもしれない恐怖からだ。


(ゴメン、パパ、ママ……絶対に見つけるから、今は無理でも、絶対に……)


 彼女は一度だけ強く目を閉じた後、か細い声で分かったと言った。

 すると彼は安心したように力を抜いて、彼女の手を引いて歩き出す。

 無言、激しい雨の音だけが聞こえる、世界にまるで二人しか存在しないよう。


(本当にこれでよかったのかな、でも俺は……)


(…………手、あったかいな)


(――――今日は、少し疲れたよ)


(助けられちゃった、……あの時もそうだったの? 慎也くんが見つけて――)


 彼の顔が見れない、どんな顔で見ればいいのだろうと彼女は俯き。

 彼女の顔が見れない、どんな顔をして見ればいいのかと彼は俯き。

 とぼとぼ、とぼとぼ、歩いて、歩いて、その内に慎也のアパートまで戻ってくる。


「…………お風呂沸かしてくる、俺は君の後でいいから、先にシャワー浴びて暖まっててよ」


「そこは家主である慎也くんが先でしょ、……私は迷惑かけちゃったから」


「女の子が先って相場は決まってるでしょ、ほら行った行った」


「ダーメ、とりまタオル貸してくれればいいからっ! ほら先に暖まってっ、あ、お姫様だっこで連れて行こうか? 私って力持ちだから出来ると思うっ」


「ぐぬっ、力付くで押さないでよ分かったからっ、俺はシャワー浴びたらすぐ出るから砂緒はちゃんと暖まってよ!!」


 ぐいぐいと豪腕で猛烈に押され、慎也は仕方なく先に暖まる事にした。

 当然その間、砂緒は渡されたタオルで体を拭いて待機である。

 脱衣所から濡れた服が洗濯機に投げ込まれる音が聞こえる中、彼女は手のソレを見て首を傾げる。


「…………フツーのタオルに見えるけど、ちょっと慎也くんが選びそうじゃないのだし、やっぱり私の――」


 端に小さな花柄があるタオル、どう見ても女性が選んだ品で。

 そして念のためにタグを確認してみると、砂緒が愛用しているブランドのロゴが。

 自然と緩んだ口元を隠すように、顔や髪を拭き始める。


「もし、見つからなかったら……」


 口をついて出るのは、マイナスな考え。

 大切にしていたのに、両親との繋がりだったのに。

 こんな事なら、大事にしまっておくのだった。


「チェーン、変えればよかった。パパの学生時代のお古、壊しちゃった……ごめん、ごめんなさいママ、ママの宝物だったのに――」


 寒い、雨に打たれて冷えた体が、何より心が寒い。

 どうすれば暖かくなるだろうか、湯船に使って本当に暖まれるのだろうか。

 違う、そんな事で寒さは消えない。


「――――あはっ、一緒に入っちゃおっか?」


 小さい呟きは、自暴自棄に満たされて。

 澱んだ瞳で砂緒は、濡れて体に張り付いたワイシャツの釦を上から外し始める。

 もしかしたら。


「慎也くんが抱きしめてくれたら、寒くなくなるかな?」


 何もかも忘れるぐらいに、強く抱きしめてくれたら。


「体には自信あるの、読モなんだから、だからきっと――」


 彼は拒まない筈だ、拒まれたら泣いてしまう、心が死んでしまう。

 のろのろと一つ、ゆっくりとまた一つ、釦が外れていく。

 砂緒を突き動かそうとしてる衝動は、逃避でしかないと分かっている、でも。


「…………今、なにか」


 一番したの釦を外し、ワイシャツを脱いだ時だった。

 足下に何か落ちた気がし、砂緒は緩慢な動作で下を向き。


「――――――――――――あっ」 


 彼女の目は驚きに見開かれ、口はポカンと開いたのであった。

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