File1:S高の幽霊『普通の人生』


 十七時を過ぎ、西の空がほのかに赤く染まり始めていた。部活動を行う生徒たちの活気に満ちた声は途切れることなく続いている。

 彩花の姿は屋上にあった。転落防止の柵に両肘を乗せてぼんやりと眼下の景色を眺めている。初夏の風が彩花の頬を撫でていく。瑞々しい香りがする。ここは静かだ。

 しかし突如鉄製の扉が軋んだ音を立てて開いた。場の静寂を乱す侵入者に彩花は歯を噛み締める。


「良かった。まだ校内にいたんですね」


 呑気な男の声だ。彼女は気怠げに振り返ると躊躇いがちに口を開いた。


「……隠さん」

「ちょっと校内を見回ってまして。すれ違った生徒からは訝しげに見られましたが。一応入校証は下げてるんですけどね」


 隠はやはり素顔のまま彩花の方へ近付いていく。彩花は柵に背を預けて隠と向かい合った。後ろ手で柵を握り締める。

 数歩踏み込んでもまだ彩花には手の届かない距離で隠は立ち止まった。これ以上近寄るなと無言の圧力で立ち止まらせた、が正しいかもしれない。


「私に何か用ですか?」

「グラウンドを見てたんですか? 気になる部活でもありました?」


 隠はわざとらしく話を逸らした。薄ら笑いを浮かべながら彩花の背後を見やる。


「…………」

「なんか青春って感じですよね。おれは残念ながら縁がありませんでしたけど」

「…………」

「そう言えばS高は屋上に普通に入れるんですね。漫画やドラマだけの設定だと思ってました」


 彩花に話しかけているような口振りだが、ただの独り言だ。隠は端から返事を期待していない。会話をするていで何かを企んでいる。彩花への接近も諦めていない。

  

「…………何をしに来たの」


 その言葉を待っていたのだろうか。隠は不遜に笑った。校長らの前で取り繕っていた愛想が瞬く間に剥がれ落ちていく。


「鮎長千夏さん。きみの言う『次』を失敗させるために来たのさ」

「…………」


 沈黙など気にも留めずに隠は滔々と話す。


「安藤さんは誰かに突き落とされたわけじゃねえ。もちろん躓いて落ちたわけでもない。自分から落ちたんだ。だがそこに安藤さん自身の意思はなかった。安藤さんに取り憑いたきみが身体の主導権を握っていたからだ。今のようにな」

「…………」

「きみが亡くなって三ヶ月しか経ってない。生前の記憶はまだ残ってるな?」


 と言って自身の頭を人差し指で叩く。隠は言動の全てで意図的に彩花を――彩花の中にいる千夏を挑発していた。千夏は鼻で笑って応える。


「あっそ。ずっと視えてたってこと? インチキじゃなかったんだ」

「まぁな」

「こんな役に立たないお守りを渡してきたくせに」


 ポケットから白いお守りを掴み出して地面に投げ捨てた。更にローファーで踏みにじる。ここまでしてもお守りは千夏に一切の影響を与えない。

 しかし彩花はこれを多少は信じていたようだ。お飾りでしかないのにすぐに捨てもせずポケットに入れていたのだから。まったくおめでたい頭をしている。


「それは許してくれ。おれのやり方は邪道でね。形だけでもそれっぽくしないと信用されないんだ」


 隠は大仰に肩を竦めた。おまけに悪びれた様子もなく言い訳をしつつ千夏との距離を詰めようとする。千夏は柵に強く背中を押し付けた。


「それ以上近付いたら飛び降りてやる」


 彩花の腰より僅かに高いだけの柵は簡単に乗り越えてしまえるだろう。今の距離では隠の制止も間に合わない。しかし千夏の脅しにも隠は平然としていた。

 誰とどういう契約を結んでいるかは知らないが、たとえ彩花が死んでも報酬は出るのだろう。ゴミ同然のお守りといい千夏の機嫌を取ろうともしない傲慢な態度といいそうでなければ説明がつかない。演技だとしたら一体何のために?


「安藤さんのときみたいに? 今度は高さがあるから失敗しないだろうな」

「そう。失敗しない。こいつは死ぬの」

「こいつは、ね。安藤さんはもう狙わない? 諦めるのが早いんだな。学校から出られないからか?」

「…………」


 図星を突かれて千夏は黙り込んだ。しばし千夏の顔色を窺ってから隠が言葉を継ぐ。


「安藤さんはまだ入院してるよ。幸いなことに身体のどこにも傷は残らないそうだ。心に負った傷は別だがな」

「そうらしいね。ちょっとくらい顔が潰れても良かったのに」

「安藤さんの顔に何か思うことでも?」


 先刻までの人を喰った態度は鳴りを潜めて神妙な顔つきに変わる。それが余計に千夏の神経を逆撫でした。


「外見が良くて周りからチヤホヤされてきた人間に思うことなんかいくらでもあるでしょ」


 と吐き捨てて彩花の顔を指差す。そのまま思い切り爪を立てて傷を付けてやりたい衝動に駆られた。一筋でもいいから醜い傷が残ればいい。それでもまだ未来は明るく開けているだろう。


「人とすれ違うたびにブスだって笑われてるかもなんて心配する必要もない。卑屈にならなくて済むから普通のことを普通にできる。意識しなくても普通になれる」

「普通に高校生活も送れる?」

「そうだね。クラスで底辺のグループにすら弾かれるって怯えずに済んで、昼休みが来るたびに吐きそうにならなくていい。漫画やドラマで見るような劇的なことが起こらなくたって普通のことで思い出は作れる」


 千夏は隠を睨み付けたまま捲し立てる。惨めだ。無様だ。胃液をぶち撒けてしまいそうなのは、乗っ取ったはずの彩花の身体が必死に抵抗しているせいだろうか?

 隠は千夏を憐れむでも同調するでもなく問いかけ続ける。


「きみは普通になりたかったのか?」

「そうだよ。私は普通になりたかった。普通に高校に行って普通に大学に行って普通に就職する普通の人になりたかった」

「普通の人になれなかったから死んだのか?」

「事故死だって信じてないの?」

「きみが死を望んでいたことに変わりはないだろう」


 隠の真面目腐った言葉がおかしくて千夏はひしゃげた笑みを浮かべた。彩花の両手に目を落とす。理絵と同じように爪の一枚一枚が丁寧に手入れされていた。かつての千夏とはあまりに遠い。

 乾いた両目で隠を捉える。 


「普通になるにはもう取り返しがつかない歳だったからね。私は両親にとって重荷なだけだったし、社会のゴミだった。本当はもっと早く死ぬべきだったけどそれも勇気が出なくてできなかった……もしかしたら何かが起きて変わるかもって根拠のない望みにすがってずっと先延ばしにしてた」

「その日はそれまでと何が違ったんだ?」

「さあ。幸せな夢を見て早く目覚めたのかも」


 つまり理由なんてあってないようなものだった。別に望んで車に轢かれたわけじゃない。最期の最期までそんな勇気は持てなかった。いくつかの偶然が重なり自分のところへ突っ込んできた車を、ほんの僅かではあるけれど避ける猶予のあったそれを前にして、これまで通りに何もしなかっただけだ。


「死んで……S高に戻ってきて何か変わったか?」

「何も。ずっと羨ましいだけ。胸が苦しくなるだけ。普通になれなかった自分が恥ずかしくなるだけ」


 S高が嫌いだった。周囲の人に馴染めない自分はもっと嫌いだった。嫌いだ嫌だと自分を憐れむだけで努力もできない自分を殺してほしかった。

 千夏は自嘲する。そんなどうしようもない人間だからもう死んでいるのに未だ死にたいだなんて考えてしまうのだ。


「でも学校を離れられなかった」

「そうよ。いたくないのに、見たくないのに、ここにいなくちゃいけない。今更戻ってきたって意味がないのに。つらくなるだけなのに」


 文字通り死ぬまで誰にも言わなかったことをほとんど初対面の不審者に吐露している。異常だ。普通がいいと望んでいたはずなのに。千夏は泣きたかった。涙は出ないが。同時にゲラゲラ笑いたくもあった。ヤケクソだ。

 もう一杯一杯の千夏に隠が真顔で追い打ちをかけてくる。


「きみとってはここが普通になり損なった決定的な場所なんだろう。そしてきみの無念は『核』を成すほどに強烈だった」

「『核』? 何を言ってんの?」


 隠はひとり納得したように喋っている。当然ながら千夏は置いてけぼりだ。

 幽霊の『核』だなんて聞いたことがない。死んだ後にもそんな知識は得られなかった。適当なことを言って千夏を煙に巻こうとしているのだろうか。

 あからさまに怪訝そうな顔をした千夏に隠は悠然と説いてみせた。

 

「死者にとっての心臓のようなものだ。死者をこの世に留まらせる錨とも言えるな。自分じゃ視えなくても、おれには視えてる。よく視えるよ。それがある限りきみはどこにも行けない。もうとっくに終わっているのに終われない」


 胡乱な言い草だ。正しさを証明するものなど何もない。だとしても薄々察していたことを他人から突きつけられれば狼狽えもするだろう。

 望んでS高に留まっているはずがない。ましてや当時の姿に戻ってまで。死んでそこで終わりで良かったのに。生きても死んでも結局は地獄に囚われている。


「アハハ。やっぱり私はどうしようもないね。目についた奴らを殺して憂さを晴らさなきゃ狂っちゃう」

「もう狂いかけてるさ。生前のきみはどうしようもなかったとしても無関係な人を殺しはしていない」

「勇気がなかったからだよ。死ぬ勇気は持てたんだから殺すのだってできるでしょ。だって階段から飛び降りたとき……あの子を飛び降りさせたとき、こうなって初めて嬉しいと思えた。あの子の輝かしい未来をゴミの私が潰してやったんだって」


 浅ましい本音を吐いて吐いて吐き出す。そうすることで無意識に積み上がっていた狂気の輪郭をようやく掴めた気がした。

 千夏は狂いかけている、すでに狂っている。ただの八つ当たりだと自覚しながら他人を害することに躊躇いどころか喜びを覚えているのだから。


「安藤さんは生きてる。多少回り道をすることになったとしても未来は明るいままだ」


 常人に諭すように隠は言う。千夏は狂いかけていると指摘したのと同じ口で。

 理絵が生きているからどうだというのだろう。決定的な過ちを犯さずに済んだと千夏が安堵するとでも思っているのだろうか? 


「いちいち癇に障ること言わないで。この子の命は私が握ってるって分かってないの?」

「十分に分かってる」


 予想通りの冷めた返答に千夏は心から微笑んだ。


「それなら良かった。十二分に苦しんで」


 千夏は素早く身を翻して柵を越えようとした。右足を柵の上に乗せる。後は左足も持ち上げて向こう側に行くだけ。

 隠は絶対に間に合わない。彩花が笑顔で落ちていくところを見た隠がどんな顔をするのか知りたくて堪らなかった。暗い高揚感が千夏を満たしていく。


「そうはいかない」


 しかしそれを妨げたのもまた隠だった。断固とした声に千夏が振り向くと、隠は一歩も動いてすらいない。下らないはったりだ。千夏はそう見切って正面を向こうとする。けれど何かが引っ掛かった。

 千夏が地面に叩きつけて踏みつけた白いお守りが黒くなっている。汚れとは違う。内から滲み出てくる黒色によって。ひと目で背筋が凍り付く。


「!」


 千夏は本能的な恐怖から柵を越える、いや、柵から一気に飛び出そうとした。

 だがそんな千夏の右肩をお守りから出現した黒い手――の形をした何かが掴んだ。千夏が視線を下げる。黒い手は腐肉のような泥のようなもので形作られていた。

 ぎょろり、と手に蠢く沢山の目が千夏を一斉に見て嗤って憐れんで無視して愉しんでいた。


「! なに、何なのこれ。気持ち悪い。気持ち悪い!」


 千夏は半狂乱になって叫んだ。黒い手にはさほど力がこもっていない。振り払うのも難しくはないだろうが、千夏には不可能だった。

 見たくはないのに目が離せない。見てはならないのに覗き込んでしまう。右肩から無数の小虫が這い回る感触が全身に広がっていく。マグマを血管に流し込まれながら神経の一つ一つを氷の針で突き回されている感覚もある。

 しかし千夏の透明な臓腑を灼くのは苦痛ではなく未知の怒りだった。生者にも死者にも分け隔てなく。万人に向けられた途方もない怒り。呪い。普通の人にもなれなかった千夏が抱くにはあまりに多すぎて重すぎるもの。

 黒い手が千夏の動きを止めている間に隠がやって来ていた。隠が千夏に触れると黒い手は跡形もなく消えた。迷いなく柵から引き離そうとする隠に放心状態の千夏は抗えない。


「………………」


 千夏は呆然と地面に座り込む。その目の前に隠がしゃがんだ。声をかけるでもなく千夏の胸元に向かって手を伸ばす。ひっ、と引き攣った呼吸音が漏れる。

 隠の右肩から右手の指先まで全てがあの黒い手に変貌していた。どろどろでぐちゃぐちゃなのに崩壊することはなく千夏を蝕んだ黒い手が再び自分へ向かってくる。

 黒い手を覆う目玉は隠か千夏を見るかあるいはまったく見当違いな方向を眺めていた。一方で隠自身は目を閉じる。


「……や……ろ……っ」


 無駄だとしても止めろと叫びたかった。けれど鈍った喉では意味の取れない掠れ声を出すのが精一杯だ。

 黒い手が心臓の近くに突っ込む。手は背中へ貫通することも出血させることもないまま、何かを探るようにどこかへ沈んでいく。

 しかし千夏は何も感じない。先ほどと違って。それが途轍もなく恐ろしかった。千夏は瞬きも忘れて隠が手を動かすのを見つめるしかない。そして一分足らずで決着はついた。

 捕まった、と直感が告げている。これで終わりだとも。闘争か逃走か。生者の真似事をして千夏は恐怖の呪縛から解き放たれた。


「や……止めろ。さっ、触るな、っ……触らないで!」


 ようやく明瞭な声になった懇願は当然ながら聞き届けられない。

 だが、隠の瞼を上げさせることはできた。光を手当たり次第に呑み込んでしまいそうな濃い紫の瞳が露わになる。


「きみの核はよく視えるから、こうして簡単に掴み出せる」


 胸から手が引き抜かれる。彩花の身体から離れるのと同時に黒い手から元の手に変化していく。そうして元に戻った手のひらには透明の球体が握られていた。

 途端に彩花の全身が脱力する。頭から真後ろに倒れそうになるのを隠が左手で抱きとめた。

 隠は頭をぶつけないよう慎重に彩花を地面へ横たえてから右手に掴んだ球体――『核』を掲げた。橙色に変わりつつある陽光に照らされたそれには鮎長千夏本人の顔が映っている。学生ではなく、三ヶ月前の彼女の姿だ。

 彩花に怪我をさせずに千夏を引き剥がすことができた時点で隠の仕事はほぼ終わっていた。このまま問答無用で処理するかどうか悩んで、まだ日も落ちていないしあと少しだけ付き合ってもいいかと結論を出すのに数秒もかからなかった。

 早速球体に向かって声をかける。


「今の気分は?」

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