第十四集:城
初夏の香りが近づいてきた頃。
およそ一ヶ月にわたる行軍の末、燕国の
「どうだった? 久しぶりの行軍は」
「師匠との旅で慣れているつもりでしたが、やはり、全員の健康状態を考えながらの旅は大変ですね」
馬から降り、身体を伸ばしながら青空を見上げた。
少し橙色が混ざり始めている。
兵士たちが野営の準備を開始した。
「本来ならお前はそんなことしなくていいのだが……。すまないな。
「あの二人は大丈夫です。それが仕事ですから」
最初のころは、分身は黙って座っておくくらいしかできなかったが、今は集中すれば意識的に行動させることが出来るようになっていた。
逆もまた然りで、
戦闘などの複雑な身体の動きは無理だが、問診や薬の調合、手当などは自分ともう一人の自分を分けて行うことが出来る。
(お腹の調子が悪い兵士が何人かいるけれど、おおむね健康。傷からの感染症もほとんどなく、罹患した人も自分で歩けるまでに回復してる。馬も一日三交代で乗り換えてるから大きな不調はない。うん、大丈夫そうだな)
夕方になると、歩兵の最後列も到着し、全員で夕食をとることが出来た。
明朝未明、まだ陽が昇らない時間に紅劉軍の本陣が到着。
「劉大将軍、久しぶりだな」
「
お互い、包拳礼で挨拶を交わす二人。
眼球の遠近が狂っているのかと思うほど、劉大将軍はとにかく身体が大きい。
甲冑の上からでもわかるほどに盛り上がった筋肉が、余計にその身体を大きく見せているのかもしれない。
ただ、可愛らしい、少し童顔な顔が人当たりの良さをうかがわせる。
「そうか。劉大将軍が全力を出してしまったら、私の出番がなくなりそうだ」
「ご謙遜を。……そちらの方が
「ああ、そうだ。ほら、
「はい叔父上。お初にお目にかかります。わたしは
劉大将軍は、その姿にある人物を重ねた。
「おお……。陛下がおっしゃっていた通りですな。
「……
「ええ、そうです。わたしも陛下がまだ皇太子だった頃、陛下の軍で将として仕えておりました。そのときに、何度も
「そうなんですね……」
(みんな、わたしのことを美化していないだろうか。わたしはあまりに心が弱く、統治者としてふがいなかったのに……)
心の中で
――
言っていることはわかるし、事実なのだと思う。
それでも、一歩踏み出す勇気がないのは、やはり弱い。
(ありがとう
お礼を言ったつもりだったのだが、
「さぁ、揃ったことだし、さっそく作戦でも話し合うか」
「そうですね。私は元気なのですが……。わが軍の兵たちは少し休ませます。私の我儘で夜道を走らせてしまったので、ヘトヘトでしょうから」
「あ、では、わたしの師匠と兄弟子が問診しましょうか?」
「いいのですか?」
「もちろんです」
「
「おまかせください。では、伝えてきますね」
「師匠、お元気ですか?」
天幕に入り開口一番、まだうとうととしている
「……その訊ね方はあれだな。『これからちょっと大変な仕事を任せたいので、一応体調を気にしておきますね。元気ですか?』ってことだろ」
「さすがは師匠。よくわかっていらっしゃる」
「くっ……。まずは朝の挨拶を要求する。というか、まだ正式には朝ですらない」
「そうですね。おはようございます、師匠。さぁ、身支度を整えたら紅劉軍のみなさんの問診をお願いします」
「なっ! ぜ、全員か?」
「自己申告で体調のすぐれない方々だけで大丈夫ですよ。ただ、夜中駆けてきた方々なので……」
「……わかった、わかったよ。足元が悪い中走って来たということは、何を踏んでいるかわからない。それによって怪我の具合が違う。しっかり問診してこよう。
「わかりました。よいしょっと」
動きを確認し、視界を同期させる。
「うん、大丈夫みたいです」
「君はこれから作戦会議か? 寝ていないだろうに」
「少し寝ましたよ。それに、行動は早い方が良いですから。すでに大規模な行軍で
「それもそうか」
「今回の目的は魔薬酒の廃棄と、その製造所の破壊。製法を知っている者の……、殺害です」
「仕方ないな。そこは割り切っていけ」
水をぱっと霧散させると、柔らかな布で顔を拭きながら「まぁ、割り切るのも簡単じゃないけどな」と、とても小さな声でつぶやいた。
「もちろんです」
「製造所はいくつかあるのか?」
「いえ。まだ
まるで布が踊っているようだ。
「ほう。そこまでよく調べたなぁ」
「
「なにはともあれ、今回は劉大将軍もいるし、香王殿下もいるし、君もいる。私は高みの見物でもさせてもらうとするかな」
最後に顔にかかる部分の髪を後頭部できゅっと結い、さらりと肩にかけた。
「いやいや、いざとなったら参戦してくださいよ」
「えええ、鉄の剣怖いんだもん」
「え、今更かわい子ぶっても無駄ですよ? わたしには十年以上師匠の側にいたことによる知識がありますからね」
「……わかったよ。はいはい。製造所を潰すときに一緒に行ってほしいんだろ?」
「その通りです」
「はあ……。弟子がどんどん可愛くなくなっていく……」
☆
まだ太陽の恩恵がなく、季節外れの冷たい風が吹いている
「め、メルガル卿! これはいったいどういうことなのですか!」
叫び声にも似た悲痛な訴えの先にいるのは、
「どうって言われましても……、瓏国と燕国が仲良く手を繋いで攻めてきたのでは?」
「なぜ! なぜ我ら葵国の研究成果が露見したのです!」
「ううん、中原の国々はお互いにスパイ……、おっと、間者を送り込んでいるのでは?」
アンリの言葉が耳に痛かったのか、剛城城主は苦虫をかみつぶしたような顔で視線を逸らした。
「そ、それはそうですが……。この魔薬酒の完成は極秘だったのですよ⁉」
先ほどまで青かった顔が、見る見るうちに怒りで赤く染まっていく。
「残念でしたねぇ」
「くっ……。いったい、どうすれば……」
「倒してしまえばいいではありませんか。地の利は十分あるでしょう」
「そんな簡単に言わないでください! 燕国最強の紅劉軍と、不遇な扱いを受けながらも武功は瓏国でも一二を争う雅黄軍が相手なのですよ⁉ それこそ、我が城のみならず、国全体にも大きな被害が……」
大袈裟に腕を大きく振りながら話す城主を見ながらこっそり溜息をつくと、アンリはさも何も問題などないような口ぶりで言った。
「十分な量の魔薬酒があるでしょう」
「それでも! 勝ったとしても被害の大きさは計り知れません! 今まで何度燕国と瓏国から国土を削られてきたか……。ここ、剛城を奪われたら、事実上、首都まで二軍を大きく遮る戦力は望めません……」
「いいではないですか、勝てるのなら心配ないでしょう。ここであの二つの軍を潰せれば、この先中原で大きな顔をできますよ?」
「ぐっ……」
簡単に言ってのけるアンリに苛々としながらも、言っていることは間違っていないため、城主は言葉に詰まってしまった。
「あ、そうそう。瓏国の恵王殿下は絶対に殺さないでくださいね? 私のクライアント……、えっと、依頼人の大事な宝物なので」
突然瓏国の皇子の話を出され、城主は困惑した。
「は、はあ? そんなの、戦場でどうしろと……」
アンリは急に黙り、貼り付けたような満面の笑みを作ると、にじりよった。
「恵王殿下を殺したら、私が葵国を滅ぼして差し上げます。何年かかろうとも、そして、どんな手を使っても、ね」
アンリの瞳が紫や黄色に光った。
魔法使いであるということは知っているが、こんなにも禍々しい表情をしているのを初めて見た城主は、その恐ろしさに後ずさった。
「……ぜ、善処」
アンリは城主の唇に人差し指を優しく押し当て、言葉を遮った。
「いえ、絶対に殺さないでください。傷つけるのもダメです。五体満足健康な状態で差し出してください。他の者たちはどんな
周囲に武器など一つもないのに、城主は首に刃物を複数押し付けられているような、そんな命の危機を感じ、ゆっくり頷いた。
「……わ、わかりました、メルガル卿」
「よろしい! では、頑張ってくださいね。私はお
そう言うと、アンリは黒い煙となって消えていってしまった。
城主は緊張感から解放され、床にぺたりと座り込んだ。
「くそ……。間違いだったのか? 私はもしや、
人間の魂魄を狙う
その存在は穢れており、やることなすこと醜悪で凶悪。
中でも知性が高いものは、人をだまし、操ることもあるという。
「だが、この乱世を生き抜くには必要悪……。ここで燕と瓏、両国の大きな柱をへし折ってくれるわ!」
剛城城主は床を殴り、立ち上がった。
「籠城戦は止めだ。こちらから蹂躙してやる!」
城主は部屋から出ると、外に立っていた衛兵に「将軍たちを全員呼べ!」と命令した。
☆
「作戦は以上だ。
「
劉大将軍は頷きながら感嘆している。
腰かけている椅子が異様に小さく見えた。
「あ、兄弟子は江湖で過酷な訓練を受けながら育ったので……」
劉大将軍になんと説明すればいいか考えておらず、
「注意をひくのはまかせろ。
「はい。わかっています」
「紅劉軍と我ら雅黄軍は化物どもの相手をする。そのためにこの有名な二軍で来たのだ」
「突破力の高い我ら相手に籠城は得策とは言えませんからね。それに、ここで紅劉と雅黄という強大な軍を
「
「入れ違いに開発者たちを逃がさないよう、開けるのは東の門だけ、ですよね」
「ああ、そうだ。
「伝えておきます」
「城内にいる非武装の民たちは、他の城へ安全に逃げられるように配慮しましょう」
「可能なら、城を落とした後に一度保護して、食料を分けてから見送りたいですね」
「そうだな。今回の目的は侵略ではないからな。一般市民を巻き込まないように気を配るとしよう。ただ、城は燃やす」
「それは仕方がないですね……」
「可能な限り、再起不能にしていきましょう」
三人は頷き合うと、作戦会議を一度お開きとし、それぞれ自軍の兵たちと朝食をとることにした。
すでに太陽は昇り、鳥たちのさえずりが空に響いている。
天気も良く、今夜は満月。
攻めも守りも、し易く、し難い。
時折吹く風が運んでくる花の香りを忘れないよう、
これから嗅ぐのは、血と炎のにおいになるだろうから。
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