第十集:哀詩
濁流に破壊された家屋。
その柱にひっかかったまま動かない膨れた遺体。
原形をとどめないほど傷ついたかつての生命が、無残にも流されていく。
豪雨の中、溢れていく悲しみを止める方法もなく、
「
未明に着いた
だからこそ、身体を動かすしかなかった。
無力を嘆く時間などないのだから。
「……叔父上を信じます」
「い、一体何のことだ……、な!」
黒檀のような青光りする美しい髪が、燃え上がるような赤に変化していく。
肌は不安になるほど白く、爪はさらに黒く。
目は氷のように色をなくし、薄灰色で世界を見つめている。
「お、お前……、その、その姿……」
動揺しつつも、不思議な覚悟が心に生まれていく
そして、
「
「ああ……、わかった」
「……皆の者、続け!」
「本当に、何があったんだ、
その声は雨音に消え、言い表せない悲しみが漂った。
「
「救いを求める声に耳を澄ませ。目に映るものだけに心を傷つけられるな」
「……すみません。ありがとうございます」
ごうごうと激しい音を立てて流れる土砂と激流。
その中で、か細く弱弱しいけれど、でも、生きたいと願う声が聞こえた。
「あきらめるな!」
気付くと、叫んでいた。
急いで向かい、両腕を大きく広げ、二人の子供を救い上げた。
すぐに岸に連れて行き、兵士に引き渡す。
その後は、集中力を取り戻し、次々と引き上げていった。
すでに
救い上げても、怪我の程度や体温の低下が酷ければ助からない。
時間との戦いだった。
兵士たちは土塁を積み上げ、少しでも陸地が浸食されないよう努めている。
泳げる者は軽装になり、腰に縄を巻きながら川の中に入り、可能な限り救助活動を続けている。
全員が真剣だった。
涙を流している暇などないほどに。
救出作業は朝陽が昇り、傾き始め、松明が必要になるほど暗くなるまで続いた。
「
休むこともなく、何も口にせず、ただひたすら濁流に向かい続けた。
「先生、あのままでは
「
「もう、もう二度と人間には戻れないのですね」
「そうです。殿下は、覚悟のうえで
「……私がもっと黎安に戻っていれば、もっと気にかけていれば、もっと、もっとはやくに
「
「わかっています。先生、
「ええ。そう信じております」
雨が弱まってきたが、依然として川の流れは勢いを増したまま。
微かな命の灯火を。
空に赤みが差し始めた。
黎明を越え、朝焼けが周囲を包む。
幸いにも、雨は止み、雲間から太陽がその顔をのぞかせている。
「ゆ……、
誰一人、眠ることなく続けた救助活動。
数えきれないほどの軍幕が大地を覆っている。
「……声が、聞こえなくなりました」
少しふらつきながら川岸に降り立った
濡れていない所がないほど、
吐く息は冬の風のように冷たい。
「そうか……。もし数字がお前の慰めになるのなら、伝えよう。一万人だ。お前が救い上げたのは」
「……みんな生きているのですか」
布で水分を拭いながら、
「
「よかった……。本当に、よかった……」
それでも、瓏国内では六十万人以上の命が失われた大災害。
手放しで喜べるような状況ではなかった。
「お前は寝ると良い」
「いえ。師匠を手伝います。叔父上こそ眠ってください。あなたが倒れては、この先の災害支援に支障が出ます。それは体力的にだけではなく、精神的にもです」
「……わかった。昼前まで寝させてもらおう。
「はい。そうします。叔父上には温かい薬湯を用意しますね。身体を拭い、清潔にしてから寝てください。風邪や感染症だけは避けなくてはなりません」
「全面的に、お前に従う。兵士たちにも徹底させる」
「感謝します」
兵士の中には、濁流の中で作業をしていた者たちも多い。
流れてきた瓦礫で傷を負い、傷口から細菌が入れば、嘔吐や下痢の原因となり、その汚物がちゃんと処理されなければ、そこからまた病は広がり、二次災害となってしまう。
限られた物資と空間のなかで、いかに清潔な状態を保つかも、災害支援では重要となる。
「恵王殿下! 恵王殿下はいらっしゃいませんか!」
「と、桃晶隊のみなさん!」
「賢妃様のご命令により、我らも馳せ参じました。五百人のうち、医女も百名おります。お役に立てるかと」
「さすが母上……。感謝いたします。みなさんには主に女性や子供の治療や看護をお願いいたします。簡単ではありますが、緊急度合いによって生還者の皆さんには色のついた布が巻かれています。まずは赤、次に黄色、そして緑の順です」
「では、医女の部隊を赤へ。そのほかは黄色へ向かいます」
「助かります」
「それと、
「お任せします」
「かしこまりました。では皆の者! 配置に着け!」
湿った空気を吹き飛ばす雅楽の鈴の音のような「はっ!」という咆哮が響き渡った。
「おお……。賢妃様の部隊か」
甲冑を脱ぎ、着替えを済ませた
昔から、何故か女性にめっぽう弱い
漂ってくる薬草の香りから判断するに、ちゃんと身体を清拭したようだ。
「叔父上、まだ寝ていなかったのですか」
「これから寝るとも。兵たちにも順番に休むように命令を出していたのだ」
「そうでしたか」
「それにしても……。ううん、勇ましい。無駄な動きがなく武人の風格を漂わせながらも、柔らかな物腰と笑顔で接する精神的な強さ……。桃晶隊を育て上げた賢妃様はいったい何者なのだ」
「あまり詳しく話してくれたことはありませんが、どうやらかなり強いらしいですよ。若い頃は江湖の
「私ですら載るのに十五年以上かかったというのに……。考えていると頭が痛くなりそうだ。寝てくる」
「はい。おやすみなさい、叔父上」
(あとで薬酒でも差し入れするか……。
「け……、ああ、
「さすがに
「それもそうだ。あ、そうそう。素晴らしいことが十件あったぞ。こんな恐ろしい災害の中でも、新しい命は産まれるものだ。母親とは本当に強いな」
「赤子ですか!」
「全員無事だ。母親は衰弱がひどいからしばらくの間隔離して療養させるが、子供は元気いっぱいだ」
「よかった……」
身体から少し力が抜け、手足に温かさが戻ってくる。
「遺体の引き上げには
「え、お知り合いがいるんですか?」
「まあな。おっと、そうだ。君にこれを渡しておこうと思って」
そう言って
「これは?」
「液化薬だ」
「液化……?」
「
「へぇ……。便利ですね。でも、その言い方だと、副作用があるんですね」
「その通り。液化、というくらいだから、流れ出した血液には凝固作用がない。つまり、どちらにせよ、仙術で止血しない限り、どんなに小さな傷口からでも血は流れ続けてしまう。上手いこと誤魔化さなければ、出血多量で……。まぁ、それでも君は
「気を付けて服用します」
「そうしろ。くれぐれも、多用はするな」
「肝に銘じます」
「中に入っている小さな丸薬を一粒飲めば、効き目が出るまでに一時間はかかるが、その後六時間は血が液化される。時間の計算も忘れるなよ」
「はい、師匠」
この先、人間であることを証明しなければならない状況が起こると、
(それはきっと、血のつながった家族の前だ)
それよりも、解決すべきは
きっと人間のころの
ほとんど音もなく、無臭。
ただ、漏れ出しているなんらかの力の痕跡が目の端にチラチラとよく映っていた。
「恵王殿下、
二人は雅黄軍兵士に案内されるままついていくと、そこには檻があり、中には兵士が三人入っていた。
「以前から香王殿下の指示で泳がせていた、皇帝陛下の密偵です。その、今回ばかりはこのまま皇宮へ帰すわけにはいかないと、殿下がおっしゃり、捕えてあります」
「あ……、そういうことですか」
「香王殿下は恵王殿下の意見も聞きたいとおっしゃっておりまして。今ちょうどお休み中なので、その間にご一考いただけますと幸いです」
「わかりました。ありがとうございます」
「あの!」
兵士は突然跪き、包拳礼をした。
「殿下に何があったのかはわかりません。あの姿に驚かなかったと言えば嘘になります。ですが……、どうか、私の感謝をお受け取りください。この先に、私が生まれ育った村があり……。殿下が真っ先に支援に向かうべきだと陛下に上奏してくださったと知りました。本当に、本当に……」
兵士は肩を揺らし、地面に雫を落としながら深く頭を下げた。
「本当ならば、これが当然でなければならないのです。それなのに、わたしの力では陛下の心を動かすことが出来ませんでした。お願いします。これからも、力を貸してください」
「な、なんと! もったいなきお言葉です。全力を尽くし、香王殿下と共に、
「感謝します。適度に休憩を取って、そのたびに清潔な衣服に着替えてください。みなさんが体調を維持することも大事な災害支援の一環ですから」
「はっ!」
兵士は再び包拳礼をすると、足取り軽く持ち場へと戻っていった。
「……で、どうする?」
しかし、心の中の
「……殺しましょう」
「社会的に、死んでもらいましょう」
「……罪人の遺体を使うのだな」
「ええ、そうです。彼らは救出活動中の事故で死んだことに」
話を聞いていたのか、男たちの中の一人が顔を上げて
「あなたは……、殿下は何者なのです?」
「教えられませんが、少なくとも、あなたたちの命を奪う男ではありません」
「……解放された後、陛下に報告しに行くかもしれませんよ」
「無理でしょう。あなたがたがこれから送られるのは江湖です。それも、梅盟主が治める領域です」
「け、賢妃様の……」
「わたしに不利なことをすれば、その場で殺されます」
「……生かす意味は? あなたが罪悪感に
「いえ。幸せになってほしいからです」
三人全員が顔を上げ、いぶかしげに
「……は?」
「皇宮やそういった争いから無縁の場所で、ただ幸せに暮らしてください。何もかも忘れることは出来ないでしょうが、それでも、生きる意味はこれからでも探せます。どうか、余生を全うしてください」
男たちは顔を見合わせると、一斉に
「温情に感謝いたします。恐れながら、一つだけ……」
「あなた方の家族には手厚い保証をしましょう。陛下にも手は出させません。遠い地へ逃がします」
男たちは
間者や密偵が失敗した場合、その後に待っているのはただ種類が違うだけの『死』だ。
それも、家族もろとも殺される。
心の中の
真昼の月が空で白く輝き始めた頃、
しっかりと甲冑を身に着けている。
「
「それはよかったです叔父上。あなたは頑固で、なかなかちゃんと寝てくれないと兵士たちがこぼしておりましたので」
「む! 謀ったな」
「ええ。多数決ってやつです」
「ぐぬぅ」
「身体はどうですか? 寒気はしませんか?」
「それが、ここ最近で一番体調が良いと言っても過言ではないくらいに元気だ」
「それはよかった。あ、あの、檻に入っている人たちについて提案が……」
「
「ありがとうございます。あと、師匠が紹介したい人たちがいると待っていますよ」
「先生が? 行ってみよう」
「お供します」
そうして二人で向かったのは、まだ流れの速い濁った川の岸辺。
「……な、なんと」
「ご紹介します、香王殿下。彼らは水棲獣化種族の中でも、もっとも知性が高く、人語を理解し、慈悲深い。
薄水色や濃い藍色などの寒色の滑らかな肌に、大きな瞳が特徴の灰色の目。
唇は白く、歯はギザギザとしている。
耳は穴になっており、耳たぶなどはない。
髪は夜空に流れる天の川のような銀色をしており、とても神秘的だ。
「
不思議な話し方だが、その声には独特の音階があり、耳に心地よく響いた。
「遺体を可能な限り引き上げてほしいのです。今世の苦労をねぎらい、そして来世の幸せを願い、埋葬できるように」
「我々は皇子の願いに呼応し、それを叶えましょう。
「感謝いたします」
「貴方は……。その聖なる
「では、私はここに兵を配置し、彼らから遺体を引き取る準備を進めるとします」
「私たちは治療に戻ります」
「
「彼らには特殊な音波があって、それを発することで魂が視えるのだ。
「わたしという存在にある付加価値の一つ、親王の肩書が人々の救いになるのなら、暗い顔などしていられませんよね」
「ああ、そうだ。君が一度微笑むたびに、百人が安心すると思え」
「わかりました。役目を果たします」
歩いて行く
(いつか
昨日までの豪雨が嘘だったかのように晴れ渡る空に、
まるで、歌うように。
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