第10話 ないものねだり
6限が終わったと同時に、僕の席の周りには人だかりができました。そのときは山ちゃんを筆頭とするその集団を孝さんが掃除の時間だからと引き剥がしてくれました。ですが今、黒板掃除をしながらも掃除が終わったら話を聞こうと考えているであろう人たちの視線を背中に痛いほど感じています。
武蔵くんが迎えに来てくれるから教室にいた方が良いですが、ここにいたら捕まってしまいます。武蔵くんが下りてくる可能性が高い階段の方に逃げましょうか。
端から端まで拭き終わったころには後ろではガタガタと机を運び終わりかけていました。今日は早々に教室を出たかったのですが、まだ粉が溜まっているトレーも掃き終わっていませんしチョークの補充もまだです。なるべく早く終わらせなければ、誰にも捕まらなかったとしても聖夜くんのところに行くのが遅くなります。
急いで、かつ丁寧に。焦っているからこそいつもよりそれを意識していました。そのおかげか、普段はみんながちらほら帰るころになってようやく終わるのですが、今日は机の上に上げられていた椅子の最後の1つが下ろされる前に拭き掃除が終わりました。チョークの補充もみんなの手が空いたころにはなんとか終わりました。
教室前の廊下にある流しで素早く手を洗って粉を洗い流してからまた教室に戻りました。いつもならしませんが、リュックを背負いきる前に教室を出ようとしました。しかしブレザーのジャケットの裾がクイッと引っ張られてふらつきました。
「ちょっと待ちな」
山ちゃんの声がして嫌な予感を感じながら振り返ると、また山ちゃんの後ろにはクラスメイトたちがいました。そして更に人数が増えて、他のクラスの生徒や先輩と後輩も何人か混じった集団がいました。中には前に告白をしてくれた子もいましたから、噂を聞きつけてきたのでしょう。皆さん耳が早すぎます。
「山ちゃん、ごめん。今日は急いでいるから明日でも良い?」
「そう言って話してくれない気でしょ。みんなも生徒会長の色恋沙汰なんて学校中が気になるような話、放っておけないんだって」
目をランランと輝かせる山ちゃんの後ろからも圧をかけられてジリジリとドアの前に追いやられていきます。何とか早くここを切り抜けないとって焦る気持ちが膨らみますが、頼みの綱の孝さんは掃除場所が違うから今はいません。背中が触れている壁に手で触れてみると壁の凸凹した感触ではない木の感触がして、そこがちょうどドアだということは確信できました。
でも僕が今ここから逃げて保健室なり武蔵くんのところなりに行けば、それこそ彼らに迷惑を掛けることになりかねません。それが今だけでなくて長期的な迷惑になりそうな予感がありますから、下手なことはできません。
手詰まりのまま黙秘を貫いていると背後からも足音が聞こえました。挟み撃ちにされました。
緊張が走ったと同時に、背中に当たっていたドアが開かれて後ろによろめきました。思っていたよりも早く開いたせいで後ろに倒れかけた僕の背中に触れた大きくて温かい手。
「大丈夫っすか?」
上から降ってきた声にホッとして顔を上げると、武蔵くんがクールな表情のまま僕の顔を覗き込んでいました。
「武蔵くん! 助かったよ。ありがとう」
「いえ、あの、急ぎの話っすか?」
少し圧を掛ける言い方をしているのは僕が知っている中では珍しくて、武蔵くんも分かりやすく顔には出さないだけで焦っているのが伝わってきます。みんなが自然と後ろに下がっていくのを見た武蔵くんは僕の手を引っ張りました。
「行きますよ」
多少強引な引っ張り方は力強くて頼りがいを感じます。悔しいですけど、かっこいいです。
武蔵くんに手を引かれながら走って保健室に向かいました。途中でチラリと後ろを確認しましたが、誰かが追いかけてくる様子はありません。武蔵くんの暴力的な噂が学校中どころか町中にも広まっているのは知っていましたが、ここまで怖がられているとは思いませんでした。
「ちょ、きつ……」
「あ、すみません」
保健室の前で足を止めた武蔵くんの後ろで膝に手をつきました。中学まではバスケやサッカーをやっていましたし体力が落ちないように気を付けてはいますが、武蔵くんの足が速すぎて、100メートル走を全力で走ったような息の切れ方をしています。武蔵くんは息を整える僕の背中をゆっくり擦ってくれました。
やっぱり、優しい人です。僕とは違う、ハリボテなんかではない本物の優しい人。
何度か深呼吸を繰り返して背筋を伸ばしました。武蔵くんの方が聖夜くんに相応しいことは痛いほど分かりました。けれど今は、まだ、諦めたくありません。
「もう大丈夫、行こう」
うまく笑えているかは分かりませんけど、武蔵くんに笑いかけてから保健室のドアを控えめに3回ノックしてからドアを押し開けました。
「失礼します」
「……します」
後ろで小さく挨拶した武蔵くんが通り抜けるまでドアを押さえてから奥に入ると、養護教諭の丸山先生が足を組んで座っていました。
「来たわね。2時間授業を受けて、掃除までちゃんとやってきたのね。偉いわよぉ」
「当然っす」
「ふふ、かっこいいわね。ご褒美にチュウしてあ、げ、るっ」
妖艶に足を組み直す丸山先生に対して明らかに嫌悪を感じている顔を隠すことなく向けている武蔵くんに、丸山先生は楽し気に投げキッスをしました。
「武蔵くんって、丸山先生と仲良いの?」
「まあ、よく怪我するんで」
丸山先生の投げキッスを躱した武蔵くんが顔を顰めながら言うと、丸山先生はいたずらに口角を上げました。
「恥ずかしがっちゃって。まぁ、2人のひ、み、つ。ね?」
「ふざけんな。実はこれ、従兄弟なんすよ」
嫌そうな顔で目線を逸らした武蔵くんは、その視線をドアの向こう、さらにカーテンで仕切られた奥のベットに向けると、途端に不安そうな表情を見せました。これって何よぉ、と不満そうな丸山先生の声は聞こえていないのか無視しているのか。気が抜ける相手がいることは素直に羨ましいです。
「それで聖夜は?」
「ふぅん? やっぱり本気の顔ね。妬けちゃうわ。吉良くんならまだ目を覚まさないわよ。そばにいてあげたい?」
「お願いします」
僕も1歩前に出ると、丸山先生は眉をピクリと動かしてニヤリと笑いました。
「あら、北條くんも? へぇ、まあ吉良くんは可愛いものね、あたしのタイプじゃないけど。あたしが目をつけるような良いオトコを落とすなんて、彼もやるわねぇ」
「うるせぇぞ、和男」
「あ? おい武蔵、なんつったてめぇ」
もちろん小声ではあるけど、急にドスの利いた声を出した丸山先生は立ち上がって武蔵くんの首根っこを掴みました。武蔵くんはなんとか逃れようとしているみたいですけど、丸山先生はビクともしません。
武蔵くんでも歯が立たない人がいるとは思いませんでしたが、タイトスカートから伸びた足には不調和な筋肉質なふくらはぎに納得がいきした。
「あの、聖夜くんに会っても?」
取り込み中に申し訳ないですが、そろそろ聖夜くんの顔が見たいです。
「しょうがないわね。落ち着いて寝ていられるうちは寝かせてあげたいから、静かにね」
丸山先生はフッと笑いながら僕と武蔵くんの背中を押してドアを開けました。そのままカーテンの中に入らせた丸山先生は、ちらっとドアの方を見ると自分の唇に人差し指を当てて1つウインクをしました。
「お客さんの相手をしてくるから、傍にいてあげなさいね」
カーテンを閉めた丸山先生に頭を下げてから聖夜くんに目を向けると、真っ白な布団を掛けられた胸が穏やかに上下していました。ホッと息を吐くとカラカラと金属が床に引き摺られる音がしました。音がした方を向くと、武蔵くんが僕に丸椅子を差し出していました。
「ありがとう」
「いえ」
自分は座らずベットを挟んだ向かいの壁に寄りかかって聖夜くんを見る武蔵くん。その表情は心配そうではありながらも愛おしいものを見つめる穏やかさを含んでいて、ただ美しいと思いました。
「武蔵くんは凄いな」
「え?」
「強くて優しくて、温かい。羨ましいよ」
僕の言葉に首を傾げた武蔵くんは、壁に寄りかかっていた身体を起こしてベットの脇にしゃがみ込みました。そしてサラリと聖夜くんの頭を撫でて口角をあげます。
「俺は会長が羨ましいっす。かっこよくて信頼されてて。噂に聞くような完璧な人とは思えないっすけど、足りない部分を補ってくれる人が周りにいるじゃないっすか。俺には、それがないっすから」
寂し気に視線を落とした武蔵くんになんて声を掛ければいいのか迷っていると、ガチャリとドアが開く音がしました。その直後にカーテンが開いて丸山先生と2人の生徒が顔を覗かせました。1人に凄く厳しい目を向けられているのは気のせいではないと思います。
「こんにちは」
僕から声を掛けると、ツインテールの生徒はぺこりと礼をしてくれました。
「セイの友達の周星です。こっちは柊月です。セイの様子を見に来たんですけど、まだ、目を覚ましませんか?」
校則ギリギリのスカート丈からは想像していなかった丁寧な物言いに面喰いながらも頷くと、周さんは肩を落としました。ずっと僕を睨んでいた柊さんは聖夜くんに視線を移すとその頬に触れました。
もしかしてこの2人も、と考えていることは顔に出さずに丸椅子から立ち上がった瞬間、聖夜くんが苦しそうな呻き声を上げました。
「セイ!」
すぐに声を掛けた周さんと柊さん。僕は心臓が嫌な音を立てたきり、喉が閉まって声が出ません。ギュッと目を閉じて荒い呼吸を繰り返す聖夜くんの右手を自分の片手で握りしめて、肩をゆっくり擦ることしかできません。
「聖夜!」
反対側で同じように手を握りながら肩を擦る武蔵くんが力強く名前を呼んだ瞬間、聖夜くんの瞼がピクリと動きました。いつの間にか僕の肩に置かれていた細い指がふっと離れたのを微かに感じました。そしてパシッと力強く背中を叩かれました。
「聖夜くん!」
その勢いで発せられた声の余韻が部屋から消えるころ、聖夜くんの目が薄く開かれました。
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