第2話


 私──椎名しいな結衣ゆいはたまに昔の出来事を夢に見る。一度経験していることだからかは知らないけれど、そういう時は決まって、これは夢なんだなって分かった状態で第三者の幽霊みたく自分を俯瞰して見ることになる。


「っぐ……うぅ、お父さん、お母さん……助けてよぉ」


 公園の木の上で顔を腫らして泣いている少女がいた。

 歳にしてまだ六歳。小学校に入学する少し前。一度も登ったことがないくせに木の上にいた子猫を助けようとした結果、自分が木から降りられなくなっていた。おまけに木の登り方を知らなかったせいで手足には擦り傷だらけ。本当に痛くて怖くて心細くて、涙が止まらなかったのを覚えている。


 というか、隼人くんとお喋りできた日の夜は大体この夢だなぁ私。

 初めて彼と会って、大好きになった日の夢。


「大丈夫?」


「っ!」


 心から不安そうな顔で私を見上げる少年が、ボールを片手にやってきた。大好きな人の顔。改めて見るとまだ幼いこの頃から彼の顔立ちはとってもかっこいい。今の隼人くんも世界で一番かっこいいけどね。

 今日本屋で会ったとき洋服を可愛いと褒めてくれた彼の言葉に我慢できず、少しだけ顔を覗いちゃったけど本当に本当にかっこよかった。ああ、思い出すだけで下腹部の辺りが熱を持つのだから、私の身体がどれだけ彼を求めているかがよく分かる。夢で興奮しているなんて、ちょっと気持ち悪いかな私。もしかしたら少し重い女なのかもしれない。

 でも、彼と会えるって思うとダメなのだ。それこそ今日だって、制服が汚れてしまうくらい自分を慰めてからでないと、彼と会ったときに冷静さを保てないのだ。限界が近いなって自分でも思う。


「助けてっ、降りられないの! 助けようとした子猫は逃げちゃって、私だけ、ここに……っ」


「わかった! すぐ行くからちょっと待ってて。絶対に助けるから!」


 そう言って彼は私を助けるために木を登ってくれた。私なんかよりも何倍も器用で早く登ってきてくれて、枝の付け根の方で手を伸ばしてくれる。


「こっちまで来れる?」


「……っ、うん」


 隼人くんがすぐそこまで来てくれたのに、勇気を出さずにぐずぐずなんてしていられない。そんなのただの迷惑というものだろう。

 枝にしがみつきながら少しずつ不格好に進んでいく幼い私。


「──きゃっ!」


「あぶない!」


 ズリィっと手が滑った私はあわや背中から落ちて大惨事。

 しかし、無意識に伸ばした手を彼がしっかり掴んで支えてくれる。


「捕まえた。もう大丈夫。絶対に離したりしないから、落ち着いて」


 隼人くんはまっすぐ私の目を見てぎこちない笑顔を浮かべていた。でもその笑顔が当時の私をどれだけ安心させてくれたことかは言うまでもなく、握った手の力強さは今でもずっと覚えている。


 この頃よりもずっと大きくなった今の彼の手は、どんな握り心地がするのかな?


 いつか触ってみたい。


 それに、触られたい。

 身体中どこでも、彼の手ならいつでも受け入れる準備万端なのだから。


 隼人くんに手を握ってもらったあと、私は木の上で彼に抱きついた。安心したかった気持ちとか好意とかもすでにあったけど、なによりそうしないと降りられなかったので彼も私を突き放したりはしなかった。

 今思えば、小柄とはいえ同い年の女子を背負って木を降りるなんて相当大変だっただろう。


「ほらっ、もう大丈夫」


 地面についたので隼人くんはしゃがみ、私を下ろそうとする。

 しかし、私は彼の背中から離れられなかった。

 木の上で幼心に死の恐怖すら感じていた私にとって、彼の背中は温かくて大きく、これ以上ないほどの安心感を与えてくれていたのだ。離れたらまた恐怖で泣いてしまいそうだった。地面にいるのだからそんなはずはないのに、我ながら非論理的な子供だと思う。

 そんな私の様子に隼人くんは少し笑ったようだった。


「落ち着くまでこのままでいいよ」


「……うん。ありがとう」


 しばらく隼人くんの背中に体重を預ける。

 さすがに申し訳なさもあって足は地面につけていたけど。


「せっかく知り合えたんだし、名前教えてよ」


 隼人くんからの問い。


「椎名結衣、それが私の名前。あなたは?」


 耳元で囁くと彼は私の方を見るようにして横顔を覗かせた。目の奥に少しだけ驚きの色が見える。


「僕は早川隼人。そっか……君があの」


「私のこと知ってるの?」


「え? あー、いや、ううん。知らない。初めまして椎名さん」


「初めまして」


 今見れば隼人くんが動揺しているのは明らかで、後から知ったことだけどこの時から隼人くんは椎名の娘とは関わらないように両親から言われていたらしい。


 そんなに嫌ならどちらかの家が引っ越せばいいのに、私たちの両親は私と隼人くんにも競争の一端を押し付けたいらしいのだ。だからわざと同じ学校に進学させて、定期テストや体育祭の結果で家の優劣をつけたがる。それはもう隼人くんと関わってることになるんじゃないのかって思うけど、早川家に敵意しか向けない両親の考えなんて私には理解できない。


 しばらくして私は落ち着きを取り戻し、隼人くんの背中から離れた。


「助けてくれてありがとう」


 改めて気持ちを伝えたくて私は言った。


「あんまり何回も言わなくていいよ。お互い怪我しなくてよかっ──」


 そこまで言って隼人くんは私の脚を見た。短いズボンからはみだした膝が擦りむけて赤くなっている。


「ごめん、気づかなかった。痛い?」


「……少しだけ。でも大丈夫。歩けるよ」


 気丈に振る舞ってみせる幼い私だったが、家柄もあって滅多にしない怪我と久しぶりに見た赤い血が私の体力と気力を奪い続けていた。


「来て。家までおんぶしてあげる」


 だから彼が私に背中を向けてしゃがんでくれた時、きっと私の心は八割がた奪われたのだ。


「……大丈夫だよ」


「ダメだよ。怪我がひどくなったらどうするの?」


 出会ったばかりの人間にここまで優しくしてくれる人が他にどれだけいるだろう。しかも相手は、両親が関わるなと言った家の娘だというのに。


「ありがとう早川くん」


「いいよこのくらい。でも代わりにそこのボール持っててくれる?」


「わかった」


 彼が元々遊ぶために持ってきたボールを拾って、私は再び隼人くんに背負われた。ゆっくりと彼が歩き出す。


「そういえば、木の上にいたっていう猫は助けられたの?」


「たぶん。私が登ったら、怖くかったみたいで飛び降りて行っちゃった」


「そうなんだ。怪我してないといいね」


「うん」


 思えばこのとき気づくべきだった。


 案内もしていないのに、隼人くんが迷わず私の家に向かっていたことに。


 あるいは彼の善意を押し除けてでも一人で家に帰るべきだった。

 そうすればもしかしたら、現状だって少しはマシだったかも。


「結衣!? あなた今までどこに行っていたの!」


 お喋りに集中していたらいつの間にか家の前までやってきていて、エントランスの前で右往左往していたお母さんが私たちを見つけて駆け寄ってきた。

 私は隼人くんにだけ聞こえる声で「ありがとう」と囁いて彼の背中から降りた。


「ごめんなさいお母さん。ずっと勉強ばっかりで疲れていたの。だから公園でちょっとだけ遊んでた」


「公園で? あなたにそんな余裕……。ねえ、なんで早川家の長男が一緒にいるわけ? それに結衣、あなたその怪我ッ! その子にやられたの!?」


 心配から怒りへ、お母さんの感情は一瞬で切り替わった。


「違うよお母さん、これは私が木に登ったせいで──」


「木に登った? そんな危ないこと私が一度でもあなたにやっていいって言ったかしら!? それともその子に無理やり登らされたの?」


 何を言っているんだろうお母さんは。

 私の意見に全く耳を傾けてくれず、幼い私には純粋にお母さんの言葉が理解できなかった。

 対して、幼い隼人くんはすでに十分大人びていて、お母さんの言葉から何か不穏な気配を感じ取ったらしい。


「ごめんなさい。僕が木の上にボールを乗せてしまって、彼女はそれを取ってくれたんです」


「え? ちが、」


「ありがとう、椎名さん」


 彼が私の手からボールを取る。

 私には理解できない世界で会話する二人に、私はただ呆然とするしかなかった。


「そう、そういうこと。結衣、家に入って消毒してなさい。私はこの子と話があるから」


「お母さん? 早川くんは何も」


「早く行きなさい」


「……わかった」


 私は混乱した頭で玄関まで歩いた。ドアを開け、振り返ったタイミングでちょうど目があった隼人くんは私を安心させるように微笑んでくれていた。


 その日の晩、私は隼人くんと二度と関わらないようにとお母さんにキツく言われ、小学校に入ってから再開した彼は、私を避けているようだった。

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