承前・三

 明治二年。

 幕府海軍を中核として、新体制の日本―大日本帝国―の海軍建設は始められた。

 佐幕・倒幕の雄藩を中心に抵抗は根強く、全ての艦艇・要員の統一海軍への編入は成し得なかったものの、雄藩を核として成立した各地の地方政府独自の軍隊に残されたのはただ1隻の汽走砲艦と幾らかの帆走式の小型洋式船に過ぎず、内乱の可能性は無視して良い程度の沿岸警戒・警備戦力にまで削減することが出来た。

 蒸気機関を有する大型汽走軍艦はすべて統一海軍のもとに集約できたのである。

 この時、統一海軍が保有していたのは幕府海軍の「天陽丸」を筆頭に大型の航洋軍艦が八隻、千代田形を中心とした幕府・雄藩の量産した沿岸哨戒用の砲艦が約二〇隻程度だった。

 戊辰戦争(東西戦争)における損害と莫大な戦費の流出によって最盛期の幕府海軍と比べても半減以下の戦力にまで低下しているが、帆走の船艇を全廃したうえで旧式の艦艇を廃止したため、じっさいの戦力としては合理化されてはいる。


 問題となったのは乗員の確保、すなわち海軍軍人の養成と待遇をどうするべきかであった。この部分で幕府海軍と薩長らの朝廷軍海軍の間には大きな差があった。

 長崎伝習所・石川島操練所・横須賀製鉄所などの各種機関で西洋列強の技術・教練をいち早く導入していた幕府は、水兵から将校に至るまで士族から抜擢あるいは徴募したうえで訓練していた。

 これは同時期に幕府陸軍が広く士族も含めた各階層からの下士官兵士の徴募をしていたあおりを受けて、水兵などの要員を士族以外から獲得できなかったがゆえの結果でしかなかった。幕府海軍が軍艦の購入と建造に大きく費用を割いたこともあり、貧乏士族なら受け入れる程度の俸給しか用意できなかったことも、士族以外からの徴募の停滞に拍車をかけていた。


 しかし、この幕府海軍の「上から下まですべて士族で固めている」ということが、朝廷軍海軍との圧倒的な差として現れたのが由利島沖海戦であった。


 朝廷軍海軍は元々、長崎伝習所から派生して各々の雄藩が独自に海軍教練をしたものの集合体であった。幕府海軍のような広範で大規模な士族の動員はなされず、海軍に勤務を志願・抜擢された士族も火夫・水夫といった水兵の任にあたるものはほぼ皆無だった。そこで廻船商人・漁師などから水兵を徴募し、下士官にはそれらの専門業の頭領をもって充て、それを士族からなる将校が指揮するという形を取っていた。

 もともとフネの運用に長けている専門業の人間を雇い入れることで洋式軍艦・蒸気船の操作に習熟する期間を大幅に短縮し、増強著しい幕府海軍に対抗するだけの海軍戦備を短期間で養成するという目的には適っていたのだが、実戦に際してその即成ゆえの脆さが露呈した。


 由利島沖海戦において「ストーンウォール」は長州艦「寂地丸」として、「ユーライアラス」は薩摩艦「開聞」として参戦している。

 この際に二隻はそれぞれ英米軍将校を指導監督官として搭乗させた上で、薩長の海軍将校(士族)が指揮していたのだが、幕府海軍との砲戦で被弾すると、砲が損傷したわけではないにもかかわらずたちまち火力が激減するという事態に見舞われたのである。


 これは主に戦意の問題であった。


 しょせんは雇われに過ぎない水兵たちは被弾と同時に持ち場を離れて弾の当たらない場所へと散ってしまい、反撃の態勢が取れなくなるという事態に襲われた。

 将校がいくら叱責しても水兵たちは動こうとしないし、その頭領である下士官も戦意を喪失して戦闘を拒否する。もともと軍人としての適性から兵をまとめ上げる下士官に任じられていたわけではないから当然の反応ではあった。

 いっぽう、数少ない即席の将校たちもそれぞれの専門稼業を修めるのが精一杯で、火砲の扱いに長けたものは数えるほどしか居なかった。

 その数少ない砲術将校が砲に貼り付き反撃を再開させても、砲術長として損害が出る前に艦橋から統一指揮を執っていたときのような一斉射撃の火力は発揮できない。 

 水兵と将校の結節点である下士官の養成の欠如の不利が一挙に吹き出した格好だった。米英の監督官はその不備を指摘して選抜水兵に下士官教育をするよう促していたものの、それが結実せぬうちに決戦が始まってしまったのが、朝廷軍海軍にとって最大の不幸であった。


 一方の幕府海軍は、水兵・下士官・将校すべてが士族で固められていたのが幸いして戦闘による被弾が重なっても砲撃を継続できた。

 陸戦においては惰弱を露呈したサムライたちも、逃げ場のないフネの上ではまったく違う姿を見せた。陸とちがって逃げ場はないし、なにより上も下も同輩の士族しか居ないこの場所で、敵に背を向けたとあってはイエの末代まで祟る恥辱となる。

 イエに縛られた者どうしの相互監視の効果もあって、幕府海軍の「天陽丸」と「開陽丸」はどれほど被弾しようと砲火力が衰えることはなかった。

 朝廷軍海軍の将校に比べると長期間の養成訓練を受けたことで、自身の専門稼業以外の兵術もひと通り修めた将校が多く居たことも、幕府海軍の強みである。

 砲術将校が斃れてもそれを不完全であれ補うことのできる将校が居たために、砲撃指揮が途切れることはなかった。


 甚だしいのは「開陽丸」で、どれほど被弾しようとも砲撃が衰えないまま、対称的に相次ぐ被弾で砲戦もままならなくなった「寂地丸」の、最後の死力を尽くした衝角攻撃に正面から立ち向かい、腹を食い破られながらも刺し違える形で零距離からの一斉射撃で「寂地丸」の上構を吹き飛ばし、もろともに海底へと引きずり込むという離れ業をやってのけた。

 二隻の衝突で針路を阻まれた後続艦の「開聞」を「天陽丸」が撃沈したのはその直後である。

 

 戦後、「寂地丸」「開聞」の生き残りの英米軍将校と薩長の将校、それに幕府海軍の将校もまじえての戦訓研究において出された結論は、幕府海軍の人材訓練の優越であった。

 英米の将校は、上から下までほぼ同質の集団から競争選抜で将校と下士官兵を分ける幕府のやり方を高く評価した(一方で、「天陽丸」の兵装・性能が西洋列強のそれに匹敵するということは数字の上では認めた上でなお、戦況に影響を与えたものではないと軽く評価した。偏見の表れと思われる)。


 新生海軍は幕府海軍のような要員の育成を目指すべきである。

 由利島沖海戦の結末はそのような戦訓を新海軍にもたらした。

 しかし東西戦争における士族の損耗は著しく、新たな陸海軍、とくに海軍の人材供給源として多くを期待できないのは明らかだった。


 明治二年は、海軍の再編と問題点の洗い出しに費やされた結果、これからの海軍の目指すべき道がしめされた年であった。


 明けて明治三年。

 目指すべき道がしめされたものの、それを実現する方法が見つからずに海軍は立ちすくんでいる。

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