丑三つ刻のラーメン屋台

冲田

第1話

 真夜中の暗い夜道を、妙齢の女性が歩いていた。OLらしいブラウスと膝丈のタイトスカートは朝にはキチッとしていたのだろうが、終電をとっくに逃したこの時間では心なしかだらしなくヨレっとしている。会社に泊まるのも戸惑われて二駅の距離をトボトボと徒歩で帰っているところだった。


 いつもは車窓から見る線路に沿った道に、ぽつんと屋台があった。映画やドラマなどでしかお目にかかれないような、いかにもそれらしい、大きめのリヤカーにあつらえられた移動式のラーメン屋台だった。女性は(本当にこんなものあるのね)と、思わずジロジロと眺めながら屋台の前を通り過ぎようとしたが、美味しそうなスープの匂いに誘われて、ふと興味本位で食べてみようという気になった。夕飯もまともに食べれないまま、こんなに深夜まで仕事をしていたのでお腹も空いていた。


 女性は恐る恐ると屋台の側面に並べられている、足が少し錆びてクッションのくたびれた丸椅子に座った。


「いらっしゃいませ」


 男性の声が言った。周囲の灯りといえば屋台に取り付けられた「ラーメン」と書いてある赤い提灯と、テーブルを照らす卓上ライトくらいだ。そのため店主の顔はちょうど影になっていてよく見えなかったが、なんとなく愛想笑いを浮かべているように思えた。


「あの、メニューは?」


「そんな洒落たものはありませんよ」


「では、ラーメンをひとつ」


 屋台での作法などわからずドキドキとしながら注文する女性を、店主はジッと見つめた。ーーように彼女は思った。


「石井理恵さん。あなた、この店初めてだね?」


「は? え⁉︎ どうして私の名前を?」


 理恵は驚き半分、恐怖半分で丸椅子から飛び上がった。店主は「ははは」と笑ってトントンと自分の胸元を親指で指した。理恵はハッとして自分の胸元を見ると、なんのことはない、社員証を首から掛けっぱなしにしていただけだった。

 理恵は「はぁ」と安堵の息を漏らすと、もう一度パイプ椅子に座る。


「脅かさないでください」


「はは、これは失礼しました。

 ……失礼ついでなんですけど、うちでは初めて来たお客さんにお出し出来るラーメンはないんですよ」


「はぁ?」


(どこかの一見さんお断りな高級料亭じゃあるまいし、ラーメン屋台風情がなにを言っているの)と理恵は思った。しかし、もしかしたら自分が知らないだけで実は知る人ぞ知る有名な幻のラーメン屋台、なんていう可能性もある。そんなことを考えていると、店主がコップに酒を注ぎ始めた。


「そのかわりと言ってはなんですが、一杯奢りますからひとつ愚痴でもこぼしていってくださいよ。で、懲りずにまた来てください。その時は、きちんとラーメンを出しますから」


店主はコップと、小皿にメンマと高菜を乗せた簡単なお通しのようなものを理恵の前に置いた。


「あ、ありがとうございます……」


 理恵は少し戸惑いながらもコップの酒に口をつけた。空きっ腹にはきつく感じたが、疲れは少しほぐれるように思えた。


「こんな時間まで、お仕事だったんですか?」


店主が聞き、理恵は「ええ」と答える。


「上司が最悪なのよ。あの部長! 山と仕事を押し付けて自分は早々に帰るし、セクハラはしてくるし……」


「それは大変だ。無能なのに威張りちらして、肩書きだけで偉いとおもってるオヤジ、いるみたいですねぇ」


「本当よ。あんな奴、便器に頭突っ込んで溺れてしまえばいい! なーんて、同僚とは話しているのよ」


 理恵はアルコールが回ってきたのもあって、上機嫌でころころと笑いながら言い、店主も「ははは」と小気味良い笑い声で返した。


 まるで気の利いたバーのマスターに世間話でもしているかのように、理恵は気持ちよく店主に日頃溜めていた愚痴や鬱憤を吐き出し、気付けば小一時間が経っていた。理恵は腕時計を見て立ち上がった。


「流石にそろそろ帰らないと寝る時間がなくなっちゃうわ。愚痴を聞いてくれてありがとう。ごちそうさまでした」


 理恵は心も足取りも軽くなって、ラーメン屋台を後にし、自宅へと帰った。

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