その涙さえ命の色 ――Navy

 バスを降りると、さっそく魚のにおいが鼻をついた。磯の香りも感じられたが、とにかく魚のにおいが強い。これぞまさしく漁村といった感じである。地名からして「漁村」らしいし。


 バスの中で「漁村行き」という表示を見た時は、それは冗談か通称か何かで、実際には別の地名があるのだろうと思っていたが、降りたバス停の近くにあった、今にも倒れそうな木製の電柱に「漁村1丁目6番地」と書かれたプレートが付いているから、この辺は実際に「漁村」という名前の村なのだろう。

 そのプレートの他には、険しい山と断崖絶壁の海に挟まれた狭い土地に、年期の入った家が建っているのが見える。私が今いる山側というか崖側というかの坂道沿いには数軒がぽつぽつと建っているだけだが、海岸線沿いには詰め込まれるように密集している。


 スマホで確認すると、時刻は16時を過ぎている。そうでなくとも、どんよりとした雲が空を覆って薄暗い。


 私が降りたバスは、停止したところでそのままエンジンを停止し、運転手は降りてどこかへ行ってしまった。今日の仕事はおしまい。動くのはまた明日、ということである。



 バス停には待合の椅子もなにもないが、さきほどの電柱に、バスの時刻表が貼り付けてあった。一応シールみたいな防水加工がしてあるものの、風雨にさらされて色褪せ、ボロボロになっている。

 それでも、ちゃんと必要な情報は読み取れた。大きく「バス時刻表 東尋坊行き 毎日5時発」と書かれている。


 つまり私は半日ほど、ここでなんとか過ごさなければならないわけである。

 そして、確実に5時前にここに来なければならない。5時発のバスを逃す毎に滞在が1日伸びてしまう。そうなるともう、歩いて帰ったほうがいいかもしれない。できればそういう事態は避けたい。



 そもそも私がなんでこんなところにいるかというと、乗るバスを間違えた上に居眠りをしてしまったからだった。


 正月休み中に、バンドのみんなで一泊二日の東尋坊見学旅行に来たのだが、各人いろいろ都合があって、現地集合、現地解散することになった。


 みんなと別れた後、私は三国駅行きのバスに乗った……はずだった。しかし、実際には「漁村行き」という、スマホでバスの時刻表を調べても、どこにも書かれていない謎のバスに乗ってしまったらしいのである。


 スマホの地図アプリで現在地を確認しようとしたが、どうもうまくいかない。そのうち電波の状態も悪くなって、辛うじて圏外ではないものの、通信速度が遅すぎてスマホが使い物にならない状態になってしまった。今や私のスマホは、懐中電灯兼でっかい時計に過ぎない。まあ、デジカメとか音楽プレーヤーとかにも使えるか。こんな地域が未だに日本本土に存在したのかと、私は感心した。


 どう見ても観光地っぽくないので期待はできないものの、宿か何かがあることを期待して、私はベースギターの入ったケースを背負い、昨日着替えた服やらが入っているバッグを肩に引っかけて、海の方へと坂道を下っていった。


 この坂道はバスが通った道なので、一応バスが通れるだけの広さはあった。ところどころ割れたりしているが、一応舗装もされている。ただ、車がすれ違えるほどの広さはなかった。

 つづら折りになっている坂道と坂道の間には、ぽつぽつと家が建っている。その多くは空き家のようだった。

 坂を下っていくと、魚のにおいはますます強くなっていった。


 やがて坂は緩やかになり、家が密集したところへと入り込む。こちらはきちんと繕われた漁網が壁に引っかけてあったり、玄関前に自転車が置かれてあったりと、生活感がある家が多い。ただ、それにしては誰にも出会わなかったし、家の中に人がいそうな気配もない。まだ漁に出ている時間だったりするのだろうか。



 そのまましばらく歩いていくと、道はだんだん広がっていき、二車線の道路になった。山側の道なりには、相変わらず漁師の家らしいものが建っているが、海側には船の家のようなものが整然と並んでいた。浜に一隻ずつ船着き場のようなところがあって、そこにそれぞれ屋根が付いている。その「家」の中には船があったりなかったりした。その多くはちゃんと使えそうだったが、中にはすっかり朽ちて放置されているように見える船もある。


 もともとは漁船として使われていたのだろうが、塗装が剥げ、錆が浮き、船底に穴が空いて、今にも沈みそうになっている船を見つめていると、物の哀れを感じてしまいそうになるが、今のところ私は、船の心配をしている場合ではなかった。

 どうもこの村は、よそ者相手に商売をしている気配が感じられない。コンビニがあることは期待していなかったが、宿とか、食事処とか、お土産屋とか、そういうものも全く見かけない。今夜どう過ごすかを真剣に考えなければならなくなってきた。


 とはいえ、私にできることは道なりに歩くことくらいである。人がいれば、宿があるか尋ねることもできたと思うが、全く見かけないからどうにもならない。


 とにかく、人か、店はないものかと探しつつ、道を歩き続ける。しかし、私の期待に反して、大して歩かないうちに民家も船の家もなくなり、あるのは岩っぽい海辺と崖だけになってきてしまった。


 サバイバル番組やサバイバル漫画で得た知識が頭の中を巡る。人を探すより、乾いた葉っぱを探して集めたほうがいいんじゃないか、などと思えてくる。



 そのとき、崖側の道沿いに「お食事処・ご宿泊」と書かれた看板が立っているのが見えた。

 その「お食事処・ご宿泊」は、だいぶ色褪せて、パネルは一部割れていたし、赤色で大きく書かれていたはずの店名は、すっかり色褪せて判読不能になっていた。

 さらに、中の蛍光灯で看板を光らせることができるタイプの看板だったが、光っていない。


 つまり、すでに閉店して看板があるだけ、という可能性も高かったが、そう考えるより早く、私はいつの間にか小走りでそちらの方に向かっていた。



 近づいてみると、ありがたいことに、その「お食事処・ご宿泊」は、ひとまずは営業しているようだった。店内に明かりが点いていた。

 たたずまいとしては、山の中の道路沿いにある古い休憩所兼お土産屋、といった様子。長方形で二階建ての素っ気ない建物で、一階の道路に面した側はガラス張りで、中は食堂のようだった。


 ガラス戸を開けて中に入ると、食堂のカウンターに男が居た。全体的にぼやけた印象の、どうということのない人、といった感じ。興味なさそうな、眠そうな目でこちらを見たが、それはこれだけ暇そうなのだから、しょうがないだろう。とにかく営業してくれているだけで神である。

 私は声を掛けて、泊まれないか尋ねてみた。その人は、のそっとした口調で事務的に、一泊素泊まりでいくらで、風呂はなく、シャワーは20時まで、チェックアウトは10時まで、といった説明をした。どうも心ここにあらずといった調子の、バッテリーが切れかけたロボットのような接客だったが、私としてはありがたかった。あまり親しげにいろいろ聞かれても困る。


 部屋のキーを受け取ったついでに、私はカウンターの側に置いてあったビスケット2箱と、ペットボトルのお茶を3本買った。この食堂で夕飯にしてもいいのだが、どうも気乗りしない。今日はシャワーもやめて、部屋に立て籠もることにする。



 部屋はビジネスホテルみたいな感じだった。狭い室内に、ベッドひとつ、椅子ひとつ、テーブルひとつ。白い壁紙は若干くすんでたし、未だにブラウン管の有料テレビが置かれているあたりからして年季を感じさせるが、部屋の中は掃除されていて綺麗だったし、覚悟していたよりはずっと良かった。


 残る問題は暖房がどのくらい効くか、である。とりあえずエアコンが有料ではないことを確かめてから電源を入れてみる。

 それから荷物を下ろして、テーブルでビスケット1箱とお茶1本を開けて、簡単な夕食をとった。


 食べ終わる頃には部屋もまあまあ暖まってきて、想像していた以上に快適に一晩過ごせそうなのにほっとする。


 できればお風呂に入って着替えもしたいところだが、さきほどまでサバイバル生活するべきか考えていたことからすれば、それは贅沢というものだろう。

 シャワーはあるらしいが……どうも入る気がしない。馬鹿馬鹿しい話だが、こういうところで一人でシャワー室に入っていると、後ろから刺されるような気がしてならない。ホラー映画の観過ぎか。



 となると、これからどうするか、である。スマホはほぼ圏外で使い物にならないし、有料のテレビを見たいとも思わない。自分の家でなら、普段こういうときはベースの練習でもするのだが……他に宿泊客がいるかはわからないが、まあ、常識的判断としてはやめておいた方がいいだろう。


 代わりに、バッグからノートとシャーペンを取り出してテーブルに広げ、曲でも書いてみようかと意気込んでみたものの、真っ白なページに五線譜を書いたところでペンの動きが止まってしまった。


 時刻を見ると、まだ19時過ぎ。さすがに眠くない。

 ただ、明日は余裕を持って3時45分起きしたいし、寝過ごすのは一番マズい、ということを考えると、もう寝てもいい時間だともいえる。どうするか。



 そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。


 私は無意識に窓の方を見た。もし逃げるとすればあそこから飛び降りるしかない。


 しかし、よく考えると、なぜ逃走経路を確認しなければならないのか、謎ではあった。現実的に考えて、ノックの主が私を殺したり拉致ったりしようとしている可能性はどのくらいあるだろうか。もし相手にそういうことをする気があるなら、ノックよりも先にノブを回そうとしないだろうか。


 そう考えつつも、返事をする気になれず、息を殺してドアを見つめる。



 しばらくの沈黙の後、ドア越しに声がした。


「お休みのところ、申し訳ありません。実はその、お願いがあって参ったのです。そのままで構いませんから、少し、聞いてください」


 その声は、なんとも奇妙な感じを受けた。男性の声のようだったが、風邪でも引いているかのように、隙間風のような高い呼吸音が混ざっていた。あと、声の抑揚の付け方が妙だった。訛っているのとは違う感じ。


 やはりまだ、返事をするのはためらわれたので黙っていると、やがて、声の主は話を続けた。


「実は今夜、私達は海辺から船に乗るのです。その際に、楽器を演奏して見送る方が必要なのですが、演奏者が来られなくなってしまいました。それで、その、あなたにお願いできないかと、思いまして」


「私の楽器はベースなんですけど」


 うっかり声を出してしまって、私は少なからず後悔した。しかし、こうなると後には引けない……か。


「ベース?」


「ええ。あと、アンプを持ってきていないので、演奏しても音が小さいんですけど」


 ベースとかアンプとか、意味分かるのかな、と思いつつも、他に何と言っていいか分からないので、とりあえず言いっぱなしにして待ってみる。


 しばらく、何か話し合うような声が聞こえ、それから返事が返ってきた。


「あの、こちらでアコースティックギターを用意できます。それでよろしければ、お願いできないでしょうか」


 私は一応ギターも演奏できる。ベースの方がカッコイイからベースを担当しているだけである。アコギはあんまり使わないが、超絶技巧な曲を弾けとかいう話ではないだろうから、まあなんとかなるだろう。


「わかりました。いいでしょう」


「ありがとうございます。本当に助かります。あの、では、ご準備ができましたら、お願いできますか」


 準備も何もあったものではないので、私は颯爽と立ち上がり、ドアのノブに手をかけた……ところで、再び不安な気持ちが湧き上がってきた。それで、慎重にロックを外し、ゆっくりとドアを開けることにした。



 うっすらとドアを開けて廊下を覗き込んでも、誰もいなかった。まさか幽霊? もしくは気のせい? と思いつつ、もう少し大きく開いて顔だけ出して見ると、ドアから3メートルほど離れたところに、フードを目深に被った人影が見えた。


 ただ、それが人なのかどうかは何とも言い難かった。フードの隙間からちらちらと覗いていた肌は、鱗のようなものに見えた。部屋からの明かりをときおり反射して、ちらちらと光っている。


 そのフードを被ったのは、制止を促すように、片手の掌を肩の辺りまで上げて見せた。その掌の肌はやはり鱗っぽく、また、指と指の間には水かきのようなものがあった。


「あの、驚かせてしまったら申し訳ありません。この格好は、気になさらずに。ギターは海辺の方に用意しますので、付いてきてください」


 そう言って、その人(?)は歩き出した。私はドアから出ると、一応カギを締めて、それからそのまま、3メートルくらい間隔を開けたまま付いていった。



 その人は、私がさきほど部屋に行くときに使った廊下を通らなかった。だが、なんやかやと歩いている内に、簡素なボロボロのドアにたどり着き、そこから外に出た。どうやら裏口らしかった。


 外に出ると、さきほどまでどんより曇っていた空はいつの間にか晴れて、まんまるの月がはっきりと見えた。そして、プラネタリウムかと錯覚しそうなほど、くっきりとした星空が広がっている。この辺では当たり前の光景なのだろうが、ちょっと現実感を見失いそうだった。


 しかし、現実感云々と言えば、私が今やっていることは現実なのだろうか? なんで私はこんな怪しいのについて行っているのだろうか。


 そんなことを考えている内にも、私達は例の船の家みたいなところまでやってきて、そこからさらに道を外れて、ゴツゴツした大きな岩がところどころに見える浜辺を歩いた。



 しばらく海の方に歩いていると、海の上に、何やら大きな影があるのに気付いた。明かりも何も灯していないため、はっきりとはわからないが、おそらくあれが船なのだろう。距離感がはっきりと掴めないが、浜辺から50メートルだか100メートルだか、あるいはそれ以上かもしれないが、そのくらい離れたところに停泊しているようだった。

 少なくとも、大きな遊覧船くらいのサイズはありそうだった。さきほど朽ちていた漁船とは比べ物にならない。


「こちらで、お願いできますか」


 その声で我に返り、声の方を振り返る。

 フードの人が指さしたのは、私の腰くらいの高さで平らになっている大きな岩だった。広さは畳2つ分くらいある。たしかに、ちょっとしたステージのようではある。


 岩に手をかけて登り、その上に立ち、辺りを見回してみる。

 今のところフードの人以外誰もいないし、真っ暗ではあるが、一段高いところに立つだけで、結構テンションが上がってくるもんである。しかも、月明かりの下で潮騒の音のバッグサウンド付きというのはなかなか洒落ているのではないだろうか。魚臭いのはアレだが。


 おっしゃ、やるぞ! と、心の中で気合いを入れたところで、肝心なことを忘れていたのを思い出した。


「あ、ああの……」


 ステージの端で屈んで、フードの人に声を掛ける。フードの人は少しこっちを見上げるようにしたが、相変わらず顔はフードで隠れて見えなかった。


「あ、ギターならすぐ届きますので」


「あ、いや、そうじゃなくてですね。何を演奏すればいいんです? 知らない曲とかだとまずいというか……」


「ああ。なんでも構いません。好きに演奏してください。船乗りには20分くらいかかると思いますので、その間、演奏していただければ嬉しいのですが、よろしいでしょうか?」


「はあ。時間は大丈夫と思いますが、本当になんでもいいんですか?」


「ええ。なんでも構いません」


 よくわからないが、なんでもいいというならなんでもいいのだろう。

 私達が普段演っているのは、だいたい呪われそうなドス暗い曲だが、まさか私のことを知っていて指名してきたわけではないだろうから、いくらなんでもいいと言われたからといって、ここで呪われソングを弾くのは常識的とは言えないだろう。

 ここは趣味と現実を折衷して、仄暗いくらいのリフを弾くのはどうだろう。Opethの"Harvest"くらいの。とりあえずそのくらいから始めて、あとは客の反応を見ながら考えようか。



 なんだかんだ考えていると、もう一人、フードを被ったのがやってきて、わざわざ深々と私に向かって一礼してから、ギターケースをステージ岩に置き、また礼をして去って行った。


 そんなに畏まることないのにと思いつつ、ギターケースを開ける。人間に弾けないような変な形状をしたギターだったらどうしようと、一瞬心配がよぎったが、中に入っていたギターは、とりあえず常識的な形をしていた。


 ただ、ギターに描かれた絵柄というか図柄が、月明かりの下なのでよくはわからなかったが、血糊をぶちまけたような感じだったのはちょっとびっくりした。おとなしそうな民族? 種族? に見えて、結構イカした趣味をしているのかもしれない。


 ギターにはベルトが付いていて、肩に引っかけて演奏できるようになっていた。そういえば、立って演奏するのか、座って弾けるのか、については、事前に聞いておくべき項目のひとつだった。立って演奏してください、でもベルトはありません、という展開もありえたわけである。そう考えるとこのフードの人たちはなかなか用意がいい。


 あと、ギターケースにはご丁寧に、ピックが何枚か入っていた。ギターとお揃いの血糊柄である。フィンガーピッキングするには爪の手入れが全然出来てなかったし、そもそも私の爪はヘタレですぐ割れるから、これはありがたい。


 音程の確認のために開放弦を鳴らしてみる。チューナーとか音叉とかはないので何とも言えないが、聞いた感じは問題ない。チューニングもしてくれたようである。今回は他の楽器との兼ね合いはないから、これでいいことにする。


「オーケー。いつでもいける」


 誰にともなく呟いたが、フードの人は聞いていたらしい。


「それではお願いします」



 潮騒の音だけが静かに反復する中に、湿っぽいコードが響く。この船乗りの儀? だかなんだかがどういう類いのものかは知らないが、船出にしては暗すぎるのかな? などと、自分で弾いておきながら思った。今にも船が沈みそうな、景気の悪い音過ぎるだろうか。


 フードの人に目をやったが、彼は浜辺の方を向いており、特に私に対して注文があるようでもなかったから、そのまま続けた。



 やがて、ステージから何十メートルだか離れたところに、何かの行列があるのが見えてきた。やはりフードを被った人が、一列になって海へ向かってそろそろと歩いている。


 やがて、先頭は海へと行き着いたが、そのまま船へと一直線に歩いて行っている、ように私には見えた。実際にはたぶん、途中から足が付かなくなるだろうから、泳いでいるのだと思うが。


 ともかくそんな感じで、浜から船へと列になって静かに歩いて行くのを眺めながら、私は演奏し続けた。





「ありがとうございます。もう、よろしいですよ」


 その声に、私は我に返った。気付くと、浜辺の列はもう無かった。月の位置も、心なしか結構動いたように見える。


 私は演奏する手を止めた。……つまり、どういうことだろうか。私は自分の演奏に陶酔しすぎて、時間も忘れて弾きまくっていた、ということなのか。


 事前の説明によると、弾き始めてから20分ほど経過したと思われるのだが、全然その感覚がない。大丈夫なのか、私。


「今日は本当にありがとうございました。おかげで助かりました」


「あ、ああ。いえ。どうも」


 深々と頭を下げるフードの人に、よくわからない返事をする。

 ゆっくりと頭を上げると、フードの人は言った。


「私達には、お礼できるものがないのですが、せめて、よければ、そのギターは差し上げます。お持ち帰りください」


「え、いいんですか?」


 私は露骨に嬉しそうに聞き返してしまった。もう少し遠慮するとかなんとか、あって然るべきではないかと、もう一人の自分が突っ込みを入れる。


「はい。ぜひ、お持ち帰りください。今日はありがとうございました。それでは」


 フードの人はまた礼をすると、さきほどの列の人達のように、船へと歩いて行った。


 私はしばらく、その姿を眺めていたが、ふと気付いて、再び演奏することにした。この演奏がどういう意味を持つのか、私にはさっぱりわからなかったが、たぶんあの人が船に乗るときにも、演奏があった方がいいのだろうと思って。


 フードの人の影が船の影と重なり、違いが分からなくなって、しばらくすると、船の影がゆっくりと動き始めた。


 船は音もなく沖へと進んでいく。私はその影が小さくなり、水平線に消えていくまで、演奏し続けた。





 ここからは余談になるが、私がこのときもらった「血糊をぶちまけたような絵柄のイカしたギター」は、明るいところでよく見たら錦鯉の柄だったことがわかった。錦鯉の雅な柄を血糊と間違えるのは私らしいと、メンバーのみんなにはさんざんからかわれた。


 あと、この時の演奏からアイデアを得て曲を書いたところ、評判はイマイチだったわりにダウンロード販売では妙によく売れた。もしかしたらあのフードの人達の仲間が、例の儀式に使うために買ったんじゃないかなと私は思っている。

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