天泣 ー花のようにー

月夜野すみれ

第一章 天雨

第一章 天雨てんう


       一


 灰色の雲が太陽を隠して少し肌寒い朝だった。


 雨が降りそうだな……。


 如月きさらぎ風太ふうたが空を見上げた時、

「こいつ……!」

 男性の声が聞こえてきた。

 公園の前でコンビニの制服を着た青年が初老の男のコートを掴んでいる。

 ぼさぼさの髪や服装からしてどうやらホームレスらしい。

 地面におにぎりなどが散らばっているところを見ると万引きしたのがバレて追い掛けてきた店員に捕まったようだ。

 青年が拳を振り上げる。

 男は必死で逃げようと藻掻もがいていた。


「ちょっといい?」

 如月の声に振り返った青年は自分と同い年くらいの如月を見て「文句あるのか」とでも言いたげな尊大そんだいな表情を浮かべた。

 如月は童顔で二十歳そこそこに見えるから人にあなどられがちなのだ。

 青年に上着の内側から警察手帳を出して見せる。

 途端に青年の表情が変わった。


「彼のことは俺に任せてくれるかな」

「あ、はい」

 青年が男から手を離した。

「いくら?」

「え?」

「彼がった物。いくら? お金払うよ」

「逮捕するんですよね?」

 店員が非難がましい視線を向けてくる。

「君が警察まで来て被害届出すっていうならするけど」

「なっ……! 現行犯じゃないですか!」

「なんの?」

「見て分かりませんか? 万引きですよ」

 店員が馬鹿にしたような表情を浮かべる。


「俺はその現場を見てない。俺が現行犯逮捕出来るのは君の暴行だけだよ」

「それは正当防……」

「彼は君に暴力をふるおうとしてなかったから正当防衛は成立しないよ。だから被害届を出してもらわないと逮捕は出来ない」

「そんな……」

「君が万引きの現場を見ていて追い掛けてきたなら私人しじん逮捕出来るけど、その場合でも君の供述は必要だから警察まで一緒に来てもらわないと」

 如月の言葉に店員がたじろいだ。

ったもの返したところで店頭には戻せないでしょ。でも捨てたらお店はその分損失が出たって事になるんじゃないの?」

 如月の落ち着いた言葉に店員は渋々地面に落ちている商品に目を走らせた。

 店員は、如月から金を受け取ると行ってしまった。


 店員が去ると、如月は男と一緒に公園に入った。

 ベンチに並んで座る。

 男はうかがうように如月を見ていた。


「お金払ったから食べても大丈夫だよ」

 如月がそう言うと、男――清水ひさしはおにぎりの包みを開け始めた。

「ホントに逮捕しなくていのか? 俺のこと捕まえるのが警察だろ」

「防犯も警察の仕事だよ」

 如月はそう言うと清水に名刺を渡した。

「今度お腹いたら万引きしないで俺に電話して。電話代が無かったら派出所でその名刺見せれば俺に連絡してくれるはずだよ」

「警察ってそんなに給料いいのかい」

「良くないよ」

 如月は苦笑した。

「じゃあ金が無くなったら、あんたもホームレスになるだろ」

「俺は警察の寮に住んでるし、そこで食事も出るから心配いらないよ」

 如月はそう言うとベンチから立ち上がって警察署へ向かって歩き出した。


 オフィスビルの地下一階の駐車場にスーツ姿の男が倒れていた。

 鑑識官達が離れたので刑事達が床に横たわっている男の側へ行った。

 桜井紘彬ひろあき警部補が死体の横に膝をいて死後硬直などを調べ始める。

 他の刑事達も死体を調べるのだが紘彬がいる時は彼が真っ先に見ていた。


 紘彬は法医学者を目指して医学部を出て医師国家試験にも受かっているので普通の刑事より法医学に詳しいからだ。

 二十代半ば、細身ですらっとしているように見えるが実はワイシャツの第一ボタンを外している。

 剣道と柔道の有段者で首が太いのでワイシャツの第一ボタンをめると苦しいらしい。

 ボタンを外しているのをネクタイで隠しているのだ。


 如月は周囲を見回した。

 平日の昼なので上の階のオフィスで働いている社員達の車で駐車場はほぼ満車だ。

 如月は紘彬に視線を戻した。

 紘彬は警察官になってまだ一年ほどだから如月の方が経歴は長いが階級も年齢も紘彬の方が上だった。

 年上だから、と言う訳ではないのだが色々な意味で如月にとって紘彬は憧れの対象である。


「桜井、どう思う?」

 三十代半ばの刑事が訊ねた。

 紘彬と同じ警部補の団藤まどかだ。

「そうだな、襲撃者はひどい近眼でボクシング未経験……てとこかな」

「近眼なんて事まで分かるものなんスか!?」

 佐久巡査部長が驚いて訊ねた。

「近眼でもなきゃ人間とサンドバッグを間違えたりしないだろ」

「駐車場の真ん中にサンドバッグがあるか!」

 団藤が叱り付けた。

 その場にいた全員が「またか……」という視線を紘彬に向ける。

 如月は溜息をいた。


 頭のい人なのになんで所構ところかまわず冗談言うかな……。


「ボクシング未経験というのは……」

 如月は、こめかみを抑えながら訊ねた。

 紘彬が被害者の顔の一際ひときわくっきりしているあざを指す。

「これは素手で殴ったあとだ。こんな跡がつくほど強く殴ったら拳を痛める。プロにしろアマにしろボクシングやってるなら拳を痛めるようなことはしないだろ」

 紘彬がそう答えた。


 この人は冗談とまともな事を同じ表情や声の調子で言うから油断出来ない……。


 如月は横目で紘彬を見た。


「おい! そこで何をしてる!」

 不意に隅の方から警察官の声が聞こえてきた。

 如月達が振り向くと駐車された車の間から男が飛び出してきたところだった。

 どうやら逃げる前に警察が来て駐車場を封鎖してしまった為、隠れてやり過ごすつもりでいたのを発見されてしまったらしい。


 駐車場の出口は左右二ヶ所。

 車の間から出た後、近い方の出口に目を向けた男は、制服警官が拳銃のホルスターに手を掛けたのを見て反対方向へ駆け出した。

 如月達が突っ立ったままなので捕まる前に走り抜けられると判断したらしい。

 男がこちらに向かってくる。

 このまま如月達が動かなければ三メートルほど離れたところを駆け抜けられると思ったようだ。


「桜井」

 団藤が声を掛けた。

「はいはい」

 紘彬が通路に出て男の進路上に立つ。

 男は持っていたドライバーを横にいだ。

 紘彬がけると思ったのだろう。

 だが紘彬はその腕を掴んで受け止めるとえりを掴んで背負い投げを掛けた。

 次の瞬間、男は床に倒れていた。

 男が床に頭をぶつけないように紘彬が襟を掴んでいたので意識ははっきりしたままだ。

 一瞬で視界が天井に変わってしまったことに理解が追い付かない様子で呆然とした表情を浮かべている。

 紘彬は腕に力を入れて男の手からドライバーを手放させるとうつぶせにして腕を後ろに回させた。

 そのままもう一方の手で男の背を軽く押さえて動きを抑える。

 紘彬は近付いてきた制服警官と交代するとその場を離れた。


「桜井警部補! 手錠を……」

 男を抑えながらそう言った警察官に、

「任せる。報告書頼んだ」

 紘彬は遮って背を向けた。

「え、いや……」

 巡査が戸惑ったような表情を浮かべる。


「桜井さん、手錠はともかく報告書任せるのは無理ですよ」

「報告書くらいケチケチすんなよ」

「お前こそ報告書の手間をしむな!」

 団藤に叱られた紘彬が顔をしかめた。

っとけば良かった……」

「見逃したりしたら始末書です」

 如月の言葉に紘彬が面倒めんどくさそうな表情を浮かべた。

「お役所ってホントに書類が多いよなぁ」

「そこは人権とか色々ありますので……」

 如月がなだめるように言った。

 紘彬は口では文句を言っていても毎回報告書も始末書もきちんと書いている。

 もっとも、普通なら始末書を書く機会などまずないのだが……。


「あ、殺人犯ころしはそいつじゃないから、なんで逃げようとしたのかしっかり聞いとけよ」

 紘彬が男を立たせた警察官に声を掛けた。


       二


 全員が驚いたように紘彬の方を振り向く。

 男まで目を丸くしている。

 まさか自分を捕まえた刑事に「犯人ではない」と言われるとは思わなかったのだろう。


「根拠は?」

 団藤の言葉に紘彬は男の側に戻った。

「拳に傷がない」

 紘彬が後ろ手に回された男の手首を掴んで如月達に手の甲を見せた。

「遺体は歯や頬骨が折れてる。素手でこれだけ殴ったら無傷ではまないからな」

「よくTVとかで拳にハンカチとか巻いてるっスけど……」

 佐久巡査部長が言った。

「ハンカチを巻いてればこんなにはっきりとした拳の痕は付かない」

 紘彬は遺体の側に戻ってきてあざした。

「それに殺されてから時間がってる。犯人が未だにこんなところにいるわけないだろ。第一、ドライバー持っててなんで素手で殴るんだよ。殺したいならドライバーでした方が確実だろ」

 証拠品袋に入ったドライバーに全員の視線が集中した。

「そう言えば最近車上荒らしが相次いで……」

 男に手錠を掛けた巡査が言った。

「すごいじゃないか! 車上荒らしを捕まえたなんてお手柄だったな!」

 紘彬が満面の笑みを浮かべて警察官の肩を叩いた。

「は?」

 巡査が目を丸くする。


 連続車上荒らし逮捕の報告書を押し付けたって事か……。


 如月は苦笑いを浮かべながら面食らった様子の警察官に視線を向けた。

 まぁ警察官の方は報告書だけで手柄を貰えたのだからラッキーと言えばラッキーだろうが。


 夕方、高校帰りの藤崎ふじさき紘一こういちはクラスメイトの佐藤と高田馬場駅前のロータリーを歩いていた。

 佐藤は中国史に興味があって史書ししょを原文で読めるようになりたいと漢文の勉強をしているらしい。

「……そこで陳勝ちんしょうが『燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくこころざしを知らんや』、ヒバリやスズメみたいな小鳥に高い空を舞っている大きな鳥の志は分からないって言って……」

 紘一には中国の歴史の話はさっぱり分からないが、楽しそうに『史記しき』の内容を語っている佐藤は輝いて見えた。


 紘一には夢もやりたい事もない。

 興味の対象すらない。

 夢中になれるほど好きなものがある佐藤を羨ましく思いながら話を聞いていた。


 不意にすぐ側で悲鳴が上がり反射的にそちらを向いた。

 離れた路上に人が倒れている。

 その方向から男が走ってくる。

 見ると他にも別の方向に走っている男が何人かいた。

 男の一人が二人組の女の子の方に向かっている。

 いや、三人組だ。

 女の子の一人が逃げるように男とは逆の方向に離れていく。

 残った二人は立ちすくんでいるようだった。

 周囲の人達も悲鳴を上げながら逃げていく。


 何事かと思った時、

「どけ!」

 女の子に叫んだ男が手を振り上げた。

 男の手の先で何かが光を反射した。


 ナイフだ!


 ピンクの上着を着た女の子に振り下ろそうとしている。

 少女は身動き一つ出来ないままナイフを見詰めていた。

 紘一は咄嗟とっさに駆け寄ると男の腕を鞄で払う。

 あと少しで切っ先が女の子に届く、と言うところでナイフがれた。


 紘一が少女をかばうように男との間に割って入ったが、そんなことをするまでもなく男は走り去っていった。

 進路上に立っている少女をどかせたかっただけらしい。

 続いて背後から駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。

 振り返ると近くの派出所の制服警官達が走ってくるところだった。


「待て!」

 警察官が男を追って紘一達の横を駆け抜けていった。


「大丈夫ですか!」

 もう一人の制服警官はそう言ってから紘一が誰なのか気付いたようだ。

「あ、確か桜井警部補の……」

「違う!」

 紘一は慌てて遮った。

「え?」

「人違い! 俺はただの通りすがり!」


 私闘しとう厳禁げんきんなのにこんな事したって祖父ちゃんにバレたら殺される!


「いえ、そういうわけには……。お名前を……」

 警察官の言葉に焦った紘一が思わず周囲を見回すと野球選手のポスターが目に入った。


 確かあの選手、二刀流って言ってたっけ……。


「宮本!」

 紘一が言った。

「は?」

 警察官が目を丸くする。

「俺の名前は宮本武蔵!」

「なんで武蔵?」

 佐藤が怪訝そうな顔で言った。

「俺、何もしてないから! 絶対うちには連絡しないで!」

 紘一はたたみ掛けるようにそう言うと、

「佐藤、俺、帰るから! またな!」

 と言って踵を返した。

 俺の知り合いだってバレたらお前の名前聞かれるだろ、と佐藤が突っ込む前に紘一は駆け出していた。


こうちゃん!」

「紘一!」

 駅から離れたところで聞き覚えのある声が聞こえた。


 振り返ると幼馴染みの青木あおき桃花とうか白山しらやま蒼治そうじが息を切らせながら走ってくる。

 桃花は紘一より二学年下で中学三年生、蒼治は逆に紘一の姉の花耶かやと同い年で三学年上の大学二年である。


そうちゃん、桃花ちゃん」

 紘一が返事をした時、雨が降り出した。

 桃花は鞄の中から折りたたみ傘を取り出して開くと紘一に差し掛けてくれた。

「紘ちゃん、傘持ってないの?」

「うん、このくらい別に平気だし。それより桃花ちゃんが濡れるよ」

 今は持っていないが桃花はヴァイオリンを習っているのでよくヴァイオリンケースを持ち歩いている。

 楽器を濡らすわけにはいかないのでどんな時でも傘を持ち歩いているそうだ。

 もちろん傘だけでは防げないからケースに掛けるためのビニールカバーも持っているそうだ。

「私も平気! 紘ちゃんには助けてもらったし!」

 やけにキラキラした目で紘一を見上げている。

 ちょっと考えてから桃花が着ているピンクの服を見てナイフの男がそうとしていたのが桃花だったと気付いた。


「紘ちゃんは命の恩人だよ!」

「大袈裟だよ」

 紘一が苦笑した。

「でも、すごかったよ。あんな風にナイフの前に飛び出して桃花のこと助けるなんてさ」

 蒼治もやや興奮気味だった。

「あのさ、今日の事、俺だって事は内緒にしてくれる? 桃花ちゃんは、襲われた事は警察から連絡が来る前におじさん達に話した方がいいと思うけど俺の名前は出さないで欲しいんだ」

「いいけど、それ、喧嘩しちゃダメって言われてるから?」

 桃花が訊ねた。


 紘一は小さい頃から柔道と剣道を習っているのだが、祖父から私闘しとうを禁止されている。

 武道の試合以外で相手に手を出したら叱られるのだ。

 祖父はバブル期に道場を手放すまで道場主だったのでその辺は厳しいのである。

 桃花や蒼治は小さい頃からの友達なので紘一が試合以外では戦うのを禁止されている事を知っている。


「けど、あれは喧嘩じゃないでしょ。私のこと助けてくれたんだし」

「そうだけど……やっぱ知られたら怒られると思う……」

 私闘が禁止されてなくてもナイフの前に飛び出したなどと知ったら大人達は口を揃えて無謀な真似をするなと叱るだろう。

 一歩間違えば紘一が刺されていたかもしれないのだ。

 とはいえ、それを桃花に言うのは恩に着せるみたいで嫌だし、自分のせいで紘一を危険な目にわせてしまったなどと負い目を感じさせたくないから言葉をにごした。


「お父さん達が助けてくれた人にお礼したいって言うかもよ」

「大人に知られたら紘一は叱られるんだから教えない方がお礼になるだろ」

 蒼治は紘一の考えを察してくれたらしい。

「通りすがりの人だって言えばいいよ」

 知ってる人間が通り掛かる事は珍しくないから嘘にはならないはずだ。

 少々苦しいとは思うが。

 桃花は、蒼治と紘一の言葉に「分かった」という表情で頷いた。


       三


「それより桃花ちゃん、友達と一緒じゃなかった? 友達は?」

「帰った。あの二人は同じ方向だけど私はこっちでしょ。一人じゃ怖かったから……」

 桃花の言葉に紘一は納得した。


 考えてみたら桃花はナイフを持った男に襲われたのだ。

 人通りの多い早稲田通りと明治通りを通らず、こちらの道から帰るのなら広い公園を通り抜けることになるから逃げ出す前に桃花に気付いていれば紘一の方から送ると申し出ていたところだ。

 早稲田通りを通ると遠回りだというのもあるだろうが人通りが多ければ襲われないというわけではない。

 現に桃花が襲われたのは大勢の人でにぎわっていた高田馬場駅前だ。

 それを考えれば人通りが少なくても助けてくれた紘一と一緒の方が安心だと考えるのは当然だろう。


「実は俺も。紘一と一緒なら心強いかなって」

「そうだね。大勢でいれば襲われづらいし、どうせ近所だから」

 紘一はそう答えて桃花、蒼治と三人で歩き出した。


 桃花は、はしゃぎながら紘一に色々話し掛けてくる。

 久し振りだからだろうか。

 紘一も一年ほど前まで中学生だったのに、中学三年の桃花がずいぶん幼く感じる。

 子供っぽい感じが可愛くて微笑ましい。


 妹がいたらこんな感じなのかな……。


「ここんとこ晴れてたのに……」

 桃花が空を見上げる。

「晴れてる日が続いてたから天雨てんうなんだろうけどね」

「てんう?」

「雨の異名。降るべき時に降る雨の事そう言うんだって」

「さすが紘ちゃん! よく知ってるね。紘ちゃんの行ってる高校、進学校だもんね」

「そんな事ないよ」

「いや、スゲーよ。あそこ、都立の上位校じゃん。俺なんか名前書けば入れるとこだったぜ」

「蒼ちゃんは部活で活躍して大学推薦で入れたんだろ。そっちの方がすごいよ。俺は入試に合格しないと入れないんだから」

 紘一の高校は確かに偏差値は高いが行きたいところが無かったから一番近いところを選んだだけだ。

 校門から自宅まで大回りする必要があるから歩いて五分は掛かるが直線距離なら数十メートル程度である。

 蒼治の方はサッカーに力を入れているからと言う真面目な理由で入った高校で、名前を書けば入れたというのも勉強よりスポーツを重視している学校だからだ。


「日本って季節の言葉が沢山あるんでしょ」

「四季を重視してるから多いんだろ」

「それは別に日本に限ったことじゃないらしいよ」

 紘一が言った。

「そうなの?」

「うん」

 他言語学習者は「雨」「雪」などで事足りる言葉の異名まで学んだりしない。

 外国語で異名を見る機会があるのはそこで暮らしていたり、その国の文学作品などを読む者くらいだ。

 母国語(日本人なら日本語)は日常的に目に入る機会が多いから沢山あるように思えるだけだ。

 どこの国のどんなものであれ、そこに良くあるものなら異名はいくつもある。


 紘一は二人が「さすが」という表情を浮かべているのを見て、

紘彬にいちゃんの受け売りだけどね」

 と付け加えた。

「久し振りの雨だから木や花は喜んでるんだろうけど、湿度が高いのは困るんだよね」

 桃花が公園内の植え込みを見ながら言った。

 確かにヴァイオリンは高価だからかなり気を使うだろう。

 以前、桃花が自分が使っているのは安物だから、と言っていたから軽い気持ちで金額を聞いて驚いた。

「その値段で安物なの?」

 と訊ねたら、

「高いのだと都内の家が一軒買えるくらい」

 と言う答えが返ってきて愕然がくぜんとしたのを覚えている。


「蒼ちゃん、彼女とは上手くいってるの?」

 紘一が蒼治に訊ねた。

 蒼治は高校一年の時、同じクラスの子と付き合い始めた。

 ずっと片想いしていて、果敢かかんなアプローチの末ようやく両想いになれたらしい。

 交際し始めると更に彼女に夢中になった上に、サッカーの練習にも励んでいたのでここ二、三年ほどはほとんど顔を合わせる機会がなかった。

「うん、近いうちに親に会わせてくれるって」

「えーっ! 蒼治君、その人と結婚するの!?」

 桃花が興味津々という表情で身を乗り出す。

「親に会うだけだよ」

 蒼治が苦笑して答えた。

 三人は家に向かって歩きながら近況を報告しあった。


 夕方、紘彬と如月が聞き込みから帰ると刑事部屋には誰もいなかった。


「桜井、如月、病院へ行ってくれ」

 課長がオフィスから出てきて二人に高田馬場駅前の店舗に強盗が入ったと話し、病院の名前を伝えた。

「刺された被害者が意識を取り戻したらしいから話を聞いてきてくれ。医師にも事件の手懸かりになりそうな事に気付かなかったか確認してくれ」

「了解」

 二人は休む間もなく部屋を後にした。


 翌日の朝、紘彬達は刑事部屋で捜査会議をしていて前日の高田馬場駅前の話になった。


「犯人は取り逃がしたんだが、逃げていく男が防犯カメラに写っていた」

 団藤がそう言ってモニターに防犯カメラの映像を映した。

 走ってきた男の左手が一瞬画面外に出たと思うと、男はすぐに胸元に手を引き寄せ顔をそちらに向けた。

 男はそのまま右手で左手を押さえるようにしながら画面外へと出ていった。

「なぁ、こいつ、ここで左手にケガしたんじゃないか? この辺りに血痕があるかもしれないぞ」

 紘彬が言った。

「夕辺は雨が降ったから残っているかどうか……」

「ケガの度合いにもよるけど、切った場所によっては結構出血するし、血ってこういう風に振ると結構飛ぶんだよ。もしかしたら雨の当たってない場所に残ってるかもしれないぞ」

 紘彬の言葉に皆が顔を見合わせた。

「よし、このカメラの近くを重点的に捜索させよう」

 団藤が言った。


「それと昨日、警視庁から逮捕された男のスマホに新宿区内の住所があったから念のため警戒しておくようにと言う連絡があった」

「住所ってなんの?」

 紘彬が訊ねた。

「闇サイト強盗のターゲット……ですよね?」

 如月が確認するように言うと団藤が頷いた。


「闇サイト?」

「ネット上で闇バイトを募集して、集めた人間を使って特殊オレオレ詐欺や強盗なんかをするんですよ」

 如月が紘彬に説明した。

「いきなり知らない人間同士が集まって上手くやれるものなのか?」

「指示役が細かい指示をするんですよ。実行犯は言われたとおりにするだけなんです」

「ま、指示があっても連携れんけい取れなくて失敗することが多いけどな」

 団藤が言った。

 実行犯が捕まるのはこのパターンが多い。

 素人だと手際が悪くて予定より時間が掛かったり想定外のことに対処出来なかったりするのだ。

「闇サイト強盗は何人も犠牲者が出てるんですよ」

「広域強盗は警視庁の担当だが、ここの管轄も住宅地が多いから十分警戒するよう通達が来てる」

 団藤の言葉に紘彬が更に詳しく話を聞こうとした時、課長がオフィスから出てきた。

「おい、昨日の被害者の身元が分かった」


 駐車場で殺されていた男の名前は小林次郎。駐車場のあったビルの三階の会社に勤務している会社員だった。


 小林は独身でマンションの部屋を借りて一人暮らしをしていた。

 紘彬達は鍵を預かっていた小林の兄と共にマンションの部屋へ入った。


 玄関から入ってすぐのリビングは特に問題はなかったが書斎とおぼしき場所はめちゃくちゃに荒らされていてひどい有様だった。

 パソコンは原形をとどめないほどバラバラにされている。

 如月も緑色の基板を見てはじめてパソコンだと気付いたくらいだ。

 被害者同様、散々殴られて破壊されたらしい。


「どんな恨み買ってたんだよ」

 紘彬が一同の思いを代弁するように言った。

「弟とは疎遠だったもので……」

 小林の兄が小声で弁解するように言った。


 床には沢山のレコードがジャケットから引き出され床に積み上げられている。

 その隣には大量のカセットテープやCD、DVDなどが散らばっていた。

 CDもDVDも中身はそのままだがケースは開いている。

 データを記録したものが隠されていないか全て開いて確認したらしい。


「あーあ、勿体もったいねぇなぁ」

 紘彬はレコードをけてCDの山に近付くとCDケースに入っている歌詞カードライナーノーツを一つ一つ取り出して開き始めた。

「これだけの沢山のレコード、保存状態さえ良ければ一財産でしょうね」

 扉の向かいはベランダへ出られるサッシがあり、向かって左側の壁にはプラスチックの破片が散らばっている机が置いてある。

 そこにパソコンが置かれていたのだろう。

 壁には百八十センチくらいの高さのAVラックがあった。

 机の横のAVラックは空だった。

 下の二段はレコードを入れてあったようだ。


       四


「カセットテープなんて今時珍しいな」

 紘彬が床にばら撒かれているカセットテープを見ながら言った。

 レコードを集めていたくらいだからアナログ音源が好きだったのかもしれない。

 机とは反対側の壁際のAVラックは各段の高さからしてCDかDVDが入っていたようだが空になっている。

 全部取り出して中身を調べたのだろう。

 あるいはCDの後ろに何か隠されていないか確認したのか。

「こんなところまで確かめてますね」

 如月はモニターの前に置かれているブルーレイプレイヤーを見ながら言った。

 ディスクトレイが飛び出しているがディスクは入ってない。


「音楽に恨みでもあるのかね。レコードをこんなにして」

 飯田が積み上げられたレコードを慎重にどかしていた。

「わざわざ全部外に出してるな」

 上田がレコードジャケットの中を一つ一つ覗きながら言った。

「犯人がまだ見付けてなければいんだが……」

「これだけ家捜やさがしして見付けてないとしたらかなり巧妙に隠した事になりますね」

 それは相当入念な捜査を行わないと警察にも発見出来ないと言う事である。


「次郎さんに親しい人はいましたか? 大事なものを隠した場所を教えそうな相手は? 恋人とか親友とか。もちろん、お兄さんでも」

 団藤が訊ねた。

「さぁ? 僕は特に……」

「次郎さんの得意なものはありましたか?」

「え?」

 小林の兄は如月の質問の意味が分からないと言う表情を浮かべた。


「昔の事件ですが、語呂合わせが得意だった被害者が強盗に口座の暗証番号を聞かれた時に犯人の手懸かりを語呂合わせにした番号を答えたことがあるんです」

 警察から犯人が入力した偽の番号を聞けば恋人がそれを読み解いてくれると考えたのだ。

 実際、恋人はその番号の意味に気付いて警察にそれを伝えた。

 それが犯人逮捕に繋がったのである。


「得意なものは……」

 兄は、かつてパソコンだったものの残骸を指した。

「何か手懸かりを隠せそうなところはあるか?」

 団藤が如月に訊ねた。

 如月もパソコンが好きでここにる刑事の中では一番詳しい。

「そうですねぇ……」

 如月が考え込んだ。

「もしかしてレコードじゃないか?」

 佐久が名案だろうと言う表情で言った。

「レコードにデジタルデータを記録するって話は聞いた事ありませんけど……」

 どちらにしろ傷が付いたらデータは読み込めなくなるからき出しの状態で放り出してあったものから取り出せるか疑問だ。

「今時のデータなんてクラウドだろ」

 上田がそう言うと紘彬が黙って大きい透明なゴミ袋を持ち上げて見せた。


 中に大量の細長い紙が入っている。

 シュレッダーに掛けられた紙なのは一目瞭然だ。


「それ、全部復元するんスか?」

 佐久がげんなりした表情になる。

 犯人が持ち去らなかったのも、本当に目当ての情報があるかどうかも分からない紙切れを繋ぎ合わせる気にはなれなかったからだろう。

「それは鑑識がやるだろ」

 紘彬が他人事ひとごとのように言った。

 確かに細切れにされた書類の復元は刑事の仕事ではない。

 如月は密かに鑑識に同情した。


 そういえば……。


 ふと気付いた如月は壁を調べ始めた。


「何かあったのか?」

「逆です」

「というと?」

「モデムやルーターが見当たらないんです。というか通信回線が」

 如月の言葉に全員が一斉に壁に目を走らせた。

 上田や佐久が棚の後ろなどを覗き込む。

「ポケットWi-Fiと言う手もありますけど……」

「とりあえず見落としがないかも含めて鑑識にもう一度調べてもらおう」

 団藤が言った。


 数日後、紘彬と如月が聞き込みから帰ってくると刑事部屋の前に制服警官が立っていた。


「あ、桜井警部補」

 巡査が敬礼する。

「おう、どうした?」

 紘彬と如月も返礼した。

「実は警部補の従弟さんのことで……」

 巡査がそう言った途端、紘彬の顔色が変わった。


「紘一に何かあったのか!?」

 紘彬が思わず詰め寄ると、

「いえ、違います! そうではなくて……」

 巡査が慌てて手を振る。

「品川の強盗事件で逮捕された男のDNAと、高田馬場の自転車から採取した血痕のDNAが一致したとの連絡があったそうです」

 この前の紘彬の指摘により防犯カメラの近くを捜索したところ、鉄製のネットフェンスがあり、その一部が切れて針金の先が道路に飛び出していた。

 その周辺を重点的に調べたところフェンスの隙間に付着した血痕を発見したのだ。

 鑑識はそれを採取してDNA鑑定を行い、サンプルと共に保管していた。


 巡査が高田馬場駅前でのことを話した。


「紘一もあそこにいたのか」

「それで高田馬場駅前の事件の目撃者を改めて探すように言われまして……」

 警察官は困った表情で一旦口をつぐんだ。

 ネットフェンスに血痕が付いていただけでは証拠にならない。

 事件の目撃者が、犯人がフェンスでケガをしたところまで見ていたわけではないなら血痕で証明出来るのはフェンスの側に行ったと言う事だけである。

「面通しが必要なんだな」

 高田馬場の事件と品川の事件の被疑者が同一人物だと証明するには目撃者の証言が必要になる。

「従弟さんのご友人からお名前は聞きましたが……」

「ああ、口止めされたのか」

 私闘禁止ではなくても危ない真似をするなと大人達は口を揃えて叱るはずだし、紘彬も注意するか、何も言わないにしても渋い顔はしたはずだ。

 それで紘一は知られたくなかったのだろう。

「紘一だけでいいのか?」

「他にも知り合いの方があそこにいらしたんですか?」

「いや、聞いてない」

 紘彬は即座に否定した。


 実際、紘一がいたことすら知らなかったくらいだから嘘ではない。

 しかしあの日、紘一は久し振りに桃花と蒼治に会ったと言っていた。

 かなり色々話したようだから恐らく高田馬場から二人と一緒に帰ってきたのだろう。

 だとすれば桃花や蒼治も犯人を見たはずだ。

 だが大学生の蒼治はともかく、中学生の桃花に証言はさせたくない。

 犯人に逆恨みされる可能性があるし、証言をさせないようにするために証人を襲うように誰かに頼むかもしれない事を考えると正直紘一にも証言をさせたくないくらいだ。

 だが紘一に腕っ節が強い友人がいるという話は聞いてないから一緒にいた友達が強いとは思えないし、紘一の友人だけに危険を伴う可能性のある面通しをさせるわけにもいかない。

 だから紘一はむを得ないし、場合によっては蒼治も仕方ないだろうが、さすがに中学生の女の子に危ない目にうかもしれないことはさせたくない。


「一応他にも目撃者がいないか探してますが……」

「紘一と紘一の友達がいるからな。紘一だけでめばその方がいいだろ。他にも証人が必要になりそうなら紘一に知り合いを見掛けてないか聞いておく」

 紘彬の言葉に警察官が安心したような表情を浮かべた。

「女の子を助けたって事は内緒にしておいていいんだよな。逃げていく男の顔を見たってだけで十分なんだし」

「それはまぁ……。しかし表彰されると思いますよ」

「いや、あいつ、賞状は腐るほど持ってるし、そう言うのが欲しけりゃ口止めして逃げたりしてないだろ」

 巡査が表彰されたくない人間がいるなんて信じがたいという表情を浮かべる。

「裁判で証言することになったら被疑者の仲間に名前を知られても仕方がないが、報道で事前に知られると口封じやお礼参りの危険があるからな」

 紘彬の言葉を聞いて巡査はようやく納得した様子を見せた。

 強盗の実行犯で、その上別件の強盗事件の被疑者でもある人間が保釈されることはないはずだが誰かに口封じを頼む可能性は捨てきれない。


 紘彬からしたら証言すらさせたくないくらいなのだから強盗事件で被害者になりかけた女の子を助けたと言う報道で全国的に名前が知られるなど危険な目にう確率を上げるようなことなど論外だ。

 ニュースになるのはせいぜい迷子の子供を見付けたとか、倒れているお年寄りのために救急車を呼んだとか言う程度にしておいて欲しい。

 紘一にしても紙切れ一枚のために両親や祖父に叱られるのは御免だろう。

 巡査に言ったように褒められたいと思っていたら逃げずにその場に残っていたはずだ。


 如月には巡査の気持ちがよく分かった。

 普通は賞状を貰う機会などそうそうないし、特に警察官にとって表彰は出世に直結するのだから尚更だ。


 まぁ、桜井さんちは色んな意味で普通じゃないし……。


 桜井家にしろ藤崎家にしろ家の中に賞状の類はほとんど飾っていない。

 あるのは小学生を対象とした賞で、紘一と紘一の姉の花耶が生まれて初めて貰ったものがそれぞれ一枚だけだ。

 何枚もの賞状をこれ見よがしに飾るのはみっともないという家風もあるようだが、両家とも姉弟揃って武道の大会に出る度に優勝しているし、それ以外の事でも何度か貰っているらしい。

 額縁は安くないのに一々買っていられないとか、そもそも全部飾り切るには壁が足りないとか言う理由の方が大きいようだ。


 さすがに古新聞と一緒に古紙回収に出したりはしてないみたいだけど……。

 桜井さんの孫の代くらいになったら置き場所がないからって理由で捨てることはありそうだな……。


 その頃には物理的な紙ではなくデジタルデータになっているかもしれないが。

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