6-絶対安全圏

 王都の中心から少し外れた街区に位置するプレゼンツ男爵家の一室で、事件は起きた。

 被害者のシルヴィが、鏡の前に立っている。


『きゃあ、シルヴィ! おめかししたらこんなにかわいくなっちゃってもう!』


 背後で白髪の幽霊がわーきゃー騒いでいるが、シルヴィはどこか落ち着かない様子だ。


(ね、ねえ、やっぱ変じゃない!? 似合わないってわたしにこんな立派な衣装!)


 プレゼンツ家にやってきたシルヴィは何より最初にバスルームへ連行された。

 汚物扱いされたのは甚だ遺憾ではあったが、人生初の入浴体験は小さな不満を吹き飛ばすのに十分な威力を内包していた。


 リヒトが使い方を説明しようと言うのでお願いしようとしたが、ソフィアが、

『私が説明しますので断ってください!』

 と大激怒したので素直に従った。

 年頃の女の子が無防備に肌をさらしてはいけないと怒られた。


 浴槽に湯を張り、その間に石けんをふんだんに使って体をくまなく磨く。

 最初は泡も立たなかったが、何度も汚れを落として石けんを塗りたくってと繰り返すうちに、排水溝に流れる水の色もずいぶんきれいになった。


 初めて肩までつかった温水は、言葉にできないほど心地が良かった。

 全身から力が抜け落ちて、意識が遠い彼方へ飛んでしまいそうだ。


 こんな素晴らしい設備を味わってしまったら、もう二度と貧民街の生活には戻れないな、なんて考えてまた機嫌がよくなった。


 脳が溶けるような至福のひと時を最大限満喫し終えて、ようやくシルヴィは風呂から上がった。


 事件はそこで起きた。


 シルヴィが愛用していた色あせたぼろと、泥まみれで変色した滑り止め用の包帯が消えていたのだ。

 代わりにキャミソールとワンピース、それから帯とパンプスが用意されていた。


 困惑しながらもソフィアに指示を仰ぎ、どうにか着つけたのはいいものの、鏡に映った姿は自分とは思えなかった。


『大丈夫です! シルヴィはかわいいです! 自信持ってください!』


 あうあうあーとシルヴィはまごついたが、やがて意を決して廊下へ出た。

 扉の先では黒タキシードのリヒトが頭を下げて待ち構えていた。


「シルヴィ様、本日はお疲れいたしましたでしょう。お部屋にご案内いたしますので――」


 用件を伝えてから、ようやく、頭を上げたリヒトが固まった。

 彼の瞳には、乙女が短い髪を手慰みにして恥じらう愛くるしい姿が映っている。


「や、やっぱ変だよね! か、返して! わたしのぼろと包帯! あっちに着替える!」

「決して変ではございません!」

「ウソだ! 固まってたじゃん!」

「それはっ、シルヴィ様があまりに愛くるしかったからで!」

「へ?」

「……いえ。とても、よくお似合いです」

「そ、そう、かな」


 恥じらうシルヴィと、照れを隠すリヒト、それから甲高い声で騒ぐソフィアだった。


  ◇  ◇  ◇


「ふぉぉぉっ! 部屋だ! わたしの! でっかい!」


 男爵家の南東側の一室がシルヴィには与えられた。

 窓から景色を見れば、目下に緑色の庭が大きな公園のように広がっている。

 机も本棚もクローゼットも存在しているが、シルヴィが何より気になったのはベッドだ。

 音に聞けども概念としてしか存在しなかった寝具なるものが、いま、彼女の目の前で圧倒的な存在感を放っている。


 頬をぺちぺちと叩き、ファイティングポーズを取る。

 ソフィアはボール遊びをする三歳児を愛でるようにシルヴィを眺めていた。


「ふ、おおおぉぉぉ」


 指が、沈む。

 腐葉土が堆積した地面だってこんなに柔らかく沈まない。

 そのうえ、このベッドという寝具は、わずかに反発しているように思えた。


「寝ていいの!? 寝ていいんだよね! 強盗に襲われるかもとか、薬物中毒の錯乱に巻き込まれるかもとか心配せずに寝ていいんだよね!」


 シルヴィは一昼夜通して活動していて、そろそろ仮眠を取らなければいつ意識を失ってもおかしくないなと自己判断していた。

 そこに現れたふかふかの寝具と安全な個室。

 ベッドに潜り込めば秒で眠れると思っていた。


『ああっ、シルヴィ! そのまま寝たらワンピースがしわになっちゃいますよ!』

(ダメなの……?)

『そこからですか! クローゼットを確認してください。寝巻はありませんか?』

(ん……探しておく、明日)

『いま! 探してください!』

(うー)


 シルヴィは布団に頭だけ突っ込んだが、意外と眠りにつけなかった。

 初めての寝具に興奮して、交感神経が活性化していたせいだった。

 そこに、ソフィアから服を着替えろと文句を言われたのでしぶしぶ従う。


(貴族ってのも、意外と面倒なんだね)

『この程度で文句を言ってはいけませんよ。リヒトさんもおっしゃっていたでしょう。明日からは入学の準備として基礎マナーから勉強の時間を取るって』

(んー、ソフィアがいるしなんとかなるよ)

『なりません。言葉遣い一つとっても私が逐一指示をしていれば会話に妙な間が生まれますし、動作についてはシルヴィが覚えなければいけません』

(えー、なにそれめんどくさい)

『聖女になるというのはそういうことですよ』

(だから、ならないって言ってるのに――)

『いいえ。きっとシルヴィは立派な聖女に……シルヴィ? シルヴィ?』


 あ、これ、ダメだ。

 と思ったときには視界がぐるりと回り始めていた。

 せっかく寝巻に着替えたというのに、柔らかい布団がすぐ目の前にあるというのに、

(くそぉ、わたしの、お布団……っ)

 シルヴィの意識はぷつりと途絶えた。

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