1-貧民街の少女

 月明かりが頼りな薄暗い森を、三人のみすぼらしい子どもが歩いている。

 先頭を歩くのは泥で汚れた包帯を滑り止め用途で素足に巻いた黒髪の少女。

 彼女の後ろを歩く少年の一人が、怯えた様子で先頭の少女に声を掛ける。


「な、なあ。やっぱりやめようぜ?」


 少女は足を止めて振り返った。


「はあ? 何? ビビッてんの? 男のくせに情っけない」

「こ、怖くねえし! でも、ここはもう聖結界せいけっかいの外なんだぞ? いつ魔物に襲われるかわかんねえじゃねえか」


 聖結界。

 それは魔物を退ける聖なる領域だ。

 彼らが暮らす王都では、聖女と呼ばれる、とりわけ優れた神聖な力をもつ女性が魔物を拒絶する安全圏を作っている。


 だが、聖女の力は代々弱まり、王都の聖結界の防衛範囲は少しずつ範囲を縮小していた。


 安全な中心部に富裕層は移り住み、逆に、外周部には貧民街が出来上がった。

 そして三人は貧民街でも最も外周側で生きる根無し草。

 聖女の代替わりが起こる前に、金銭的余裕を作る必要があった。


「バカね。見つかったらそれでおしまい。索敵をしっかりして、魔物に見つからず、お宝を見つけて帰るのよ」


 貧民街での金策は、貯蓄を作るほどの利益を生まない。

 だから彼女たちは一発逆転の勝負手に出た。

 自らの命を賭けに出し、魔物の生息地域という危険区域でお宝を見つける可能性に賭けた。


 魔物同士が争った残骸か、人の遺品か。

 求める宝が何かはわからないが、とにかく、一縷の望みを見出したのがこの魔物の住む森だった。


 惜しむほど価値のある生涯を送ってきたわけではなかった。

 だからといって、これからの人生も無意味に終わらせられるほど、一生を諦めきれてはいない。


「つかみ取るんだ、絶対。裕福な暮らしを手に入れて、幸せになってやるんだ」


 黒目の少女は言い切り、少年たちから視線を外して探索を再開しようとした。

 回れ右をしようとした。

 だから気付いた。


 漆色の闇が広がる不気味な森。

 その暗がりの奥深くで、黄金色の瞳が三対、少女たちを見つめている。


「魔物! 逃げるよ! 早く!」


 怒声を浴びた少年たちがハッと顔を上げる。

 少女はとっくに走り出していた。

 彼らがいまから追いかけたところで、先に魔物に追いつかれるのは彼らだろう。


 それと、少年たちは気づいていた。

 先を走る少女が滑り止めに使用している包帯には、わずかに血がにじんでいる。

 背後に迫る魔物が嗅覚に優れているならば、決して少女を逃がさないだろう。


 だから二人の少年は、Y字路を少女と反対方向へ走った。


 茂みから飛び出した魔物が少女の方へ向かえばラッキー。

 自分たちの側にやってきても、最悪どちらか生き延びる可能性がつながる。

 考えうる限り、もっとも生存確率の高い選択だった。


 そして――


 魔物が獲物と定めたのは、黒目の少女だった。


  ◇  ◇  ◇


 死の予感が、肌に鋭く突き刺さる。

 月明かりを頼りに薄暗い森をひとり走る少女に向け、三つ首の獣が背後から迫っていた。


 獣の足は少女より早い。

 そのうえ、地面から飛び出した樹木の根に足を取られた少女が前のめりに斜面へ転がりこんだ。


 死への覚悟すら、間に合わない。


 ただ、もどかしいほど緩慢な時の流れで、少女は自らに突き立てられる牙を瞳に写し――


 虚空から現れた幾条もの紫電の雨が、鮮烈に弾けて三つ首の獣を篠突く様を見上げていた。


「……ぇ」


 少女の、月明かりすら飲み込む闇色の瞳を、獣の黄金色の瞳が忌々し気ににらみつけている。

 見えない境界線の向こうから、臆病者を非難する視線を突きつけている。


 黒目の少女は、名をシルヴィという。

 日に焼けて色あせたぼろと、泥だらけの包帯の滑り止め。

 貧民街出身の一張羅は、魔物の生息地域で活動するにはあまりにお粗末な装備だ。


 本来であれば、彼女はここで死んでいたはずだ。

 しかし、命運は途切れなかった。


 不機嫌そうに立ち去る獣の背中を見送って、少女は大きく息を吐く。

 同時に、とてつもなく長く思えた逃避行が、実際には息を止めていられるほど短い時間だったと気付く。


 少女には、この境界面に心当たりがあった。

 聖結界せいけっかい――聖なる力によって作られる、魔から生まれた化け物を退ける空間だ。

 その威力は凄まじく、人口10万人程度を有する王都もこの結界に守られている。


 だが、少女を守ったのは、王都の聖結界ではない。

 なぜなら彼女がいるこの森は王都の外であり、魔物が生息する危険区域だからだ。


「聖結界……いったい、誰が」


 少女の疑問に答える声は無い。

 ただ静かな夜に、木々のざわめくノイズが乗っているだけだ。


 だから、少女は、さらに森の奥へと踏み込んだ。

 答えを求める足取りは重い。

 漆色に染まる森の闇が、足にまとわりつくようだ。

 知れば後戻りできなくなる。

 根拠の無い確信が、少女の後ろ髪を引いている。


 まもなく、答えは眼前に広がった。

 息をのむ幻想的な空間を、星空が見守っている。

 その中心に、苔むした岩が、月明かりに照らされて鎮座している。


「お墓? こんな、王都から離れた、誰もお参りに来ないような場所に?」


 シルヴィは石碑の前まで来て、顔をしかめた。

 その碑には名前が彫られていなかった。

 もっとも、書いてあっても彼女は字を読めない。

 ただ、名前の無い墓標がかんに障った。

 明日もわからぬ自分の末路を暗示しているようにも思えたからだ。


 砂で汚れた、けれど細くしなやかな指先で、少女が苔に飲まれた石碑に触れる。


 風が吹いた、と思った。

 すぐに違うと気付いた。

 これは、もっと別の何かだ。

 碑に触れた指先から、未知なる感覚が流れてくる。


「だ、誰なの!?」


 シルヴィは周囲を警戒した。

 彼女自身も、何を用心しているのかわからない。

 ただ、すぐそばに突然現れた気配に、体が無条件に反射していた。

 これまで意識したこともなかった感覚が、今まで気づかなかった何かがここにいると訴えている。


『もしや、私を探していますか?』

「ぇ」


 消え入りそうな声を絞り出し、少女は背後を振り返る。

 何もないことを確認して、安心したかった。


 何もいない。

 気のせいだ。


 そのはずなのに。



 吸い込まれるように赤く染まった力強い瞳が、シルヴィの黒目をのぞき込んでいた。


 薄絹で織った女性用の軽い衣装。

 腕にかけた長いストール。

 何にも染まらぬ透明感のある白い髪。

 そして、向こう側の景色が薄く透けるしなやかな手足。


 それは、人と呼ぶにはあまりに神秘的すぎた。


 淡く燐光を発するその指先が触れれば、触られた先から皮膚が焼けただれて全身が浄化されてしまう。

 そんな予感がシルヴィの脳裏をよぎる。


「う、動くなッ!!」


 少女は刃こぼれのひどい、ナイフと呼べるか怪しい短い刃物をその女に突き付けた。

 犬歯をむき出しにして、枝毛だらけのショートヘアを逆立てて威嚇している。


 白髪の女は困ったように笑いながら、少女の瞳の奥を覗き込んだ。


 シルヴィは心臓をつかまれたと思った。

 言葉を交わしたわけでもないのに、まるで心の奥底を見透かされているようだ。

 強烈な吐き気がして、ひどい頭痛に見舞われる。


「動くなと言っているでしょ。それ以上近づいたら刺す。わたしは本気よ」


 シルヴィの黒い目に、闇が灯った。

 周囲の気温が下がったと思えるほど、彼女の目は冷たい。


 だが緋色の目の女は彼女の忠告を無視した。

 座標が水平に直線移動して、シルヴィの前まで移動する。

 そして当然、ナイフの刃先が彼女の胸へと沈み込んだ。

 シルヴィの目が、これでもかと大きく見開かれる。


(この女、実体が――)

『怖がらないで。私は、あなたを傷つけないわ』


 非常に危うい少女だ、と白髪の霊は思った。

 触れれば壊れる。

 そんな予感をひしひしと感じながら、霊魂は必要最低限の言葉で返した。


 霊魂がシルヴィを警戒する一方で、少女は必死に頭を回転させていた。

 ハイライトを瞳から失っていた間、少女は自分の内と外を完全に切り分け、思考を加速させていた。


 敵意は無い。

 その言葉の真偽がどうであれ、現状、攻撃の意志が無いのは事実。

 目の前の相手は、命を惜しまない手合いだ。

 その手の相手と争えば、実力差いかんにかかわらず、手痛いダメージを負うと経験則で知っている。

 話し合いで解決できるなら、それが理想だ。


 だが、どうやって話を付ける。

 それが問題だった。


 ――ギイィィヤァァァァァァァ!


 森の向こうから悲鳴が響いた。

 声質から、一緒に来た二人の少年の物だとシルヴィは気づいた。


『悲鳴です!』

 白髪の霊が切羽詰まった様子で叫ぶ。

「聞こえた。たぶん、ケルベロスに襲われたんだと思う。わたしも襲われた」

 黒目の少女は淡々と返した。

『助けに行きましょう!』

 実体の無い霊が、手のひらで少女の手を包む。


「なんで?」


 無感情に、投げかけられた、無邪気な疑問。

 悪意も善意もない声に、白髪の霊がたじろぐ。


『なんで……って、人を助けるのに理由が必要ですか?』

「人じゃない。あいつらはわたしを見捨てた。だから、敵」

『たとえ敵でも! 困っている人を見捨ててしまえば、あなたは人の道を踏み外してしまいます!』

「いまさらだよ。自分を犠牲にするお人好しになるくらいなら、わたしは敵味方を区別する人でなしでいい」


 二人の価値観は、決定的に食い違っていた。

 片や人を見捨てるのを外道だと主張して、片や人でなしを助けようとするのは度を越えたお人よしだと非難する。

 互いの意見がねじれの位置にあるのは明白だった。

 どれだけ口論を続けても、交わることは決して無い。


『見返りが、あればいいのですね?』


 だから、白髪の霊が意見を曲げた。


 シルヴィが目を見開く。

 ただでさえ神々しかったその霊から、後光のようなものが放たれている。


『聖女ソフィアの名において、この身に宿る聖力せいりょくのすべてを差し出すと誓います』

「聖、女……?」


 白髪の霊――ソフィアは神妙な面持ちで首肯する。


『お願いします。彼らを、助けてください』

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