それは白い本で、でも白紙じゃありません

紫乃遼

それは白い本で、でも白紙じゃありません

 夏鈴はふらりと本屋に立ち寄った。半袖のセーラー服から守備範囲外を言い渡された首と腕には汗がにじんでいる。夏の太陽は今日も惜しみなく権威をふるっていた。

 欲しい本はない。ただ、本は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、この辺りの本屋はどんどん潰れた。新たにオープンしたらしいこの古本屋には初めて入る。クーラーが効いていればどこでも良かったけれど、狭い店内に充満する紙のにおいは夏鈴に正解を告げていた。落ち着くにおい。新しい古本屋という響きは新しいのか古いのかよくわからないけれど、ここへ来て良かったと思わせてくれる。


 せっかくだし何か見て帰ろう、と夏鈴は狭い本棚の隙間へ薄い体をねじこむ。古本屋特有の窮屈さに親しみを覚えながら、背表紙の文字すら読めない本を一冊手に取った。


「え、白紙…?」


 パラパラと最後までページを繰ってみたが、何も書いていなかった。表紙を見る。白い。日焼けした白さだ。裏表紙を見る。こちらも白い。背表紙を再度見る。てっきり古すぎて文字が消えたのかと思ったが、そもそも印字された様子がない。

 別の本を手に取ってみた。こちらはカバーが黒い。でも、中身は白かった。文字はひとつもない。本屋なのに、入店してから一文字も文字を見ていない。


「白い本、いりませんか」


 突然の声かけに夏鈴は飛び上がりそうになったが、そんなスペースはなく、肩を震わせるだけに留まった。見れば、眼鏡をかけた緑エプロンの男性が立っている。眼鏡とエプロン以外にこれといった特徴のない、ただ店員らしさをまとう人物だった。


「えっと…。これ、ノートですか?」


 間違えて文房具店に入ってしまっただろうか。それなら白紙を綴じたものが売られていても納得できる。


「いえ、それは本ですよ。まだ読んでいないだけで」


「読む…? これから、ここに書かれるんですか?」


「いえ、書きません。現れます」


「現れ…?」


「読んでみれば、浮かび上がりますよ」


 店員の飄々とした受け答えに、夏鈴は困惑を極めた。白紙を読めば浮かび上がる? 何が?


「ご興味があれば、一度買ってみてはいかがです? 一冊百円です」


「はあ…」


 腑に落ちない夏鈴は溜め息にもなれなかった息を吐く。よくわからない説明で、大して惹かれもしない。

 まあ、でも百円ショップでノートを買うよりは安いか。ノート五冊分ほどはありそうな厚みを思う。サイズは文庫本だが、ページ数は多い。メモ帳や単語帳にしてもいいかもしれない。夏鈴の頭では白紙の本=ノートだった。


「じゃあ、一冊だけ」


 表紙も白いものを選んで、夏鈴は百円を手渡した。


「ありがとうございます。一度は読んでみてね」


 読んでみてと言われたところで、文字は書かれていないのに。首を傾げながら、夏鈴は店をあとにする。せっかく引いた汗がまた肌を覆った。


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