第2話 なんじゃワレェのおじいさんとナポリタン
スマホがけたたましく着信を告げている。二百五十三コール目を数えたところで、観念して通話ボタンをタップした。
「なんじゃワレェ」
『あっ。
「俺ぁもう引退したんだ、自分らでなんとかせい」
『そうは言っても、現場に出ている者たちがまだ若くて。どうにか来てもらえないですか? 場所は、日本橋の……』
「俺ぁ行かねえぞ」
『ですが、向こうの責任者が、治部神様を連れてこいとしつこいそうで』
「俺は神様じゃねえよ」
『チョチョイと顔を出して、指示してくれるだけでいいんで』
「やかましぁ」
治部良川は一言そういうと、かつての部下からの通話を切った。スマホは未だ使い慣れない。
足場鳶として六十年も工事現場で働き続けた治部良川の組む足場は安心安全に定評があり、その丁寧な仕事ぶりは業界に広く知れ渡っている。
治部良川の組んだ足場において、この六十年間死者はおろか一人の怪我人も出したことがない。事故ゼロである。治部良川は「治部神様」と呼ばれ、同じ鳶職人や工事現場の人間から尊敬され、崇め奉られていた。
しかしそんな治部良川も、もう七十八歳。もういい歳なので、そろそろ鳶職人を引退することにし、昨年、長年勤めていた会社に退職届を出した。
悠々自適の引退生活である。
仕事がなくなった治部良川は今、皇居の塀に身を預けてお堀の中をぼんやりと見つめていた。
六月の昼下がり。
梅雨の合間の貴重な晴れ間を逃すまいと、皇居の周りには皇居ランナーが大挙して押しかけ、一心不乱にマラソンをしていたり、有閑マダムたちが犬の散歩をしていたりと思い思いの時間を過ごしている。
治部良川はそんな人たちを尻目に、連日の降雨によってドブのように濁った皇居の堀の水をなんとはなしに眺めた後、その場をそっと離れた。腹が減ったのである。
昼飯を何にするかと考えながら、とりあえず日本橋の方へと向かった。
皇居の周囲は道路一つを隔てて様子を変える。緑と自然が広がる広大な皇居が存在する道の向こう。信号の先は、ビルが立ち並ぶオフィス街だ。
治部良川は東京駅よりも日本橋駅付近を好む。どちらも隣接しているので大差ないようなものだが、東京駅はどうにも観光客が多すぎていけない。だだっ広い芝生広場で有名な赤煉瓦駅舎をバックに写真を撮る人々の群れに混じるのは、落ち着かないのだ。
「やることがねえっつうのも、暇なもんだな」
治部良川は工業高校を卒業してからずっと働いてきた。たまの休みの日は昼過ぎまで寝て、起きたら酒を食らってタバコをふかす生活だったので、こうして日がな一日やることがないというのも、暇なものである。
家庭を持ってはいるが、息子二人はとっくに結婚して独り立ちしているし、妻は妻でやれご近所との会合だの孫の世話に行くだのと忙しそうで、治部良川の出番はあまりない。
会社に顔を出せば喜んで迎え入れてもらえるだろうが、一度辞めた人間がそうホイホイと顔を出すのも良くないだろう。時代は変わったのだ。後のことは若いものに任せればいい。
そうすると、治部良川にやることなんて、ほとんどない。
趣味がないというのはこういう時に困りものだ。
そんなわけで治部良川は最近では、自分が仕事で関わった建築物を眺めるために出かけているわけだった。
オフィス街の人工建築物の中をぶらぶら歩く。いつの間にか目当ての日本橋はすぐそこというところまで来ていた。
首都高の下にかかる無駄に気合の入った装飾のランプ灯を眺めつつ、橋を渡るか渡るまいか迷い、渡らずに日本橋駅付近をぶらつく。古風な石造りの高島屋の前を通り過ぎた。
昼飯、何にするかなぁ。
この辺りに存在しない飯屋はない。
望めばなんだって食べられるのが、東京の中心たる中央区である。
しかし今の治部良川の目には、どれもがあまり魅力的に映らなかった。なんというか中央区には小綺麗な店しか存在していないので、自分のような現場主義の人間が入るには躊躇われるのだ。
ぶらぶらしているうちに、整然と区画された通りを曲がって、いつの間にか窮屈な雑居ビルがひしめく小さな道を歩いていた。
そこは日本橋の中でも「さくら通り二丁目」と呼ばれる場所で、地下鉄日本橋駅の裏手に位置していた。ビルとビルの隙間に存在する小さな喫煙所には人がひしめき、居心地悪そうにタバコを吸っている。
こんな場所がまだ日本橋にあったのか、と驚く。
さらに一本、人一人がやっと通れる狭さの小道へと何かに惹かれるように入り込むと、一軒の店の前で治部良川は足を止めた。
ガラスのショーウィンドウに食品サンプルがひしめいている。卵とツナのミックスサンド、ケチャップのかかったオムライス、銀の皿に載ったナポリタン、エビの入ったピラフ、さくらんぼつきのクリームソーダ、チョコパフェ、コーヒー、ココア、紅茶。
店の前には、喫茶店の存在を主張するかのように、キャスター付きのどっしりとした看板が道路に堂々と置かれていた。
治部良川はしばし迷った後、店へと入った。
からんからん、と扉についたベルが鳴る。
入った瞬間に空気が変わったのがわかる。
外の音が遮断された。しんとした薄暗い店内には、テーブルが五つほど置かれており、背もたれとクッション付きの椅子がそれぞれ二脚ずつ並んでいる。
治部良川は店員が出てくる前にそのうちの一つに勝手に座った。
テーブルの上にはメニュー表の他にステンドグラスのシェードランプ、スティックシュガー、コーヒーポーション、そしてなんと灰皿も置かれている。喫煙可なのか、今どき珍しい。治部良川はメニュー表を抜き取って眺めた。表の食品サンプルと基本的には変わらないラインナップだ。
挽いたばかりなのだろうか、コーヒーの香りがする店内はこの東京においては絶滅危惧種の類であり、七十八歳の治部良川においては懐かしさを感じられる作りであった。
「いらっしゃいませ」
一拍遅れて店員がやって来る。
注文しようと顔を上げた治部良川は、店員の顔を見て、絶句した。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
そういった店員の顔は、まごうことなきーーねこであった。灰色の縞猫である。サイズも普通のねこである。普通のねこが立って、歩いて、喋って、接客をしていた。
「な、なんじゃワレェ!」
治部良川は思わず中腰になってそう叫んでいた。
「申し遅れました、店長の須崎です」
「そういう意味で言ったんじゃないわワレェ!!」
「漢字は、『必須事項』の『須』に山へんの『崎です』」
「だからそうじゃなくってだなぁ……!」
「あ、お水はここに置いておきますから」
しかしねこの店員は治部良川の質問には全く取り合わず、水を置くと、ペコリと頭を下げて店の奥へと去って行った。治部良川は呆然と見送った。
なんだったんだ、今のは。
治部良川は席に腰を下ろすと、落ち着くために水を飲んだ。
着ぐるみだろうか。しかしそれにしてはあまりにも小さい。身長はただのねこと同じであった。
ならばあれはなんだ? 機械仕掛けの人形か?
奇をてらって人を呼び込もうとしているのか。それにしては店の外観からは、一切そうした雰囲気を感じなかった。
「…………」
治部良川はガラスの中で氷が溶けていくのを眺めながら、じっと思考に耽った。
「ご注文はお決まりですか」
すると、つい今しがた治部良川が考えていた店員が、また顔を出した。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」と言っておいて、五分と経たずに自らやって来た。せっかちか。それとも暇なせいか。店の中には治部良川以外に客はいないから、おそらく暇なのだろう。
治部良川はねこの店員、須崎を正面からじっと見た。
ねこは灰色の縞模様の顔に愛想の良い笑顔を浮かべている。
なぜ昔ながらの喫茶店の中で、ねこの店員に接客されているのだろうと、治部良川は疑問に思った。
「……ナポリタン」
「かしこまりました」
治部良川が言うと、店員は肉球のついた手で器用にも注文を書き付けると、去って行った。
しばしのち、奥からはフライパンを振る音と、ケチャップのいい香りが漂ってくる。
あの手で調理してるんだろうか。それとももしかしたら中にもう一人、調理担当の人間がいるのだろうか。
疑問は尽きない。
再びねこの店員がやってきた。
「お待たせいたしました、ナポリタンです。お好みでこちらをどうぞ」
わけのわからない店員は、銀の皿に載った真っ赤なナポリタンと、パルメザンチーズと、タバスコを置いて去って行った。
なお、ナポリタン自体は美味しかった。
ソーセージと玉ねぎが入ったナポリタンはほんのりと甘みがあり、素朴な味わいだった。
再び治部良川のスマホが鳴った。三百十二コール目を数えたところで、電話に出た。
「なんじゃいワレェ」
『あっ、治部良川さん? やっぱり一度だけ、顔を出してもらえませんかねぇ。相手が全然納得しなくて。おたくに頼んだのは治部神様がいるからだぞと言っていて聞かなくて……』
「しつけぇぞ、自分でなんとかせいや」
『ですが……』
「行っておあげなさいよ」
その時、第三者の声がして、治部良川は顔を上げた。ねこの店員がちんまりと立っていた。これほど存在感があるのに、近づいてきていたことにまるで気がつかなかった。まさに本物の猫のようである。
店員は、なおも続けた。
「人間は、必要とされているうちが花ですよ。あなたがいなくて困っている人がいるなら、行ってあげなさい」
なんじゃいワレェ、と思った。
ねこの癖にこの俺に説教とは、一体何様のつもりなのだろうか。
しかし、じっと佇んでいるねこの店員を前にして、治部良川は少し考えを改める。
確かに、この店員の言う通りかもしれない。
仕事を辞めてみたものの、治部良川にはやることなどない。
ならば、困っているかつての仕事仲間や後輩を助けるために、ちょちょっと顔を出すのもいいだろう。
治部良川は可愛らしいねこの顔を見ながら、そう思い直した。決してこの可愛さにほだされたわけではない。
治部良川の気持ちの変化を感じ取ったのか、店員はそれ以上何も言わず、お冷のおかわりを注ぐとすたすたと店の奥に去って行った。
「………………」
治部良川は残ったスパゲティ・ナポリタンを食べ、水を一息に飲み、タバコを一本吸ってからスマホを取り出して電話をかけた。
「あ、治部良川さん!?」
「おう。俺だ、今から行くからよ。現場の場所、どこだっつったっけ」
電話の相手の仕事仲間は泣きそうな声で感謝の言葉を何度も口にし、それから場所を教えてくれた。ここから近い。歩いて十五分ほどの場所であった。
電話を切って席を立つと、例のねこ店員が現れ、会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店員はペコリと頭を下げてくる。また頭をあげた店員と目が合った。
「また来らぁ」
「はい、お待ちしております」
店を出て、空を見上げた。六月にしては珍しい快晴であった。
「さて、行くかぁ」
もしもあの店員と同じことを家族に言われていたとしても、きっと治部良川は頑として首を縦に振らなかっただろう。
気持ちが変わったのは、店員が全く赤の他人だったせいである。この年になると自分の経験や立場などが邪魔をして、人の話を素直に聞き入れられないものだ。だが、治部良川のことを何も知らない喫茶店の店員に言われ、ハッとした。
確かに、頼られているうちが花である。必要とされなくなった人間は、いないも同然だ。
「年を取るってのは、良くねえなぁ」
治部良川はそんなことを言いながら、工事現場に向かって足取りも軽やかに向かって行った。
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