第5話 賭けになってないじゃない。

「賭けは成立したと受け取っていいかな?」


 ぐるぐる考えていたら、彼の手が私の手に重ねられていて、すすっと妖しく擦られた。ゾクゾクしてしまい、意識が現実に引き戻される。


「賭け、ですって? 予め根回ししておいたのでしょう? 絶対に連絡が来ない自信があるから、そんな賭けを持ちかけるんじゃないですか」


 私が指摘してやると、彼の手の動きが止まった。

 彼は天井を見上げて笑い出す。


「……うはは。流石だなぁ。もっと早く気づくかと想像していたが、君も気が動転することがあるのだな。思っていた以上に、僕は君に慕われていたらしい」

「どうしてそんなにご執心なんです? 理解できない! あなたみたいな素敵な男性であれば、私よりもずっと魅力的な女性を選びたい放題でしょうに。もっと美人だったり、若かったり、政治的に有利な女性はいるでしょう? 好意を持って近づいてくる女性はたくさんいるじゃないですか」


 社員を巻き込んで私を落とそうなんて、それも失敗したら会社を去るつもりで仕掛けてくるなんて、いい大人がするはずがないのだ。仕事一筋で生きてきた私に、女性の魅力なんてあるわけがないし。


「僕は君だから欲しいと思ったんだが……どうして伝わらない?」


 彼は私の前に回ると跪いて見上げてくる。日本人離れした綺麗な顔が下から覗いてくるというのは、洋画の一場面みたいで現実味がない。

 あと、脱ぎかけたシャツがセクシーすぎて、なんか、こう、鼓動が早くなりますね?


「伝わらないというか……」


 ドッキリを仕掛けられているほうがしっくりくる展開ですよね。素敵だな、と思ってきた人に迫られるなんて、人生で、たぶん、ない。

 学生時代にあの人と付き合ったのだって、私が勝手に熱をあげて迫って、むこうが「付き合うって普通こういうことだろ」って言ってきて無理矢理されて――


 男なんていらないって、そう思ったんだ。


 遠ざけるのは、怖いからだ。豹変しないなんて保証はない。どんなに優しく接してくれた人だろうとも、ベッドの上では違うかもしれない。

 私だって、仕事のときと家にいるときは全然違うんだもの。それが現実だよね。

 いろいろ思い出してしまって、自分の膝あたりに視線を落とす。

 本気なわけがない。本気であっても、優しくしてくれるわけがない。

 口を噤んで、膝の上の拳にぎゅっと力を込めたところで、彼の手が被さった。あたたかい。


「――初めて君を見かけたのは前の職場だった。面白い女が乗り込んできたと聞いて、冷やかしついでに覗いてみたら君がいた。狼の群れに囲まれた憐れな仔ウサギかと思えば、決してそんなことはなかったな。君の一生懸命な姿が目に焼き付いて離れなかった。気づいたら辞表を出していた。君のいない世界が色褪せて感じられたんだ」


 私がゆっくり顔を上げると、覗き込むようにしていた彼が寂しげに笑った。


「君の下で働けるようになったら、たちまちに色が戻ってきた。キラキラ輝いて見えた。ああ、これが恋なのだと自覚した。そんなふうに感じられたのは君だけだったんだ。嘘じゃあない。信じてもらえんかもしれんが」


 照れ臭そうに微笑んで、彼は言葉を続ける。


「君の好みは仕事ができる男だと聞いて、精いっぱい成果を出してきたつもりだ。できる限り、君の好みに合わせた格好も心がけた。ひと回り以上歳上だと体力も心配になるからな、ジムに行く回数も増やした。時間を作るためにも仕事は定時で、ほかの者がやるよりも早く正確にこなせるように努力してきた」


 私の強く握られた拳を優しく開くと、彼は恭しく手の甲に口づけを落とす。すごく絵になるなあと思った。


「君に相応しくありたい。足りないことがあるなら、言ってくれないか?」


 上目遣いの視線には切実さと色気が重なっている。普段は私から見上げての位置が多いだけに、その非日常感に惑わされてしまいそうだ。


「えっと……」


 私の、ために? これ以上の、何を?

 すでに陥落済みなんですが。


「わ、私は……いや、どう考えても私より相応しい女性、いますって」


 彼の手を振りほどいた。

 運命の人は私じゃない。きっと私じゃない。

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