第3話 これはなかったことに……したいのに。

「お互いにいい大人なんですし、なかったことにしま――」


 きちんと彼の顔を見なければ――そう思って見やると、彼は今にも泣き出しそうな、葛藤の表情を浮かべていた。いい大人ではあるのだけれど、精巧なアンティークドールみたいに整った顔がわずかに歪んで、震えている。


「あ、あの……」


 気まずくなって声をかければ、押し倒されて口づけをされた。困惑している間に舌が喉の奥まで入り込んでくる。


「んん、んうっ⁉︎」


 手足をばたつかせてもどうにもならない。身体を押して離そうとしても無駄だとわかってしまった。

 深く長い口づけに、次第に酔わされていく。酸欠になっただけだと思いたいけれど、乱暴だったのは最初だけで、あとはとても優しく絡められてしまい、意識もとろんと溶けてしまった。


 久しぶりだってのに、こんなのされたら……


 抵抗がなくなったからだろう。彼は口づけをやめて少し離れた。


「僕は本気だ」

「なんで」

「好きだと告げたはずだ」

「私に魅力なんて……ああ、社長の座が欲しくなりましたか? 私を落とせば、手に入る可能性は高いでしょうからね」


 社長という職に興味があるなら理解できた。中途採用ですぐに取締役に就任するくらいのキャリアも実績も持ち合わせている男だ。年齢としても社長という肩書きを狙っていてもおかしくはない。

 社員数としてはそんなに大きくない会社ではあるけれど、きちんと収益を上げており安定している。不安な要素も特にない今ならば、狙い目だろう。


 彼に惚れてるもんね、私。


 彼の野心に気づかなかったのは私の落ち度だ。ほかの社員たちの野心には目を光らせて対応してきたが、彼には少し気を許しすぎたのかもしれない。

 そういうことなら仕方がないと諦めて顔をそらすと、彼の頭が近づいてきて首を吸われた。


「あっ」


 不覚にも身体が甘く痺れてしまう。抱かれることをこの身体は了承しているのだ。熱を帯びた肌が、敏感になってしまっている。彼に触れられていることを強く感じたいと願ってしまっている。

 拒めない。

 彼は耳元に唇を寄せると、脳を直接揺さぶるような低い声で囁く。


「――僕は君の役職には興味はない。この行為が不本意だというなら、セクハラ会議に通して解雇させるか、刑事事件にでもして追放してくれていい」

「なんで」

「君にはその権利があるからだ」

「そうじゃなくて」

「僕が無理に迫ったら、君は僕を退けることができないであろう?」

「そうだけど、そうじゃなくて」


 埒があかない。

 私は自由になる手をなんとか動かして、彼の癖のある髪を撫でる。

 彼は身体をびくりとさせた。


「なんでそんな覚悟で私に触れようとするのかって、お聞きしたいんです」

「だから、好きだと言っているではないか。君は何度告白させたら気が済むんだ? 録音でもするか? スマホを持ってきたらいいのか?」


 少し苛立った様子で、彼は私を見下ろした。感情的なのは珍しい。

 別にお預けをしたくて聞いているわけではないんだけど。


「えっと、スマホはいらないです。――ただ、好きという言葉が信用できなくて」


 スマホを探しに行きそうな勢いだったので、慌てて制する。

 私の言葉に、彼は眉根を寄せた。


「なんだ、ろくでもない男に粉をかけられてきたってことか? そりゃあ、君のように美人で立場もある女であれば、酒でも飲ませて連れ帰ってやろうというやからはいくらでもいただろうが――」


 いやー、そんな色っぽいことはなかったな……

 ほかの会社の人たちと飲むにしても必ずうちの社員同伴だったし、なんなら部下に家まで送ってもらってたし。隙を作らない努力はしてきたのである。あと、お酒はすごく強かったから、相手のほうが先に潰れていたというか。

 ああ、あれはそういう意図もあったのかなと思える事例も浮かんだものの、未遂にすらならなかった話をしても仕方がない。

 私は彼の話の途中で割り込んだ。


「あー、いえ。スキャンダル狙いで地位を奪ってやろうって男はたくさんいましたけど、部屋に連れ込むことに成功したのはあなただけです」

「……ほう?」


 彼は私を見ながら目をパチパチとさせた。長くてふさふさの睫毛が上下すると風を感じてしまいそうだ。

 私は苦笑する。


「女だからと侮られたことは多いですけど、身体から落とそうなどというアプローチをされたのはあなたがはじめてだったので、後学のためにお聞きしたかったんです」

「君は……愛されたことがないのか?」

「はい?」


 すごく驚いた顔で尋ねられたので、私はきょとんとしてしまった。


 愛されたこと……?


「君は愛されたことがないのか?」


 もう一度尋ねられて、私はとりあえずうーんと唸っておいた。


「セックスの有無なら経験はありますよ?」

「そういうことじゃない。愛する相手に愛されたことがないのかと聞いている」

「恋人がいたこともありますよ。学生時代のことですし、自然消滅でしたけど」

「違う。そういう話ではなくて――ああ、いや、なるほどな」


 なにか合点がいくことがあったようだ。彼は長めの前髪を掻き上げると、私の上から退いた。


 昔の男の話とかしたから、やっぱ萎えちゃったかな? でも、聞いてきたのは向こうだし。これでお開きならパーティ会場に戻れるからいいけど。


 腕時計に目をやる。三十分は経ったが、パーティの主役とも言える社長と取締役が二人して会場から消えたことについてどう思われているのだろうか。スマホの音量はオフにしているけれど、通知による振動音も聞こえていないんだが。


「……会場に戻りますね」


 ベッドからおりて、テーブルに無造作に置かれたハンドバッグに手を伸ばす。その腕を彼に掴まれた。


「ひとつ、賭けをしないか?」

「内容によっては構いませんよ」


 なんだろう。

 私はベッドの端に座る彼に向き合うと首を傾げる。

 彼は薄く笑った。

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