窓際のアカシックレコード 改訂版

橙コート

序章

プロローグ

「なんでだよおおおぉぉぉ!」


 四月中旬。嫌な熱気に包まれた、ここ群馬県桐生きりゅう市を、少年――山上和也やまがみかずやは駆け抜ける。張り付くワイシャツに、曇る眼鏡。動かし続けている足の痛みは、とうに限界に達していた。


「逃げるなよ、毒の大蛇ヨルムンガンド


 叫びながら、彼の背後に迫るのは、一つの人影。


 それは、普通の人間ではない。身体中に真っ赤な炎を纏っており、右手には、それの身長を優に超えるほどの長い棒が握られている。眩い光に包まれたその人影は、輪郭から辛うじて男性のものだということは分かるものの、それ以上の情報はない。


 小説に登場するべき異能力者が、沈みかかった夕日を背にし、人気のない街を蠢いていた。


「停まりなさい! 災いの枝レーヴァテイン!」


 少年の背後に、ある声が響く。転ばぬようにと、慎重に振り向と、そこには一人の女子高生。少年に背を向けたままの少女は、男の視線を遮るように、ひらりと舞って、降り立った。


「あいつは一体何なんですか! なんで燃えてる? もしかして異能力者……とか?」


 気が動転している少年は、少女に質問攻めをする。けれど、その声が届くことはない。


「あなたをここ、記憶の蓄音機――アカシックレコードから、元の世界に戻してあげる!」


 少女は右腕を、男向かって突き出すと、呪文のような何かを唱え始める。


「お願い! 世界のために、力を貸して! 火大――アグニ!」


 ふんわりと開かれた右手の先が、陽炎のように、ゆっくりと歪む。変化する現実。同時に、オレンジ色をした半透明の花びらが五つ、右手を中心に形成された。


「あなたは、この世界に存在していいものじゃない。小説の世界に戻って」


 少女が咲かせた花の中から、それと同色の光線が、男目掛けて放たれる。


 刹那。辺り一面が、強い衝撃と白い光に包まれた。




 少年が目を開けると、そこは彼の高校の最寄り駅、そのホームであった。


 線路の上に広がる満天の星空。先ほどまで橙だったそれは、紫がかった黒と化している。


 奇妙な非現実。その記憶は、確かに少年の中に残っている。けれど、彼の視界に広がる景色は、それらがすべて夢であったとでも言いたげな、今までと何も変わらない、強固で、質素で、そして憂鬱な現実であった。


 少年の口を衝いて出るのは、少女の言葉。


「記憶の蓄音機――」

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