猫とかつおぼし

02 プロローグ

 赤いライトが明滅している。


『エマージェンシー。エマージェンシー。姿勢制御システムに深刻なエラーが発生しています。宇宙船はまもなく制御不能になります。緊急脱出装置を準備してください』


 聞くだけでも不安になるような、危機感を煽る音が鳴り響いている。

 湧き上がる焦る気持ちは、やはり隠し切れないのだろう。分厚い防護服の頭の位置で、ヘルメットを装着する腕は微かに震えていた。


『制御不能までの推定時間は10分です。繰り返します……』

「ええい、くそっ」


 舌打ちを零す合間に、ヴン、という音を立てて彼の目の前に輪郭を緑色に染めたホログラムが浮き上がる。彼よりも一回り小さな、スーツを着た二足歩行の猫だ。

 小型宇宙船の艦載AIのケシーは、ことさら落ち着き払った声を主人にかける。


『キャプテン。急ぎ脱出準備を──』

「分かっている! 少し黙ってくれ、ケシー!」


 この宇宙船の船長であり、たった一人の乗組員でもあるトーンは、少々苛立ちを込めた言葉を投げてようやっとヘルメットを装着した。


「これだから安価な球状磁石の腕先は嫌なんだ。でもケト族用の操作指先型防護服って高いんだよな」

『余裕ですね、キャプテン』

「現実逃避するくらい見逃してくれ」

『いいえ。現状からの逃避は生命放棄に至ります。速急に脱出装置を起動させてください』

「これだからカタブツAIは」

『キャプテンの発言を否定します。AIはデータプログラムであり、硬軟の概念は存在しません』

「そういう所だからな?」


 ぼやきつつも、普段通りのやりとりで少しは心が落ち着いたらしい。

 彼は手すりを伝って宙を走ると、脱出用の救命ポッドに乗り込んだ。


 ほどなく、どこかの宙域で。内部からの爆発で四散する宇宙船の残骸から逃れるように、小さなポッドが星の合間を飛んで行く。

 これで安心──とはいかない。

 ポットの周りを、様々な石が追い抜いていく。

 その行く先には、大きな穴に見える空間があった。


 ブラックホール。


 ひとたび捕まれば、光さえ抜け出ることは叶わぬ時空の入り口だ。

 そんな大物を前にして、まともな推進力もなく、コールド・スリープで救助までの時間稼ぎを想定した救命ポッドが太刀打ちできるわけもなく。

 だれがどれだけ内部で焦った声をだしても、宇宙にはそよ風程度にも聞こえない。


 ポッドはなすすべもなく、ブラックホールへと吸い込まれていった。


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