第09話 紅茶の缶

「こっちだ。行こう」


 光輝こうきさんの太い指が私の手を取った。暗い中でもよく位置が分かるものだと感心する。視覚の存在を忘れろとはいうが、私というやつはそこまで適応力があるわけじゃない。ひたすらその手に引かれるだけである。


 光輝さんの歩くスピードが遅くなってきたと思ったら、どうやら傾斜路を歩いているらしかった。つま先が上がっているので、どうやら上に歩いている。自分が上がっているか下がっているかすら定かではないなんてどれだけ視覚に頼る生活をしてきたのだろうと思い知らされる。


「キャッ!」


 叫び声が喉をいて出た。もし光輝さんが近くにいなかったら、硬い地面に頭をぶつけ膝をぶつけ、ことによると出血していただろう。体同士が触れ合うと、私たちは当然のように口づけし、それから性交した。


 息を切らせながら、壁に持たれ、二人で手をつなぎあった。私たちはことあるごとに性交した。お互い究極的に無防備な格好であったし、肌と肌がぶつかり合うたびに情欲が沸き起こってしまった。それは目の前が暗闇という現実をとことんまで忘れるためという実際的理由もあったのだが。


「ねえ、その野萩やはぎさんがものを拾ったって話は本当なの? そんなに都合よく食べ物や松明たいまつが落ちているもの?」


「ああ」


 真っ暗闇のなかで光輝さんがうなずいたように思えた。


「彼も不思議だったらしい。彼が目覚めて、闇の中を慎重にさまよっていると何かが脚に当たった。それは木材だった。手探りで触れてみると、両手に抱えられるぐらいあったらしい。


「彼は熱心に木と木を摩擦させ火を起こした。よくサバイバル番組とかだと陽の光を援用して燃やしたりするだろう。ここは真っ暗闇だし、どちらかというと湿り気が強い。酸素の運びも良いほうじゃないと思う。その中でどうやって火を付けたのか僕には定かではないが、とにかく彼はやってのけた。


「火を起こした跡は、一気に地平が開け、感動したと彼は言った。しかし、同時にば目に入れたくないものが姿を現した。その実態が分かると急に悪臭が顕在化し、ゲロを吐きそうになった。そこにあったのは死体だった。うつ伏せで、服は来ていない。体格から見るに男性。白人だった。死後かなり経っている。重力によって血液は体の下にたまり、そこから腐敗が始まっていた。不思議なことに、ウジやハエといった虫にたかられていなかった――ここには虫はいないのだ。おそらく一匹も。


「死体に次いで目を引いたのは、丸太で作ったテーブルだ。テーブルの上には食べ物が上がっていた――魚の干物だよ――。それから驚いたことに紅茶の缶があった。ポットもあった。湯を沸かしたと思われる鍋もあった。男はここで木材に着けた火で紅茶を沸かし、魚の干物を食べつつそれを飲んだんだ。だよ。僕が野萩の話を疑ったのはいうまでもない。どうしてそんなものがここにあるのか。彼はあくまでも本当に見たと主張した。


「もう一つ重要な話がある。死体だよ。死体には損傷があった。頭に刺し傷があったんだ。頭の後ろを何か細長いもので突かれて死んだんだ。なにか恐ろしい凶器もこの闇の中には存在しているということだ。そしてそれを操る人間も。もしかしたら人間じゃないのかもしれない。野萩が言っていた通り化け物とか」


「もう止めてよ、光輝さん。私そういう話苦手なんだから」


 私の深刻な声色を聞いて、彼はごめんと謝った。


「もともとホラー好きだからそういう話にいっちゃうんだよ、ごめんね。ただ、なにものが彼を殺したのか考えておく必要がある。なんせ、そんなやつがうろついているわけだからね。考えてもしょうがないから考えないようにしているけど」


「それがいいわね」と私。「それにしてもポットや鍋かあ。そんなものがあったらいろんなことに使えそうね。今の何もない状態よりはよっぽど」


「そういうものはみんな野萩が回収して『基地』に持ち帰ったらしい。テーブルもみんな解体してね。それがどこにあるのか分かれば僕らの道行もだいぶ楽になる」


「ねえ、気になっていたんだけど、光輝さんは野萩さんのことをどう思っているの」


「どうって?」


「なんだか嫌ってるみたいなんだもん。年上の人なんでしょ、それなのに呼び捨てだなんて」


 光輝さんは黙り込んだ。闇は沈黙が生まれると、そこにいる人間の存在をかき消してしまう。私は体温が十度ぐらい下がった気がした。


「光輝さん、そこにいる!?」


 手を握っているくせに、私はほとんど悲鳴に近い声で聞いた。


「あいつは最低なやつなんだよ」


 と言い捨てた。


「あいつが最低だったせいで、あいつは死んだ。その経緯を話そう。きっと想像を越える最悪さを感じるだろう」

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