たとえ君が微笑んだとしても

大隅 スミヲ

第1話 いのうえ食堂

いのうえ食堂(1)

 飲食店で仕事をするのは、ひさしぶりだった。

 最後に飲食店で働いたのはいつだろうと考えてみたら、大学二年の夏だった。

 もう10年近く前の話だ。


「はい、唐揚からあげあがったよ」

 店の奥から店主である井上さんが声をかけてくる。

 井上いのうえさんは今年で78歳になるらしいが、腰も曲がっておらず元気に店を切り盛りしていた。


 大量の唐揚げが乗った皿を受け取り、山盛りのごはんと味噌汁のおぼんに乗せて、客席へと向かう。

 注文したのは薄緑色の作業着を着た中年男性で、唐揚げを見ると嬉しそうに微笑んだ。


 この店に来る客は、肉体労働系の仕事をしている人が多かった。

 いま出した唐揚げ定食を見ればわかるが、とにかく量がすごいのだ。

 そして、ご飯はお替り自由。どんぶりに山盛りのご飯を出すのだが、それでもおかわりを頼む人は少なくはない。

 店に来たお客さんはみんな笑顔になって帰っていく。


 こんな仕事もあるのだ。高橋たかはし佐智子さちこは、レジでおつりを渡しながらそんなことを考えていた。


「ありがとうございました。またお越しください」

 まるで何年も前からこの店で働いているかのように、佐智子は声を張り上げる。


 店の雰囲気が良かったせいもあって、すぐに溶け込むことができた。

 店を切り盛りするのは、店主の井上さんとその妻の世津子せつこさん、あとは週に一度のペースでバイトでやってくる『ごっちゃん』と呼ばれる40過ぎのおじさんだった。


 ごっちゃんはすべてが謎の人物だった。バイトのシフトは週に1回と決まっている。

 この前一緒になった時に、色々と話しかけたのだが、ごっちゃんは無口な人で必要最低限の会話しかしてくれなかった。

 あまり根掘り葉掘り聞いて、警戒されてしまっても嫌だな。

 そう思った佐智子は、ごっちゃんの謎を知りたいという気持ちを押さえて仕事に励んだ。


、休憩しちゃって」

 ちょうど客足が途切れたところで、世津子さんから声を掛けられた。


 さっちゃんという呼び名は仕事初日に付けられた、あだ名だった。

 人生の中で佐智子が『さっちゃん』と呼ばれていたのは5歳ぐらいまでだった。

 幼稚園の頃に、童謡のせいで『バナナが半分しか食べられない』などとからかわれたりもしたが、負けん気の強かった佐智子はそんな風にバカにしてきた男子に掴みかかった。それ以来、みんな佐智子のことを恐れて『さっちゃん』というあだ名では呼ばなくなったのだ。


 学生時代もたまに『さっちゃん』と呼ぶ人がいたが、その呼び方はトラウマだからやめてほしいと自分から打ち明けてやめてもらっていたりもした。本当はトラウマなど存在しないのに。


 最後に自分を『さっちゃん』と呼んだのは、誰だろうか。

 まかないで出してもらった特製親子丼をほおばりながら、佐智子は考えていた。


 特製親子丼は半熟卵のトロトロ親子丼であり、中に入っている鶏むね肉も柔らかく、口の中に入れると出汁の味が広がっていく。ごはんにもしっかりと出汁が染み込んでおり、ひと口食べるごとに口の中に幸せが広がっていくようだった。


 しかし、今の佐智子はそんな特製親子丼の味がよくわかっていない状態だった。

 さっちゃん。その呼び名が、佐智子の思い出したくもない記憶を掘り当ててしまったのだ。


 最後に『さっちゃん』と呼んでいた人物、それは元カレのミドリだった。

 ミドリは大学の時の彼氏であり、年齢はひとつ年下だった。


 佐智子がさっちゃんはトラウマだからといつものセリフをいうと、ミドリは「そうなんだ」といっただけで、さっちゃんと呼ぶのをやめようとはしなかった。


「おれもさ、ミドリって名前がトラウマなんだよ。子供のころから、女みたいな名前だとか、好きな色は何色なんて言われて、からかわれたからさ。さっちゃんはいいよ。かわいい名前だし。おれは『さっちゃん』好きだよ」

 ミドリは、そんなことを平気な顔をしていうような男だった。


 なんで、ミドリと別れたんだっけ。

 気がつくと、佐智子はミドリのことばかりを考えていた。


 休憩を終えた佐智子は、頭を完全に仕事モードへと切り替える。

 仕事モードに切り替えれば、頭の中から余計なことは消えていく。

 これは佐智子の特技のひとつでもあった。


 夕食時のいのうえ食堂は大勢の客で賑わいを見せる。

 やって来るほとんどの客が肉体労働系の仕事をしている人たちであり、作業着に身を包んだ彼らは仕事終わりのひと時をこの食堂で過ごしてから家路に着くのだ。


「ラーメン大盛りに餃子一枚、チャーハンとレバニラ炒めおねがいします」

 客から受けた注文を大声で厨房の中にいる井上さんに伝える。

 井上さんはちょっと耳が遠くなってきているようで、大きな声で伝えないと聞こえなかったりしていた。


「はいよっ!」

 威勢のいい返事。この返事が聞こえれば、きちんと注文は通っているという証拠でもあった。


 不意に、レジの脇に置かれている電話が鳴った。

 佐智子は素早い動作でレジ脇まで進み、受話器をあげる。


「はい、けい……あ、違った。いのうえ食堂です」

「いま刑事課って言おうとしただろ」

 電話の相手は笑いをこらえたような声でいう。

 電話を掛けて来たのは、ひとつ上の先輩であり相棒でもある富永だった。


「二〇分ほど前に、奴がを出た。きっと、そっちで仕事前の腹ごしらえをするはずだ」

 ヤサというのは、家のことを指す隠語だった。ヤサ→サヤ→鞘。刀をおさめる鞘から、自分のおさまるところ、すなわち『家』を指す隠語である。


「わかりました。確認します……。に、ですね。毎度、ありがとうございます」

 すでに電話は切れていたが、佐智子は怪しまれないように注文を受けたかのような発言をした。


「出前の注文です。です」

「はいよっ!」

 この出前メニューは事前に井上さんと話し合って決めた暗号だった。

 もし佐智子が出前でそのメニューを伝えたら、佐智子は自分の仕事に戻るということを指していた。

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