18話 衝動 

 俺は都筑さんが言葉をこぼすよりも早く、手を伸ばした。その髪の毛に指を埋めて、俺の手に収まるくらい小さな頭を引き寄せる。傾いた体を支えようと俺の胸に手をついた都筑さんの背中に左手を回す。驚いて見開いた瞳が、間違いなく俺を見ている。


「……あ、」


 小さく聞こえた声を飲み込むように、俺は都筑さんの唇を塞いだ。酔っているせいか体が熱い。自分の温度か、都筑さんの温度なのかもわからない。驚いて叫ぼうと開いた唇を更にこじ開けて、俺の舌は都筑さんの舌を絡め取るように探る。


 体を竦めて逃げようとする都筑さんの背中に回した左手に力を込める。夢中で唇を貪る俺の胸を、都筑さんが拳で叩いた。我に返った時には都筑さんは俺を突き飛ばすように押しやって、苦しい息に肩を上下させていた。涙ぐんだ目で怯えるように俺を見る都筑さんの表情に、俺は頭にのぼった血が引くのを感じた。


「な、なに、これどういう――」


 都筑さんは途切れ途切れにやっとそれだけ呟いた。


「……俺」


「いくら酔ってるからって、悪ふざけにも程がある」


「違います。悪ふざけじゃないです。確かに少し酔ってますけど酒のせいじゃないです」


「なんだよそれ、意味がわからない」


「……どうしても、触りたくて」


「……は? 君、ゲイなの?」


「違います。男が好きなわけじゃないです」


「だったら」


「都筑さんしか、触りたくないです」


 ソファーの隅に体を押し付けるようにして、都筑さんは混乱して怯えた目で俺を見ている。俺は安心させたくて手を伸ばす。だが都筑さんはますます体を縮めて俺から逃げようと身じろいだ。俺は顔に触れようとしていた手を止め、固く握りしめてソファーに置かれた都筑さんの手を取った。


「怖がらせるつもりはありません。拒まれるかと思ったら、歯止めが効かなくて。……都筑さんの嫌がることはもう二度としません。だから」


 俺は言い訳がましくそう懇願して都筑さんの手を握りしめ、祈るように答えを待つ。自分の手の中の都筑さんの緊張が少しだけ和らぎ、俺は顔を上げる。



☆☆☆☆☆



 都筑さんは立ち上がると無言で部屋を出て行った。恐ろしいほど静かな部屋で俺はソファーに体を縮めて座りながら、都筑さんが戻るのを待つ。きっと都筑さんは俺の顔も見たくないだろうと思う。もう二度と目の前に現れるなと言われればそうしよう。でも黙って逃げ出したりはできない。都筑さんに触れて、俺はますますこの人が好きなんだと確信した。この気持だけは伝えなければ。数時間にも思える静寂のあと、都筑さんは部屋着に着替えた姿でバスタオルで髪を拭きながら戻ってきた。


「あ、あの都筑さ……」


 俺はソファーから立ち上がる。すると都筑さんが一歩後ずさるように身構えた。俺は都筑さんを怯えさせないように、ソファーの向かいの床に正座した。


「いつからこんなこと考えてたの」


 都筑さんは頭をバスタオルで覆い、俺の方を見ずにそう言った。


「えっ」


 俺は咄嗟に答えが出なくて言葉に詰まる。ようやく俺の方をちらりと見ながら、都筑さんは軽蔑を含んだ声で続ける。


「目が悪いから、イケると思った?」


 驚くようなその言葉に、俺は思わず声が大きくなる。


「ち、違います!」


「だって君、ゲイじゃないんでしょ」


「は……い、違うと思います」


「だったらなんで――」


 都筑さんの疑問ももっともだ。突然現れてファンだと言った男に、無理やり体を触られて不愉快だろう。俺は自分でもまとまらない頭の中身を、絞り出すように一つ一つ言葉にする。


「初めて会った時から、あの夜、俺が都筑さんにぶつかった時から、始まったんだと思います」


「は? ……あの時? なんでそうなるのか良くわからないけど」


「あの時、大人の男の人をあんなに近くで見たの初めてでした。都筑さんが驚いて振り向いて、でも俺のことは見てなくて。……今思えば、実際見えてなかったんですよね。でも俺はあなたの目に映りたいと思った。イルミネアの編集長だったってことも、そりゃ驚きましたし嬉しかったけど、でもそれとは関係ないっていうか……」


 俺は自分の気持の半分も言い表す事ができないもどかしさに、言葉が途切れる。


「いやいや、まず何より僕は男なわけで」


「はい、……でもあの、男性であることはあまり考えませんでした」


「なんだそれ……普通一番に考えるだろ。男同士なんて」


「そう、なんでしょうか」


「そうなんでしょうかって……」


 都筑さんは困ったようにため息をつく。


「川瀬くん、君が小説家志望で、真剣に執筆してるのはわかるよ。僕も現役の頃から山程プロットやそれ以前のものを見てきてる。だから君の小説が遊び半分でないのはわかる。……ただ、小説家志望の子が僕らのような人間と出会うと、舞い上がってしまうのもよく知ってる。だから――」


「違います!」


 都筑さんが俺をなだめるように、子供に言い聞かせるように言おうとするのを、俺は思わず遮った。


「俺は都筑さんに、俺の小説を評価してほしいわけじゃなくて! そりゃ認めてもらえたら嬉しいけど……何て言うか、俺の書いた文章、俺の言葉であなたの中に入りたいんです。あなたの頭の中をいっぱいにしたい。一日中、俺の言葉を思い出して欲しい」


 都筑さんは目を丸くして俺を凝視したあと、困ったように呟いた。


「……だから、なんだよそれ。……悪いけどついて行けないよ。君より長く生きてるけど、男とどうこうなるなんて想定外なんだ」


「……はい」


 都筑さんの困惑がひしひしと伝わり、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。正座の膝の上で拳を握り、俯いていると、大きなため息のあとに都筑さんはとにかく、と言った。


「もう遅い。今日は帰ってくれないか」


「はい」


「一人で帰……君なら一人で大丈夫だね。……はあ、全く。調子が狂うよ」


「……すみません」


 俺は痺れかけた脚で立ち上がり、玄関までのそのそと歩く。リビングのドアのところから都筑さんがこちらを見ていた。


「あの……」


 俺は何を言おうとしたのだろう。口を開くと、都筑さんは首を振って遮った。


「今日の事は忘れよう。お互い酔っていたし、頭を冷やせば気持ちも変わるさ」


「……」


 もうこれ以上都筑さんを困らせるわけにはいかない。俺は言葉を飲み込んで頭を下げると、都筑さんの部屋をあとにした。


 十二時十八分。まだ電車は動いている。だが俺は駅を通り過ぎ、そのまま歩き続けた。もうすぐ十月だと言うのにまだどこか生ぬるい風の中、五駅の距離を歩き続けて俺は汗だくになった。


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