09話 都筑さんですか

 キャンプ場でのバーベキュー以来、バイトのない日は何かと伊織に連れ回されている。俺は小説の執筆で焦っていたが、いつの間にか力が抜け、かえって効率よく書き進められていることに気がついた。新人賞に応募するにはまだ推敲が足りないが、話の筋はまとまって、形になってきた。


 あれからも時々バイト先では都筑さんの姿を見かけていたが、とにかく自分の原稿が仕上がるまでは、そう自分に言い聞かせながら執筆して二ヶ月弱。ようやく人に見せられるところまで仕上がった原稿。図書館の自習室でPCの画面を眺めながら、俺は迷っていた。


「やっぱここにいた。ゆーき、今日このあと時間ある?」


 肩を叩かれ、俺は顔を上げる。伊織が肩にかけたバッグを机に下ろしながら隣の席の椅子を引く。


「――え? ああ悪い。今日はちょっと用があるんだ」


「今日もバイト?」


「いや、違うけど……」


「あ、もしかしてまた小説書いてたの?」


 伊織は俺のPCを覗き込む。伊織は俺が小説を書いていることを知っている数少ない人間だ。何度か読んでもらったこともある。第三者に見てもらうことが、とても大事な気付きに繋がることが少なくないからだ。


「ああ、うん。次の新人賞に間に合わせたくて」


「え、俺も読みたい。俺にも送って」


「もうちょっと直したら送っとく」


「おけー。久しぶりだから楽しみ」


 そうだ。伊織に見せるのにはスマホに送るだけでいい。だが都筑さんに見てもらうにはどうすればいいだろう。原稿を送りたいから連絡先を教えてくれなどと言って、はいそうですかと教えてくれるだろうか。……いや、俺なら絶対教えない。


「どうしたん、そんな難しい顔して」


「ん? ……ああ、いや、もう少し見直さないとな」


「そっか。でも飯は食うだろ、キリのいいところで付き合えよ」


「ああ、もうそんな時間か」


 時計を見るともう七時を少し過ぎている。俺はファイルを保存してPCを閉じた。伊織と近所の定食屋で夕飯を済ませたあと部屋に帰り、何度も何度も見直した原稿を印刷した。


 悩んだ末に俺は原稿を紙に印刷し、チャンスがあれば都筑さんに見てもらおうと考えた。我ながら強引な手段だとは思う。


 その日から俺は三百枚近い原稿の束を肌身離さず持ち歩くようになった。平日の昼間にはあまりバイトのシフトを入れられず、それからしばらく店で都筑さんを見かけることはなかった。


 最初は小説がどうにかまとまった興奮で舞い上がっていたが、日が経つにつれ冷静に考えると、初対面の人にいきなり三百枚もの原稿を押し付けようとしている自分の無謀さが恐ろしくなってくる。だが諦めかけていた憧れの人をようやく見つけたかもしれない、このチャンスを逃すわけにはいかない。俺はわずかな望みに賭けることにした。


 ようやく都筑さんの姿を見ることができたのはそれから四日後だった。俺は午前の講義を終えて二時から店に入った。四時過ぎ、入口のガラスのドアの向こうに都筑さんが見える。俺の心臓は飛び跳ね、思わず声を上げそうになる。


 いつも通りのショートラテを受け取って席に着く都筑さんをしばらく視界の隅に追いかけ、俺はハッとして自分の企みを思い出す。やっぱりやめた方がいいだろうか、そんなことも頭をよぎる。


 どれくらいの間立ち尽くしただろうか。ようやく俺は意を決して店長に声をかける。


「あの、店長すみません。少し早いんですが休憩に入ってもいいですか」


「うん? いいけどどうした、具合悪い?」


「いえ、大丈夫です。……ちょっと用ができて」


「そう、ならいいけど」


「ありがとうございます」


 俺は急いでバックルームに戻り、ロッカーのリュックから原稿の束を取り出す。ずっと持ち歩いてたせいで少しだけ紙の隅が折れていた。深呼吸をして、ホールに戻り都筑さんのテーブルに近づく。いざ本人を目の前にすると緊張で自分でも驚くくらい手に汗をかいていた。


「あの、すみません」


 テーブルのこちら側から俺は小さめに声をかける。都筑さんはPCから顔を上げて探るような視線で俺の方を見た。


「お仕事のお邪魔をして申し訳ありません。あの、お……僕、川瀬と言います。この店でバイトしてる学生です、あの、とても失礼かとは思いますが、先日お連れの方とお話しされているのを聞いてしまって、もしかして、都筑さん――都筑和真さんではありませんか?」


 俺は緊張のあまり、異常に早口で捲し立ててしまい、都筑さんが呆気に取られているのがわかった。握りしめた原稿は、力が入りすぎて表紙に皺が寄っている。ますます汗でベタつく手を、外し忘れたエプロンにこっそり擦り付けながら俺は都筑さんの言葉を待つ。五分にも感じられるその沈黙は、実際には数秒程度なのだろう。


「ええと、……君はここの店員さん?」


 都筑さんは少し困ったような表情で俺を見上げている。


「はい」


「君は僕のことを知ってるの?」


 眼鏡の奥の視線が、俺をスキャンするように流れる。


「はい! 高校の時にイルミネアを知って、それからずっと毎月見てました」


「イルミネアか、懐かしいな。――よく編集人の名前なんか知ってるね」


「途中でなんとなく雰囲気が変わったなと思って、調べました。そうしたら編集人の名前が都筑さんから宮原さんという人に変わってて、それであの、ずっと都筑さんが今何をしてるのかとか調べて、その……」


「え……?」


 都筑さんの瞳に恐怖と警戒の色が浮かぶ。俺は慌てて首を振って言い訳をする。


「ちっ違います! 家とか職場とか、そういうの調べてた訳じゃなくて! 新しい雑誌とか作ってるのかなって、それだけです! ぐ、偶然この間お話しが聞こえて、都筑さんって呼ばれてたのでもしかしたらと思って、それで……」


「……それで? たしかに僕は都筑和真だよ。昔イルミネアの編集もしてたけど。それが何か?」

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