和真:02話 どこかで聞いた声

 金曜の夜、いつもより少し遅い電車に乗り込んだ。最終電車になってしまうとかなり込み合うので、タクシーを使うことが多いけれど、この時間帯ならそれほどの混雑では無いのでまだどうにか僕はひとりで帰ることができる。だいぶ慣れてきたとは言え、やはり身動きが取れないほどの混雑やひどい騒音、知らない場所、それらは僕の体を竦ませる。


 空席がいくつかある電車の車両。僕は静かに目を閉じて、駅のアナウンスや周囲のざわめきに耳を澄ませる。警戒しながら周囲の音に集中するのはとても疲れるのであまり長い時間はもたない。早く静かな自分の部屋に帰りたいと思いながら、ひとつひとつ、駅名を数える。


 最寄りの駅まであと一つ、そう思いながらぼんやりとした視界で周りを見渡す。少し人が増えてきて、車内の空間は人影で埋まり始めていた。

 突然、大声が車内に響く。


「な、何するんだお前、離せよ! 痛てえな!」


 僕よりも年上だろうか、男性の、苛立ったような、怯えたような声だ。僕は声がした方向を凝視する。たくさんの人の壁の向こうで誰かが声を荒げている。何かトラブルだろうか。僕は無意識に膝のカバンの上の両手を握り締める。はっきりしない視界を声がする方に向けたまま、音に耳を澄ませる。こういう咄嗟のことに、まだどうしても緊張で体が強ばる。


 車内の乗客たちも心なしか落ち着かない雰囲気を醸し出していて、それがますます僕の不安を駆り立てる。どこか張り詰めたような空気の中、人影の奥から微かに声が聞こえて来る。


「どうしますか、こいつ。突き出すなら一緒に行きますよ」


「……警察に、届けます。手伝っていただけますか」


「ふざけるな! 俺は何もしてない。――お前、傷害で訴えるぞ! このクソガキが!」


 人垣の向こうでくぐもった声のやり取りが聞こえた。どうやら誰かが痴漢行為をして、それを取り押さえられたらしい。――事故でなくてよかった、そう思った瞬間、ひときわ大きく、低く響く声が車内の空気を震わせる。


「騒ぐな! 俺はあんたのしたことを確認した。証拠の写真もある。犯罪者はあんたの方だ。おとなしく俺と一緒に次の駅で降りろ」


 多分、かなり大柄な若い男性の声だ。十代、いや二十代前半くらいか。明瞭で澄んだその声はようやく子供っぽさが抜けたばかりのようでもあるが、毅然とした口調がその印象をとても落ち着いたものに変えていた。


 強い意志を感じさせながらも、どこか気遣いを滲ませるその声色。きっと、被害にあった女性はその声の持ち主に助けられて安心しただろう。僕はその声に聞き覚えがあるような気がして記憶を辿ってみたけど、どこで聞いたのか思い出せなかった。


 やがて電車は次の駅に停車した。僕の住むマンションの最寄り駅だ。ドアに向かう人の流れの後に続いて僕も席を立つ。ドアの手すりにつかまり、ホームの地面をつま先で確かめながら電車を降りた。

 

 ドアから少し離れた場所で何人かの人が立ち止まって話をしている。さっきの痴漢騒ぎの関係だろうか。制服らしい暗い色の服を着た二人と、中年の男性。女性と、もうひとりは飛び抜けて背の高い男性。僕よりも頭ひとつくらいは大きいようだ。この彼が、さっきの声の持ち主だろうか。


 彼らの横を通り過ぎる時、女性が背の高い彼にお礼を言って、彼は気にしないでくれと答えた。僕はその声をやっぱりどこかで聞いたことがあると思った。思い出せないままホームの端のエスカレーターを下って、改札へ向かう。


 夜の駅構内、人々は黙々と足音と衣擦れを響かせて川の流れのように大きくうねって出口へと流れていく。僕はその流れに逆らわず、歩調を合わせて溺れないように歩いた。


 改札の手前、駅のコーヒースタンドを通り過ぎる時、ふと鼻を掠めるコーヒーの香り。毎日このあたりに漂っている。それを胸に吸い込んで、静かに吐き出した時、僕は彼の声を思い出した。

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