第7話 夏穂

 夏穂かほがその写真を初めて見たのは、公民館の事務所でだった。

 岩田から写真を見せられた時、夏穂は別の事に気を取られて、岩田の言葉を聞き逃してしまった。

 後に夏穂は何度も後悔する。

 どうしてあの時、岩田の話をもっとよく聞かなかったのか。

 岩田から聞いた事を秀一に話しておけば、あの夏、罪を犯す人はいなかったかもしれないのに——。

 



 その日、夏穂はみずほ町の公民館で、夏期講習会のテキストを印刷していた。

 横には従姉妹のりんが、テニスラケットを抱えて立っていた。


「ねえ、まだ? 早くコートに行こうよ」と、凛は不満顔で夏穂を見上げた。

「凛ちゃんも子供会の夏期講習に参加するんでしょ? 手伝ってよ」

「絶対、行かない!」


 凛は夏穂より二つ年下の中学二年生。小柄で痩せていて、真っ黒に日焼けした姿は小学生の男の子にしか見えない。

 手入れのされていない短い髪。きかん気の強そうな顔立ちの少女だった。


「真理子先生から講習会に出るように言われてるんだよね?」


 夏穂が言うと、凛はプイと横を向く。


「あの人、大っ嫌い!」

「真理子先生が担任に決まった時、喜んでたじゃない」

「だって先生まで、一輝さんのスマホのことしつこくきいてくるんだよ! 何度も同じこと答えンの、マジめんどくさい!」


 先週、凛は町外れにある廃社になった神社、通称『首吊り神社』でスマートフォンを拾った。

 スマホが誰のものか分かった凛は、すぐに届けに行ったが、それが町中で大騒ぎになってしまった。

 そのスマホが去年亡くなった鷲宮一輝わしみやかずきの持ち物だったからだ。

 凛にしてみればスマホを届けただけなのに、周囲からあれこれ問い詰められて、うんざりしているのだろうと、夏穂は同情した。


「凛ちゃん、なんで夜中にあの神社に行ったの?」

「全然、怖くなかったよ。幽霊なんか出なかった!」

「……そりゃあ、そうだろうけど……」


 昔その神社で首を吊った女の人がいたらしいが、大人たちは詳しい事は教えてくれない。

 そんないわくつきの場所、昼間でも薄気味悪いのに、夜一人でなんか絶対行きたくないと夏穂は思った。


「アタシが見つけたスマホ、智和さんが警察に持って行くんだって。お祖父じいちゃんが言ってたよ」


「へーっ、警察に調べてもらうんだ」


 凛の祖父は夏穂にとっても母方の祖父に当たる。

 ひでじぃと慕われ、去年退任するまで長年この町の町長を務めた人物だ。


「だってさあ、死んだ人のスマホが出てきたんだよ。今まで隠し持ってた人がいるってことじゃん。調べたら、なんかすごいことがわかるかもよ!」


 凛は大きな目を輝かせた。


「アタシ、まだ誰にも言ってない事があるんだけど、警察にだったら話してもいいかなあって、思ってるんだ」


 その時、事務所のドアが開き、岩田が入って来た。

 夏穂は笑顔で岩田に会釈する。


「ガンちゃん、凛ちゃんがサーブの練習したいんだって。教えてあげてよ」


 夏穂が言った途端、凛はさっと手提げかばんを肩に担いだ。


「アタシ、先にコートに行ってる」


 凛は岩田の横をすり抜けて、そそくさと出て行った。

 夏穂は苦笑いで、凜を見送る。

 凜が岩田を避ける気持ちは、分からなくもない。

 岩田はみずほ町のテニス協会会長。子供達にボランティアでテニスを教えている。

 だが岩田のレッスンは子供達に受けが悪かった。

 マナーに口うるさく、講釈ばかりでなかなかボールを打たせてもらえないからだ。

 夏穂も昔、延々とサーブのトスだけをやらされて、うんざりしたことがあった。

 だが今となっては子供の時にしっかり基本を教えてもらえてよかったと、岩田に感謝している。

 お金のかかるスクールに通ったこともないのに、今の高校で一年から活躍出来ているのは岩田のおかげだと思っていた。


 急に出て行った凛には目もくれず、岩田は夏穂に近づくと低く言った。


「ちょっと、いいか?」

「もうすぐ終わるよ。なに?」


 岩田は夏穂が綴じている印刷物を見た。


「夏期講習のプリントか。おまえが教えるのか?」

「お手伝いだよ。真理子先生に頼まれたの」


 岩田は口の中で「そうか、真理子さんか……」とつぶやいた。

 七十過ぎの岩田の声は、常に痰がからんだような掠れ声で、聞き取りにくい。


「これを見てくれ」


 岩田は手に提げてきたヨレヨレの紙袋から何やら取り出して、夏穂に手渡した。


「郷土資料館に飾るつもりでいたんだが、人目にさらすのもどうかと思って、ずっと家に保管していたんだ」


 岩田が見せてきたのはパネル大に引き伸ばされた集合写真だった。

 場所は鷲宮一輝の遺体が発見された温室だということがすぐにわかった。というのも写真を撮った者は、温室をなるべく大きく撮りたかったのか、五人の人物を中央より右端に寄せて撮っている。

 メインは温室で人間は添え物のような印象すらあった。


「坊っちゃんが来たらこれをお渡ししようと思っているんだが、どう思う?」


 夏穂の心臓の鼓動が急に早くなった。

 この町の年寄り達が『坊っちゃん』と呼ぶ相手は、一人しかいない。

 夏穂の幼なじみの鷲宮秀一わしみやしゅういちだけだ。


「……別に……いいと思うよ……」


 写真に写る五人のうちの一人は、秀一の兄の鷲宮一輝わしみやかずきも写っている。

 秀一が貰って困るものではないだろうと、夏穂はあまり深く考えずにそう答えた。

 なぜかその時、岩田はがっかりした顔をしたが、赤くなった顔を悟られまいと、夏穂はすぐに横を向いた。窓に目をやる。


 岩田は、写真を見つめたままつぶやく。


「まあ、いい……一輝さんにとっては本意ではないだろうが……真理子さんも安心して町を出ることが出来るだろう」


 夏穂がこの言葉を聞いていたら、それはどういう意味かと、たずねただろう。

 だが夏穂は窓の外、公民館前の駐車場を横切る二人に気を取られていた。


(……うわあ……やっぱあの二人、付き合ってたんだ……)


 子供の時からの遊び仲間だった武尊たける涼音すずねが手をつなぎ歩いているのを、夏穂はポカンと眺めた。


(……二人に会ったらなんて声かければいいのかな? おめでとうは、変かな? しれっとスルーすんのは冷たいよね?)


 そんな思いで頭がいっぱいだった夏穂は、岩田の言葉を聞き逃してしまった。


 ボケッと窓の外を見ていた夏穂は、大きく扉が開く音に驚いて、振り返った。

 縦にも横にも大きな女が部屋に入ってくる。


「待たせたね、ガンちゃん。話って、何?」


 鷲宮家の当主、守親もりちかの介護をしているみやびだった。

 雅は岩田と共に応接セットに座ると、写真を前に何やらヒソヒソ始めた。


 大人の会話に首を突っ込むような教育をされていない夏穂は、作業を終えると、二人に挨拶して事務所を出た。


 その写真に写っていたのは五人。

 岩田本人と、夏穂の幼なじみの武尊、涼音、コータ。

 そして去年亡くなった鷲宮一輝だった。

 五人は全員、笑顔でこちらを向いている。

 夏穂にとってそれは、ただの集合写真にすぎなかった。

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