喫茶こもれ日

@unabara_sidu

プロローグ

学生が多く行き交う時間の少し前、午後3時を過ぎた頃。

喫茶こもれ日の店長である吾潟会あがたかいは日替わりのお茶菓子として出すクッキーの焼き上がりを待つ。四十畳ほどの広い店内にバニラとバターの甘い匂いが充満する。

吾潟は、数年前までこの地域の中学校で教師として働いていた。両親や祖母に背中を押されて、夢いっぱいで働き始めた吾潟は、子供が大好きな優しい青年で、学生のために一生懸命働こうと心に誓った。しかし現実と理想のギャップに頭を抱えた。厳しい規則、終わらない残業、止まらないいじめ、挙句の果てに学級崩壊…。

毎日頭を下げる日々。鬱になり休職するも、玄関に立つだけで過呼吸になり、復職できる日は来なかった。

そんな吾潟にはパートナーがいた、同い年の、同性のパートナー。名を比嘉悟ひがさとるという。彼は研究職についており、たくさんの本を書いていた。くたくたに疲弊した吾潟を見かねて、「金ならいくらでもあるんだ、好きなことをすればいい」と言ってくれたのは比嘉だった。

最初は絞りカスのような声で「僕はもう何もできないから」と繰り返すだけだった吾潟も、比嘉に励まされるうちに、昔、自分で心に誓った信念を取り戻した。自分よりも一回りも下の学生に虐められても、保護者から罵声を浴びせられても、吾潟の子供好きは消えることはなかった。次第に「子供に直に向き合える場所が欲しい」「自分のしたいように、子供たちを励ましたい」と溢すようにまでなった。それを聞いた比嘉の対応はとてつもなく早かった。元々仕事場を兼ねていた比嘉の一軒家の一階をリフォームし、喫茶店を作った。吾潟の要望を聞き、テーブルスペースや座敷のスペース、広いキッチンスペースを設けた。比嘉の人脈を使い、広告を作ったり、吾潟と共に店を始めるのに必要な資格を取ったりと、滞りなく物事が進んでいった。また、吾潟の希望で心理カウンセラーの資格も取った。「自分が救いきれなかった子供たちを、次こそは助けたい」という吾潟の気持ちを、比嘉は否定しなかった。

最終的に出来上がった喫茶店は、殆ど子ども食堂のような形となった。

吾潟の気持ちに賛成する元同僚からの支援や、地域からの募金や食材の援助で、

午前は子育てをする保護者たちの憩いの場、また、不登校の子の居場所に、

午後は学校帰りの子供たちの安らぎの場に、

夕方は家に居場所のない子や寂しい思いをする子の心の拠り所として、今日も開店する。

オーブンからチンと音がする。焼き上がりは完璧。丁度良い焼き色だが味はどうだろう。

「悟くーん」と二階にある書斎に呼びかけると、寝不足の比嘉が降りてきた。「あと少しで原稿が出来上がるんだ」とお経のように繰り返し呟く比嘉の口にクッキーを突っ込む。「甘い…うまい…」と呟きながら書斎へと帰っていった。美味しいらしい。

残りのクッキーを小皿に取り分けて、子供たちの帰りを待つ。

吾潟の顔は、いつも晴れやかだ。

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