母の河

いすみ 静江

第1話 母の河

 私は、令和四年十月のその日、眠れずに徹夜してしまった。

 空が白むにはまだ早い。

 四季の死んだ寒さに、身を震わせた。

 電気ストーブと小説書きが、私をあたためる。

 ままある夷隅いすみ静江しずえの負け曜日だ。


「おはよう。佐祐さすけさん」

「ママ。おはよう」


 寝室は、夫婦で一部屋に布団を敷いている。 

 佐祐さんは、四時半に、微睡まどろみみながらスマートフォンで目覚めを促していた。

 いつも丁度五時には、時計の針が三時を指すように自身の体を起こし、出勤する身支度を整えて、自身でお弁当も拵える。

 春より高校生となったいつきも器用におにぎりを支度して、東京とうきょう葛飾区かつしかくの自宅から墨田川すみだがわの方へと自転車のペダルを踏んでがんばっていた。

 私は、せめてお弁当くらいはこしらえたいと思っていたのだが、病気でそううつも朝に反映し易く、歯痒い思いをしたものだ。


「ママは、ゆっくり休んだ方がいいよ」


 パパの柔和な顔は、黒いマスクをしていても分かる。

 寝室を去ろうとしたとき、彼のスマートフォンが呼んだ。


「はい、夷隅佐祐です」


 電話越しの話が緊迫しているが、どうしたのか。

 負け曜日となった今朝、嫌な日とならないように祈りたい。


真白ましろのお母さんは救急搬送され、家族には、危篤状態だから集まって欲しいそうだ。行くかどうかは静江が決めることだよ」


 私は、直ぐにでも出られる勢いで着替えながら、頷いた。

 兄の樹と妹のひなを各々保護する。

 アトピー性皮膚炎と中学校の問題で、体調が優れない娘には留守番を頼み、兄には通学して貰った。

 これが最善だろう。

 佐祐さんは、仕事用のジャンバーからポロシャツに着替えて、有限会社ゆうげんがいしゃ真白ましろ鋼建こうけんの事務所まで徒歩で向かい、父のクラウンを団地に寄せる。

 私は助手席に滑り込んだ。

 都会を照らす夜明けのボーダーラインが、ビルに光を撫でながら刻々と変わっている様を見ながら、車は西へと道を辿った。

 佐祐さんのスマートフォンは、再び深刻に着メロを流す。


「はい、はい。静江に代わります。善幸よしゆき社長だ」

「お父さん」


 無機質で鈍麻な自分は悪い人なんだと、諸刃の剣を背中に感じた。

 それは、現実の把握が甘い証拠だろう。

 佐祐さんのスマートフォンは、私の手から直ぐに父の声を発した。


「病院に着いて、お医者さんと話をしていたんだ。佐祐さすちゃんに話したけれども、静江と話をしようと思ってな。お父さん」

「お母さんが、どうかしたの?」


 喉がドラムのように響く。


「脳内出血らしいんだ。このまま手術をしても植物状態になるだけだから、処置しない方がいい。もう家族を集めて欲しいと言われて電話したが、どうもな」


 素早くスマートフォンは主を変えた。


「こちらはA病院の救急ですが。真白ましろ絢子あやこさんのご家族の方ですか?」

「はい、娘の静江です」


 同じ説明を医師からもなされ、このままでは、母が亡骸なきがらだと冷静に考える。

 私は冷たい訳ではなく、見放した訳でもないと繰り返し念じていた。


「私は、手術を希望するかには、イエスです!」


 瞼をしっかと開き、命のイエスを訴える。


「弟さんもよろしいですか?」


 イエスのバトンは渡された。

 弟の陽康ようこうだ。

 日光の神社で忙しく働いているから、元気だったかとの思いを噛みしめる。


「はい。お願いいたします」


 呼吸を置くこともなく、命のイエスを繋いだ。


「自分からも頼みます」


 父も電話越しにイエスを繋ぐ。

 善幸、静江、陽康が四人家族の誰を欠くことも求めなかった。


 ◇◇◇


 ――ふと、母との日が過った。

 愛娘ひなの学費を支払いに、久し振りに実家へ寄ったのが想い出の日となるなんて。


「こんなお別れは嫌よ。庭先のチビちゃんも逝ってしまった。会える距離にいた人が、コロナ禍で暫く滞っていたら、消えてしまうだなんて、私の判断は愚かだったわ」


 今年の盛りを得た夏、母の手から握らされたおさつがぬくもりとなって思い出された。


「静江。この間借りた八千円とお小遣いを上げるからちょっと待って。この頃はお父さんがお金を隠してしまうからね」

「お金で来た訳ではないよ。お茶飲みに来ただけ。それよりも歌番組好きでしょう? 秋実あきみちゃんも登場するみたいよ」

「はい、一万二千円。千円の方が使い易いだろう?」

「大丈夫だよ。ママは無心してないよ」


 経理をしている母は、とかくお金の話をよくする。

 折角の想い出の十二枚だが、夷隅家の生活費に消えた。


「これは、いっちゃんとひなちゃん達に一枚ずつ。これは静江の分だからね。美味しいもの食べなさい」


 更に私の分は、再来年には北里きたざと柴三郎しばざぶろう先生になる。

 貴重な旧札としてお財布に忍ばせておこうか。


「お母さん、こんなにいいって。気を遣わなくても」


 母が、もうお給料を貰えなくなったと嘆いていたのに、私も教育費で食費が回らなくなり困っていたからと受け取ってしまった。

 悔いる所がある。

 でも、母は、福山絢子時代に相当な苦労をして、高校だって兄三人に授業料を出して貰い、自転車で山を越えて通い詰めたとの思い出話をよく聞かされた。


「銀行の用事だけで留守番をしていると思っているひなが気掛かりで、早く帰ってしまった。もっとゆっくりしていればよかったな」


 ◇◇◇


 この救急搬送の日から、私の中の母は脳裏に大きく巣食った。

 私は、母と対峙してどうしたいのか。

 双眸からは自責の念が落ち、頬に道筋を作って行った。


「頬の流れを『母の河』としようか」


 真白家に長女として産まれたとき、静江と命名し、その文字は長江と言う中国にあるとても長い河の名から選んでくれたそうだ。

 私は、母への想いをこの『母の河』に託したいと思う。

 小説を書いていたから道楽して罰が当たっただの悔やみ、寝付かれない。


「ずっと何も書けなかったけれども、最も書きたかったことが見付かったね」

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