《「八月の空を見たい」と言った彼女は、もういない。》

 ――七月三十一日


 浴衣姿の凪は最強だった。紺を基調とした生地の中に、明るい向日葵が咲いていた。

 帯の黄色が紺色の生地によく映える。後ろで束ねた髪が妙に生々しい。

 花火よりも華やかに輝くその姿は、人混みの中でも見失うことはないだろう。

「どうかな……っ?」

「え、ああ……見惚れた……」

「あ、ありがとうっ」

 照れ臭そうに俯く凪の手を握る。


「波ちゃん、『着付けに手間取っているから現地集合で』って連絡があったよっ」

「そうか……。そうしたら、それまで、屋台でも冷やかそうか」

 柏駅から常磐線で一駅の我孫子駅は、既に人でごった返していた。

 さすがは、県内最大規模の花火大会だ。誰もが浮き足立っていて、これからの時間を心待ちにしている。

 はぐれないように凪の手を握り、えっちらおっちら進んでいく。

 屋台を眺めながら歩く。目当てのりんご飴を見つけた凪。

「凪は、昔から好きだよな」

「うん、おいしいよっ! でも、づっくん、りんご、食べられないもんね」

 残念そうに言いながら、一口頬張る。

「うんっ! 美味しい! これは『過去最高と言われたX年に匹敵する五十年に一度の出来栄え』だあ!」

「どうしてボジョレー風……」

 突っ込みはさておくとして、満足そうで何よりだった。

 笑顔でりんご飴にかじり付く凪。

 暮れ掛かる空に、屋台の灯りが頬を艶やかに照らす。

 凪パパが用意してくれた指定席のおかげで、場所取りの必要はなかった。

 娘のために頑張ったらしいが、大好きすぎるだろう。

 気持ちは分からないでもないが。


 人混みに若干酔ってきたので、一足先に着席。

 遠く、祭囃子が聞こえている。

「づっくんは、さ……」

 改まった口調の凪。

「将来のこととか、考えている?」

「それはもちろん、凪の旦那さんよ」

「いや、そうじゃなくて」

 そうだよね。分かっていたよ。

「冗談だよ……。ぼんやりと考えていることは、あるけど……凪は?」

「あたしは、本が好きだから……本に携わる仕事がしたいなって」

 しっかりとした目つきで、空を――未来を見据えていた。

 その瞳には、はっきりと、自らが進む道筋が見えているのだろう。

 凪なら、大丈夫だ。

 これまでと同じように、向かうべき場所へ向かって着実に歩みを進めていくだけだ。

「それはいい。とても素敵だと思うよ。凪にぴったりだ」

「えへへ、ありがとう。それにね、づっくんとあたしを最初に繋いだのは、本だったでしょう?

 だから、少しだけ運命というか。縁を感じるんだっ」


 初めて出会った日――本の貸し借りを約束したことを思い出す。

 それからも暫くの間は、本の貸し借りを口実に遊ぶ約束をしたものだった。

 不器用だった、幼い頃の記憶。

「そうだったね。おかげで、僕もすっかり読書家だよ」

 未来や夢について語ることのできるようになった僕たちに、あの頃の弱さはない。

「僕は、凪ほど明確に決まっているわけではないのだけど」

「聞かせてっ?」

「小説家になりたいと思う」

「小説家?」

「初めは父さんのような警察官もいいかなって思ったけれど、僕は、凪さえ守れたら、それでいいから」

「…………」

「職業としての小説家……になれる確率を考えたら本当に夢のような話だけど。

 でも、進路とか職業とか、そういう明確な目標とは別に、この日々を記すべきだと思ったんだ」


 我ながら子供じみていると思う。

 良い歳の高校生が何を言っているのだと言われても仕方がない。

 その行為に一体どれほどの意味があるのか。

 それでも僕にとっては、大切なことなのだ。

「すごい……づっくん、素敵だよ。応援するから、必ず読ませてねっ」

 そして、そんな僕を、凪は受け入れてくれる。

 キラキラと輝く瞳で笑った。

「ありがとう……でもこのことは、僕と凪との秘密な。波には言うなよ?」

「うんっ、わかった! 秘密だよっ」

 えへへ、と嬉しそうに笑いながら、僕の肩にコツンと頭を乗せてくる。

 その重さが心地よくて、寄り添うように僕も頭を預けた。



「それにしても、波ちゃん、遅いね……」

 打ち上げ開始までは一時間ほど余裕があったが、それでも、この混雑だ。

 ここまで来るのには、それなりに時間を要するだろう。

 迎えに行く必要がありそうだからと何度か電話を試みるも、一向に出やしない。

 メッセージの既読もつかない。

 ……何となく嫌な予感がした。五分、十分と時間が過ぎていく。

「ねえ、づっくん、今日って……」

 スマホの画面に表示された日付を見て、愕然とした。

『七月三十一日 ○曜日』

 茹だるような暑さが冗談のように感じられ、背筋が凍りつく。祭りの喧騒が遠のいた。

「いや……まさか……そんな……」

 ふと初めて出会った日の会話が脳裏に浮かんだ。


 ――ちなみに、これまでの最高記録は七月三十一日。


 じっと、待っていることはできそうになかった。

 何か目的を伴って動いていないと不安で押しつぶされそうだった。

 僕たちは一度、駅まで戻り、波の到着を待つことにした。

 打ち上げ時間が近づくにつれて、来場者は加速度的に増えていく。

 人の流れに逆らう形になる僕たちは、逸る気持ちとは裏腹に、中々前へ進むことができなかった。

 やっとの思いで駅前にたどり着いたが、それでも、波からの連絡はない。

「波ちゃん、あんまりスマホ、見ないから……」

「それな……」

「一応、席の場所は伝えてあるから、もしかしたら入れ違ったかなっ……」

 混雑で通信回線が混み合っているのかもしれない――そう期待をして、もう一度、席に引き返してみたが、やはり波はいなかった。

 打ち上げ開始時刻が間も無くであることを、無機質な場内アナウンスが告げる。

 途方に暮れる僕たち。

「いいや、まさか……」


 打ち消した疑念。思考の外に追いやってもなお、浮かんでは、膨れ上がっていく。

 冗談にしては、品がなさすぎる。

 波は、スマホを見ないタイプではあるが、しかし、黙って遅刻するタイプではなかった。

 むしろ、時間には几帳面なくらいで、僕が予定をすっぽかした際に数百件もの着信を残したことは記憶に新しい。

 いまだにスクリーンショットは保存してある。


 やがて、夏の開幕を告げる花火が打ち上がり、場内に歓声が響いた。

 その時だった。三人のグループラインに、短いメッセージが届く。


『手賀大橋に来て欲しい』


 考えるよりも先に駆け出していた。

 僕の甚平も凪の浴衣も、走るには余りにも不向きだった。

 もどかしい。柏と我孫子をつなぐ大きな橋。手賀大橋。


 あの場所なら、真横から花火を眺められる。

 きっとこれはサプライズに違いない。

 僕たちに綺麗な景色を見せようと、直前まで黙っていたのだ。

 慣れない下駄のせいで指の間が痛んだが、そんな事はどうでもよかった。

「づっくん……先に、行って……追いかける、から……」

 苦しげに肩で息をする凪。

 僕は無言で、凪を背負った。

「きゃっ」

 と、一瞬だけ驚いたような声をあげたが、しかし、すぐに「ありがとう」と言った。

 それでいい。枷ではなく、共に前へと進む道標であろうと約束した僕たちは、謝罪よりも、感謝を伝えられるようになった。


 橋の真ん中に――波の姿が見えた。

「波だ……!」

「波ちゃん……!」


 僕らの声が、轟音にかき消される。

 橋の麓に差し掛かったときに凪が「もう大丈夫だよっ」と言ったので、そっと降ろしてあげる。

 二人並んで進んでいく。波のいる場所へ、歩んでいく。


 ひゅるる――……。

 どーん――……。


 不規則な夏の音色が、辺り一体を劈いた。

 波を目視できるところまで辿りつく。

「波」

「波ちゃんっ」

 僕たちの呼びかけに応じることなく、ただ打ち上がる花火を眺めていた。

 夏空のように透き通った水色の浴衣。

 白い帯が入道雲のようだった。

 今日はまだ『契約』を交わしていなかったから、体が既に消え始めている。

「おい、波……早くしないと」


 そうして触れようと伸ばした僕の手を、そっと牽制した。

 そこで、ようやくこちらを向いた波は、言った。


「今日で、終わりにしましょう」


 発せられた言葉――晴れやかに、透き通る表情。

「は……………?」

 僕と凪は、言葉の意味が理解できなかった。

 終わりという言葉とは相反する、希望と輝きに満ちた表情。

 あまりにもチグハグで、本当に聞き間違いかと思った。

「ん……? なんて言ったの? 波ちゃん……?」

 聞き間違いであると、自らに言い聞かせるように、笑顔で問い直す。


「終わりに、しましょう」


 夜空に咲く満開の花。

 それら一つひとつが瞬いては、ひとひら、夜の彼方へ散っていく。

「もう悔いはない」

 手紙を読み上げるように。


「出会って、築いて、恋をして――例え一瞬でも、愛し合うことができた」


 青春みたいに刹那的な輝きが、波の顔を照らした。


「あなたに恋をすること――それ以外に、私が明日を生きる道はない。

 だから、初めは……この感情を偽物だと思っていたの」


 滔々と淀みなく言葉が紡がれる。


「『これは恋じゃない』そうしなければ生きられないだけだから――そう自分に言い聞かせた。

 それでも、何百回、何千回と繰り返すうちに気がついた。

 これは恋なのだと。

 あなたが好き。

 どんな事があっても、好きになることをやめられなかった。

 どんな世界線でも――何度、この日々を繰り返しても。

 変わらないものがここにあった」


 小さく折り畳んだ手のひらを、そっと胸にあてた。

 心の声を聞くように。


「そして、同じように、あなたに恋をする少女と出会った。

 どんな世界線でも、健気に直向きに、たった一人の男の子を支える少女を見てきた」


 凪の静かな嗚咽が聞こえる。


「運命という言葉があるならば、きっと、この二人のためにあるのだと私は思った」


 視界の隅で、それはそれは美しい花が咲いている。

 しかし、僕にはもう、ぼやけて何も見えなかった。


「『契約』が過去を誓うものならば、《約束》は未来を誓うもの」


 水面に反射する光の粒が霞んで見える。

「私には、二人が眩しすぎた。《永遠》の二人に割って入れるほど、強くない」

 凪がそっと僕の袖口を掴んだ。


「平気なふうに見えるかもしれないけれど、案外、辛いのよ。

 二人には幸せになって欲しいけれど、このままでは、きっと私は醜い感情をぶつけてしまう。

 それが恐くて仕方がない。

 大切なものを、この手で壊してしまうことが」


 僕は凪の肩を抱く。溢れた涙を拭うことさえ忘れていた。


「ふたりの優しさに、私は救われた。感謝しきれないほど感謝している。

 はじめて八月の空を見られるかもしれないと思った。

 この心地よい関係を続けていくのも悪くないと、そう思った。

 けれど、そうじゃない。

 そうじゃないの。

 ……凪なら、分かるでしょう?」


「……波ちゃん……」


「私は、一番になりたいの。

 好きな人の一番でありたい。

 一番じゃないなら消えても構わないと、そう思えるくらい好きな人に心を焦がしているの。

 そして、だからこそせめて、美しくいられるうちにあなたの元を去りたい。

 勝手で我儘だけど、どうしてもこれだけは譲ることができなかった……ごめんなさい。

 何千回、何万回でも――この日々を繰り返して、必ずあなたが私を選ぶ世界線を見つけるわ」


 そこで堰を切ったように、抑えられていた感情が溢れ出した。

 僕も凪も、そして、波さえも。

 三人は駆け寄り、強く強く、抱き合った。

 僅かに生じる空間さえも惜しかった。

 波の体は着々と薄れ、存在が消失に向かっている。

 もう言葉を重ねることさえ許されないほど、その時は目前まで迫っていた。


「最後にお願い――……」

 泣き腫らした目で、波が言う。


「その瞬間まで、手を繋いでいて欲しい――……」


 僕たち三人は、手を繋いだ。

 真ん中に波を挟んで、右に凪、左に僕。

 花火大会はクライマックスに差し掛かっていた。


 間髪を容れずに打ちあがる花火に、感嘆する観客の声が漏れる。

「綺麗――……」

 波が満足気に呟いた。

 僕も凪も嗚咽が止まらない。

 伝えたい言葉や想いがあるはずなのに、涙がそれを阻む。溢れる感情が、言葉を塞ぐ。


「おかしいなあ……見えないよぉ……」


 凪がようやく絞り出した言葉だった。

 前が見えなかった。絞り出すことさえ叶わず、僕は、ただ泣くことしかできない。

 その手の感触を忘れないように、離さないように強く握る。


「ちゃんと見ないともったいないよ。こんなに綺麗なのに――……」


 薄れていく波の手の感触を取り戻そうと、何度も、何度も、何度も、強く、握り直す。


「ああ……やっぱり、大切な人と見る花火は綺麗だなあ――……」


 やがて、最後のひとひらが打ち上がった。


「二人とも、ありがとう。どうか、どうか、いつまでも――……」


 大きな花が、夜空に咲いた。

 豊四季波のように圧倒的で絶対的な大きさを伴ったその花は、やがて夜の闇へと消えていく。

 花の欠片は散り散りに、それぞれの場所へと舞い降りて行った。

「なぎ……、凪……、聞こえるか…………」

 震える声で凪を呼ぶ。

「づっくん……づっくん…………」

「怖くて……怖くて……そっちを見られない…………」

「うう……づっくん……」

 それでも、凪が涙を流しているのなら。

 僕には、その涙を止める義務がある。

 だから、だから――……。

 だから、僕は、勇気を振り絞って横を見る。



 そこには、もう、僕と凪とを遮るものは、何もなかった。



「ああああああああ……」

 ほんの少し前までそこにいたはずの波の姿が、跡形もなく消えていた。



 僕たちは、泣く。この寂しさを、忘れないように。

 僕たちは、叫ぶ。この声が、彼女に届くのではないかと期待しながら。

 もしかしたら、戻ってきてくれるのではないかと、淡い期待を持ちながら。

 僕たちは、抱き合った。

 いつだって、僕たちを照らし、導いてくれた存在を――。

 いつだって、二人の真ん中にいた彼女の欠片を、拾い集めるように。

 名残を、欠片を、一欠片としてこぼさないように。


 二人の涙は、とめどなく、いつまでも流れ続けた。

 二人の声は、やがてその喉が枯れ果ててもなお、夜の水面に寂しく響き続けた。


 されど、祭りのあとの喧騒が、僕たちの慟哭をかき消した。

 なぜか、揺れる水面も浮かぶ満月も、これまでと変わらず、そこにある。

 まるで、大切な人を失うことなど、何でもないことだと言いたげに。

 それは、運命が立ち止まることなど許さない――そう突きつけるように。


 だけど、僕たちは、運命に愛された二人。

 だから、僕たちは、もう一度、立ち上がる。

 だって、彼女が教えてくれたから。

 やがて、涙も声も枯れた果てたとき。

 きっと、再び歩き出すだろう。

 もっと、愛を知るために。



 《永遠》に、愛し合うために。

 


 だから、この日、この時、この場所を。

 決して、忘れることは、ないだろう。

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