第35話 撤退

 眼を血走らせた三条友昭の両手が金縛りにあった雪城泰子ののどをギリギリと締めていた。


 死にたくない、三条の馬鹿野郎。……薄らぐ意識の中で、泰子はそればかり言っていた。


 ドゴン!……地面が揺れて風が舞い上がっても、泰子はそれに気づかなかった。ただ、首を絞める友昭の力が弱まったのは感じた。反射的に彼を払いのけた。


 ゴロゴロ、と彼が転がった。


 動けた。……友昭を払いのけることはできたが、立ち上がる余力はなかった。重石を失ったのどを風が吹く。ヒュー、ヒューと鳴った。


 周囲を漂っていた赤い霧状のものが消えていた。争いあっていた警察官たちは理性を、いや、正常心を取り戻して呆然とした。怪我をした者は座り込んだ。そして痛みを感じ、恐怖を覚えた。泣きだす者がいれば、悲鳴を上げる者もいた。


 地べたに大の字になって呼吸を整えた泰子は、樹木の僅かな隙間から上空のひとところに浮かんでいる物体を認めた。ヘリコプターでも気球でもドローンでもない。巨大な鳥に見えるそれには4本の足があった。鳥にしては翼が小さい。


「キマイラ?」


 慌ててビデオカメラのレンズをそれに向けたが、バッテリーの切れたモニターは真っ黒だった。


「三条……」


 自分を殺そうとした同僚のカメラをあてにした。


「ん?」


 彼は泰子を絞め殺そうとしたことさえ忘れているようだった。


「あれ、撮れ」


 上空を指した。


 彼が慌ててビデオカメラを捜した。それを見つけたころには、上空の物体はどこかに消えていた。


 泰子は痛みに耐え、よろよろと立ち上がった。脇腹に眼をやり、思ったより出血が多いのにショックを覚えた。が、クヨクヨしていられる場合ではなかった。周囲を見回して状況を確認した。重傷者が多く、捜索の継続は不可能だと判断した。


「課長、救急車を!」


 無線で呼んだが、それは沈黙していた。ビデオカメラ同様、バッテリーが切れていた。友昭の無線機も同じだった。


「そこの巡査!」


 泰子は放心状態の署員の中から、怪我をしていない数人を集めた。彼らの手にした鎌や枝切鋏には同僚の血がついていた。凶行に及んだ者たちだとわかるが、怪我人を救助するのが先だ。彼らに成長した植物を刈り取ってルートを確保し、救助を要請するように命じた。彼らの眼には生気が戻り、藪に立ち向かった。


 泰子と友昭は怪我人の手当と現場保存にあたった。そうして、先に森に入った若者たちの遺体をいくつか見つけた。外傷がある者もいれば、ない者もいた。いずれにしても、森の中が尋常な世界でないことは明らかだった。


「急いでここから脱出しないと……」


 泰子の声に友昭がうなずいた。


 10分ほどで交通整理に当たっていた交通課の署員が駆け付け、その5分後には救急隊員が駆け付けた。


 脇腹に傷を負った泰子は病院に運ばれた。鋭い何ものかでつけられた傷は、内臓には達してなかった。傷を縫い合わせる手術を受け、数日の入院と数日の自宅療養を命じられた。


 夕方、課長が見舞いに来た。


「大変な事態になったな……」


 彼は、捜索にあたった署員22名の内1名が死亡、重軽傷者が14名だと話した。他に、探検に入った5名の遺体を収容したが、道路に残された自転車とバイクの数を考えれば、まだまだ出てくるだろうと言った。


「課長、捜索は続けなければなりませんが、あの森は危険です。中に入ると精神に異常をきたすようです。警察官がこんなことを言うのはどうかと思いますが……」


「いや。雪城の言う通りだ。それは状況が説明している。恐怖やストレスのためか、三条など髪が真っ白になった。体重が10キロも落ちた署員もいる。まあ、90キロが80キロになっただけだが……」そこで彼は笑みを浮かべた。「……影響を受けたのは人間だけではない。通信機やビデオカメラ、署員が所持していたスマホまで、すべてバッテリーが空になっていた。ビデオで記録された映像はわずかだった」


「あれのせいでしょうか?」


 泰子は森の上に浮かんでいた物体を思い浮かべた。


「あれ?」


「空を飛んでいたキマイラです」


「ユーマというやつか……」


「ユーマ?」


UnidentifiedMysterious Animal……、未確認生物の略らしい」


 課長が、苦々しいというよりおびえに近い表情を作った。


「そうですか。……課長もご覧になったのですか?」


「あの場にいた者、全員が見たよ。大型トラックほどの大きさだ。見逃した者はないだろう。世界中で話題になっているよ。古生物学者が恐竜の生き残りだと言っているが、同種の化石はないらしい。あんなものが現れたおかげで、救助も遅れた。森の中から救援要請があるまで、我々もユーマに注意を奪われて動けなかった」


「あれが、ずっと森の中にいたと思いますか?」


「それは、雪城君の方がわかるのではないかね」


「森の奥に、あの巨体が隠れる空間はないと思います」


「なるほど。ドローンによる調査でもそうだ。で、自衛隊が出動して、今、森の伐採ばっさいをやっている」


「自衛隊……、武器を持った自衛隊が森の中で錯乱状態に陥ったら……」


 脇腹の傷がヒリヒリ痛んだ。


「心配するな。周囲から伐採を始め、目視できる範囲だけで作業を進めるそうだ。武器を所持した者は敷地の外で援護する形だ。異常行動を起こす者がいたら、敷地から引きずり出すことになっている。念のため、敷地から半径200メートルの住人は避難させてもいる……」


 そこで課長は声を潜めた。


「……森の中で何があったのか、署長から箝口令かんこうれいが出ている。警官同士で殺し合ったなど恥ずかしくて話にならん、ということだ。捜索隊員の負傷はユーマが原因だと国民が考えている。それで上は、その線で行くつもりなのだろう。本庁はもとより、警察庁も同じだ。事実を報告しても聞く耳を持たない。幸いなことにマスコミは、ユーマの正体が何かということと、森の伐採は国民の財産権の侵害だと侃侃諤諤かんかんがくがく……、えらい騒ぎだ。いずれにしても、森の方は、明日の昼までには結果がわかるだろう」


 課長は自分の責任が問われないことに安堵しながら、自衛隊が脚光を浴びていることが面白くなさそうだった。彼は「これから亡くなった隊員の通夜に行く」と告げて席を立った。


 病室のテレビをつけると、サーチライトで照らされた樹木の伐採風景が映っていた。画面の隅にスタジオが映っていて、ゲストたちがユーマの正体を議論している。森の上空を飛び去ったそれの目撃情報は埼玉県で途絶えたらしい。まるで雲をかき消すように姿を消したそうだ。番組を最後まで見ても、ユーマがどんな生き物なのか、答えは出なかった。


 自衛隊の活躍で翌日には森が消えうせた。樹木を伐採した結果、新たに17人の遺体が発見された。その中の二つは天乃雅と岩井月子のもので、


 敷地の中央に直径3メートルほどの沼があった。その中に首があるのではないか、と丸1日捜索されたが、それは発見されなかった。


 首の捜索とユーマが生息していた痕跡を探しているうちに、再び茨が成長を始めた。そこが再び森になる可能性が懸念され、都民から何らかの対策をすべきだという声が噴出した。政府は再び超法規的措置を決断。沼は埋め立てられ、敷地全体にコンクリートが張られた。


 発見された遺体は、雅と月子を含め多くが死因不明だった。が、捜索隊員の死傷理由をユーマに求めた以上、彼らの死因もユーマとするのが合理的だった。


 遺体の身元は所持品や家族が提出した捜索願で判明した。ただひとつ、首のない遺体は所持品がなく、捜索願もなかった。とはいえ、その遺体には薬指の一部が欠損しているという特徴があって、近くに住む津上隆斗という大学生だと判明した。


 隆斗が住んでいたアパートの捜索は、身元を確認するための形式的なものだった。ところが室内から、消えた建物に住んでいた山上比呂彦と家族の、特に娘、咲耶の写真が大量に発見されて事情が変わった。遺体が身元のわかる物を所持していなかったことからも、隆斗が咲耶のストーカーと推定された。


 彼が死亡し、咲耶も行方不明の今、ストーカー事案として事件化されることはなかったが、室内にあった卵サイズの置物が新たな疑念を生じさせた。それは虎に人間らしき者が乗ったもので純金製だった。6畳一間に住む大学生には不釣り合いな持ち物だ。


 その置物に該当する盗難届はなかった。そうして持ち上がったのが、置物が山上家のものであり、比呂彦が盗難届を出せない状況にある、という仮説だった。


§


 退院した泰子が出勤したのは、手術を受けた1週間後だった。傷は稀に痛む程度で、日常生活に支障はなかった。課長は席を外していて、友昭が支払申請書を作成していた。


「よお。元気そうだな。雪城がいないので、俺が事務代行だ。勘弁してほしいよ」


 顔を合わせた友昭があっけらかんとしているので驚き、腹が立った。あの森の影響下で精神に異常をきたしていたとはいえ、彼が首を絞めたのだ。あと少しで自分は窒息死するところだった。そのことを誰にも話さなかったことを少し後悔した。せめて課長に話しておけば、友昭も腰を低くしただろうに。


「何も覚えてないの?」


「なんのことだ?」


 今更、殺されかけたと恨み言をぶつけるのは性に合わない。


「まあ、いいわ。髪が真っ白になったと聞いていたけど?」


 彼の髪は、あの事件以前より黒々としていた。


「染めたんだよ。そんなことより大変なことになっているぞ……」


 彼が苦笑し、事件のその後の状況を得意げに説明しはじめた。真っ先に話したのは、月子の遺体があの森で見つかったことだった。


 どうしてあそこに?……泰子は首をかしげたが、友昭の話の腰を折るのは避けた。


「死体が出たので捜査は刑事部の手に移っているよ。捜査の焦点は、津上隆斗と山上比呂彦の関係と山上の家族の居所になっている」


「消えた住宅の行先も追いかけているの?」


「それはユーマの仕業ということになっているな。純金の置物が津上の家にあるということは、事件は家が消える前に起きたということだ。山上一家は誘拐されたのか、殺害されたのか、あるいは津上を殺して逃亡したのか、……どっちだと思う?」


 彼が殺そうとした自分に向かって、クイズでも出すような陽気な口調で話すのに腹が立った。


「誘拐されて殺された……。かしら……。ただ、犯人は津上隆斗じゃないと思うわ。彼があそこで死んでいたということは、彼は、そこに山上咲耶がいると考えていたと思うのよ。家がなくなった後、彼女がどうなったのか心配であそこに行ったんじゃないかしら?……だとしたら、彼は殺していない」


「首を持って行かれるような奴だぞ」


「それに関しては情報が少なすぎるわね」


 泰子は腕を組んで首を傾げた。


 2人の会話に、やって来た課長が割り込んでくる。


「雪城、退院おめでとう。もう、大丈夫なのか?」


「長い間、お休みをいただきまして……」


 泰子は立って頭を下げた。


「止めてくれ。公務災害だ。頭を下げられては、こっちが困る」


「はい。今日は、肩慣らし程度ということで……」


「そうだな、それがいい。……にしても、何もわからない者同士で意味のない議論をしているな。津上と山上に共通点があるのを知っているか?」


「さあ?」


 課長を恨めしげに見た。久しぶりに出勤したのだ。情報がないのは当たり前ではないか。ずっと仕事をしていた友昭と一緒にしないでほしい。……友昭に目をやると、彼も首をかしげていた。


「津上の住民票には、転出元がなかったらしい。突然、そこにわいてきた人物だということだ」


「わいてきた……、無戸籍者とか、そんなものですか?」


「さすが、雪城は勘がいいな。戸籍は移民向けに新規に作られたものだったらしい」


「移民ですか……。裁判所に申請して作られた戸籍ということですね」


「共通点と言うからには、山上もそうだったということですか?」


 友昭が首をひねった。


「ああ、山上比呂彦の戸籍も同じだ。時期は20年以上も違うそうだが」


「もしかすると、2人は同じ国の出身ですか?」


「刑事部の連中がそれを調べ始めた途端、政府からストップがかかったそうだ。昨夜のことだ」


 課長は深刻そうに、同時に少し嬉しそうに言った。


「捜査中止ですか?」


 泰子の声が裏返った。友昭も目を丸くしていた。


「ああ、今、聞いてきたところだ。すべて中止だ。津上隆斗の捜査も、山上一家の失踪も……。すべてユーマがやったことにしてお蔵入りだ」


「そうなのですか? 岩井月子と天乃雅の件は、どう見ても誘拐殺人事件なのに……。遺体は出てきても、死因さえはっきりしない。山上一家に至っては、遺体さえ見つかっていないじゃないですか!」


「私に絡むな。山上一家は、ユーマによって建物と一緒に吹き飛ばされた。生きているはずがないということらしい。津上の戸籍も山上のそれも、背景に政治的なものがありそうだ。だからこそ、議員の岩井も口をつぐんだのだろう」


「長いものには巻かれろということですね」


「三条も雪城も、物分かりが良くなったな。上司としては助かるぞ」


 課長が満足げに言った。


「全てをユーマのせいにして終わらせる。こんなことでいいのでしょうか?」


「いいのさ。ユーマは古生物学者が捜してくれるだろう。そうしたら、何かが始まるかもしれない」


 課長が泰子の肩をトンとたたいた。


 泰子は、山上咲耶も岩井月子も、天乃雅の名前も忘れることにした。そうして苦いものを覚えながら、繁華街で性を売る少女や、人気のない高架橋の下で違法ドラッグを使う青少年を捜す日々に戻った。

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