第11話 穴

 パッと空が晴れた。森から出たのかと思ったが、そうではなかった。目の前には水の流れがあり、その先に黒い森が続いている。


 流れの上流、北側に切り立った崖があり、上空から落ちる糸のような水流が5本、それが一体の滝を構成していた。空中で分散する水滴は虹色に輝いていて、〝黄泉〟という言葉が持つイメージとは遠く離れている。青い滝壺は直径10メートルほどで、その上空、直径20メートルほどに渡って樹木の枝が無く、強い夏の日差しがそこから降り注いでいた。


 行列は清流に入り、滝壺に向かってジャブジャブと歩く。水底は白い小石と砂で、川魚の影が映っていた。流れは徐々に深さを増し、先頭を歩く琉山の腰ほどの深さに達した。それでも彼女は大幣を掲げながらどんどん進んだ。滝の真下をくぐる時には、水は彼女の胸に達していた。そこに入った者でなければ、琉山が溺れるのでは、と案じただろう。


「禊だ。黄泉の穴に外のけがれを持ち込まないようにするんだ」


 後ろで比古一が言った。葬儀が真夏なのは良かったわね、と言った富貴の顔を思い出した。これが真冬なら、心臓麻痺を起こしそうだ。


 黄泉の滝で禊をした後、黄泉の国というところに行くらしい。行列が止まることはなかった。


 目の前で滝に打たれた首桶が揺れていた。咲耶は滝の下に入る。……トトトト、と脳天を水が打った。水量は少なく、痛むようなことはなかった。胸の中で厳粛な思いが増した。


 滝を過ぎると水深が急に浅くなる。列は喘ぐようにして水から上がると足を止めた。そこに、濡れた者を出迎えるように火が焚かれていた。先に来ていた天具たちが用意万端、段取りを整えているらしい。


 滝を透過した光が乱反射し、立ち上る煙に色を付けている。その光の先に巨大な洞窟があった。ぽっかりと崖にあいた黒い穴の上部には太い注連縄が張られている。


「黄泉の穴だ」


 比古一が言った。


「オー、魔母衣の地を治めるアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミよ……」


 炎の前で琉山が祝詞をあげる。それは濡れた着物を乾かすためでもあるようで、人々は炎の周囲に輪を作り、思い思いに白喪服を乾かした。


 長い祝詞を終えると、「並びませい」と琉山が命じて洞窟の内部に進んだ。


 そこは湿度が高く、シダやコケの臭いが満ちている。咲耶は驚いた。洞窟は自然が造ったものだったが、その暗闇の中に、点々とともる灯が道を作っている。よく見れば教科書で見た円筒埴輪のようなものの中で油皿に火が灯っていた。


 ――ザッザツザッ……、ひとりひとりの足音はとても小さかったが、葬列のそれは岩壁に反響し、まるで重武装の軍団が行進しているようだった。


 時折どこからともなく赤みを帯びた霧のような物体が現れて葬列にまとわりつく。人々は守り刀でそれを打ち払った。


 洞窟の奥に行くにしたがって植物の青くさい臭いがなくなり、動物の息遣いのような生ぐさい臭いが強くなる。分かれ道がいくつかあったが、光の道に沿って進むとやがてホールのような大空間に出た。洞窟はそこで行き止まりだった。


 宙を漂う霧状の物が増えた。咲耶は、全身を走るざわざわしたもので緊張した。自宅のベッドで眠る前に感じるものに似ていた。


 そこはあまりにも広く、円筒埴輪の明かりは壁まで届かなかった。ただ、大空間の中央に積まれた薪が浮かんで見えた。咲耶は小学生のときに参加したキャンプファイヤーを思い出した。


 琉山が積まれた薪の前に立つと、魔法のようにパッと火が着いた。それはあっという間に巨大な火柱になって大空間を照らした。


 ――ヒッ……、咲耶の息が詰まった。その空間を作る4方向の壁が数えきれない髑髏どくろで出来ていたからだ。


 髑髏の空洞の黒い眼が、葬儀の列をじっと見つめている。咲耶は確信した。夜中に自分の部屋に現れる眼や耳が、それらの髑髏のものに違いないと……。


 新神が火柱に向かって麻の実を投げ入れる。パッと火の星が昇って消えた。代わりに甘い香りが残った。


「桶を……」


 琉山の指示で、炎の前に首桶が降ろされる。比古一に背中を押され、咲耶が首桶の前に立った。なすべきことは見当がついた。比古造の頭部を壁の髑髏の列に加えるのだろう。


 咲耶をはさむように、右隣にヒムカが、左隣にアヤメが立った。再び新神が麻の実を火に投げ入れ、咲耶の胸が甘い香りで満たされた。


 仕方がない。……諦めて桶から比古造の頭を取り出した。


「青龍の壁のあれへ」


 琉山の手にした大幣が右側の壁の一点を指した。四神は東西南北を示しているのに違いない。そこに眼をやると、頭を置くスペースが空いている。


 ヒムカとアヤメにはさまれ、咲耶は琉山が指した場所に向かった。自分の長い影が頭を納める場所まで伸びている。そこが青龍の壁ということは東に違いない。


 足元がザクザク鳴るのでよく見ると、そこにあるのは砂や石ではなく、様々な形の骨だった。頭蓋骨以外の骨は地面に捨てられているのだろう。


 ここは、巨大な墓なのだ。そう思い至った時、足元から赤みを帯びた光が立ちのぼり、咲耶の足が止まった。アヤメが一歩前で足を止め、振り返った。


 光は比古造の頭の周りをまとわりつくように飛んだかと思うと、シャボン玉が弾けるようにして消えた。


 ――炎蛇吏えんじゃりだ……、頭の中で比古造の声がした。


「案ずるな。先祖の魂がここを守っておる」


 琉山の声が洞窟に反響した。


 咲耶はうなずくと歩き始め、指定された場所まで進んで足を止めた。その間も、いくつかの赤い影が生まれては消えた。


 空いた棚は咲耶の膝ほどの位置だった。膝をついて比古造の頭をそこに置いた。亡くなった順番に並んでいるのだろう。隣の頭にはまだ髪や皮膚、肉といったものが付着していて、目玉があった空洞を足の多い虫が出入りしていた。


 膝をついた場所には頭蓋骨の破片が散乱しているから、古いものは棚から落ちて砕けるのだろう。古代から何百何千、何万といった頭蓋骨が棚に祀られてきたのに違いない。


「お父様、さようなら」


 頭の上でアヤメの声がした。ヒムカも何かを話しているが、内容は聞き取れなかった。


 中央の炎の柱が消えてくすぶる熾火おきびに代わっていた。そこで繰り返される赤と黒の点滅は、魂の終焉を刻む時計のようだ。


 新神が熾火に麻の実を投げ入れる。パッと火の星がはじけて消えた。


「億万の御霊みたまよ。冥界の門を永遠に封じ、我が魔母衣村に平和と安寧をもたらしたまえ。億千、億万の地の民よ、己のいるべきところを静に守りたまえ。……オー……」


 琉山が大幣を頭上に抱えて唱えると、そこにいる者たちも次々に両手を合わせて「オー」と声を上げ始めた。比古一までがそうするので、咲耶も手を合わせて「オー」と声を発した。そうしていると、いつのまにか、自分の声さえも自分のものでないような感覚に陥る。自分の意思で発しているはずの声が、どんどん咲耶の身体や心を犯し、自由な意思を縛っていった。


「オー……」音は神に至る荘厳な音楽だ。それを甘い香りが強化する。人々は音で世界とひとつになった満足を覚える。世界の一部になったのではなく、世界を支配した感覚だ。


 神を呼ぶ声は、洞窟を揺らした。壁面の髑髏の中で赤や青の発光がある。そこに潜んでいた炎邪虜や艶邪虜、燕邪吏などが浄化、消滅しているのだ。


 人々はトランス状態にあった。脳が痺れ理性が封じられ、官能にも近い熱い酔いが全身を支配する。自然、身体が前後左右に揺れた。今にも踊りだしそうだ。それは咲耶も同じだった。一瞬、田尻先生に犯された時の甘辛い感覚が脳をよぎったが、それで状況が変わることはなかった。


「オー……」


 神を求める声は終わることがない。その中で、琉山だけがぶつぶつと祝詞を上げている。


 壁に並んだ髑髏のふたつの黒い穴の中に眼球が生まれ、欠けた歯の並ぶ口には舌と唇が現れた。彼らも瞳を輝かせ、唇を震わせて「オー」と祈りをあげた。


 みんな、何を祈っているのだろう?……咲耶は神が与える快楽に酔いながら「オー」と言い続けた。


 頭が痺れ、身体の中心が熱く燃える。脳裏に比古一に抱かれるイメージが浮かぶ。その様子はあの日の田尻先生と重なった。


 いつのまにか彼は体内にいた。そうして感じる胎動はセックスではない。今から彼を産む、そんな感覚だった。

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