泣けぬ少女、夏を撮れ


 どんなに辛くても泣かなかった。泣かないようにしていたら、癖がなくなって泣けなくなった。


 どんなに感動的な手紙を読んでも、泣ける映画を見ても。胸に突き上げてくるものはあるのに、泣く癖がないから泣けない。


 ——涙も、わたしを見放したみたい。



 昔から、手放す物が多かった。


 奇跡への渇望かつぼう。未来への希望。才能への羨望せんぼう。底なしの愛。普通の生活。激しく体を揺さぶる感情。


 与えられた物もないのになくす物が山のように積もって、わたしの爪から溢流いつりゅうした理想の鱗片だけがやけにキラキラ輝いた。


 星のように輝くそれを見ながら、灰色に沈んだ町を歩いた。


 家族も友人も、真摯しんしな絆はどれもわたしを見放して、唯一世界だけがわたしを見放してくれなかった。


 いち早く見放して欲しかった世界だけは、まるでわたしをきらっているように希望も絶望も奪ったまま、とこしえに続く道を歩かせた。


 わたしは世界から弾かれた部外者アウトサイダーであって、いつか弾けて飛べると諭す大人たちが心底嫌いだった。


 翼もばねもないのに、どうして飛びあがれと言うんだ。


 わたしはどうしたって人生の「夏」は訪れない。花の散った春の先、今は灰まみれに「夏」を探しているだけだ。



 そんな、世界から押し出されたわたしは特段部活に熱心なわけでもなかったから、それとなく行ける高校に入った。


 高校では写真部に入った。父が買ってくれたカメラがあったから。他にやりたいこともなかったから。


 案外緩い部活で、顧問も写真には興味がない人だったから、大会が近くなった時だけ写真を撮ることにした。


 大会が近くなって、部活の時間内にみんなで街を回って写真を撮った。


 大会のテーマは「夏」。


 他の部員はみな、慣れ親しんだ風景や野道に咲く花を撮っている。意外にも本気で撮っている人が多かった。


 本気というとニュアンスが違うけれど、みな、熱情ねつじょうをレンズに映していた。


 燃えたぎるようなそのほむらが、格好いいなと思った。


 ソロの写真大会で賞を取ったこともあって、一番上手と言われていた先輩の写真をちょっとだけ見せてもらった。


 ふとした水溜みずたまり。反射した空の中に、ぼんやりと制服のスカートの端が映る。飾ることのない、雨の上がった日。


 それは確かに晴れを「夏」を切り取っていた。


 ありきたりな表現だけど、本物の写真家が撮ったみたいな、独特な感性のある、綺麗な写真だった。


 先輩は語った。「もし良い物を撮りたいって思うなら、自分が綺麗だと思う物を撮ればいい」。


 手にポラロイドの写真を持って笑った先輩の写真。——それを見てしまったら、普遍的ふへんてきな物を撮る気になれなかった。


 世界を貪るように様々な場所を撮った。花とか空とか、風景とか。


 でも、どんなにフィルムを現像しても、わたしから見たら世界なんてちっとも綺麗じゃなかった。



 大会直前、体育祭があった。


 わたしが提出した写真が一枚もないことを確認しに来た顧問に相談して、体育祭の日に生徒を撮って回ることにした。


 レンズを向けたら、ピースを向けてくる先輩。仲良しの女子3人組。白い肌が夏に映える女子生徒。煌く汗を拭って走る陸上部。旗を振る応援団員。ゼッケンを着た報道部。


 面前めんぜんに広がった「夏」に何度もシャッターを切った。


 理由は分からないけれど、今撮らなければだめだ、という焦燥感に駆られた。


 限界を迎える腕の悲鳴を無視して、運動もしていないのに汗だくになってカメラを構えた。


 被写体ひしゃたいの纏う青春が、泡沫うたかたのようにおぼろげな心を抱えた思春期の生徒が、眼下の大勝負に懸命に挑むその姿が美しかった。


 無我夢中でシャッターを切る。どの角度から撮れば美しく見えるかなんて考える暇もなかった。



 昼休憩になり、午後からわたしも出場する演目があったためにカメラを初めて手から離した。


 空腹になっていたことに気がつき、学級クラスではある程度の関係を築いている同級生クラスメイトと共にレジャーシートに座った。


 写真を撮りたくてたまらなくて、早々に弁当を平らげ、手を振ってくれる女子たちに手を振り返してカメラを持って校庭を徘徊した。


 大海原を航海する一艘いっそうの舟のような気分だった。


 誰にでもレンズを向けた。


 今まで隠していた情動じょうどうに突き動かされ、人生の惰眠だみんを破るみたいに。


 夕方まで撮り続けた。時間が許す限り、撮り続けた。撮った枚数は数千にもなって、体を巡る血脈けつみゃくの温度に自分自身が一番驚いていた。


 へとへとになった体に苦笑しながら電車を乗り継いで帰路きろについた。写真を撮るだけでこんなに疲労するとは。


 急ぐ必要はないけれど、折角ならばと町を練り歩く。


 目に入った物に、心が少しでもときめいた物に、レンズを向けた。


 思えば住宅地から外れて、農業の営まれている地域に足を向けていた。


 田圃たんぼに映る、地球をいだく瑠璃色の空と、畦道あぜみちを歩く小学生の姿。


 考える間もなくレンズを向けた。


 パシャ、とシャッター音が鳴って、色とりどりの傘と未来を紡ぐ子どもと空がフィルムを通して——わたしの目に、焼き付いた。


 はじめて、思った。「綺麗だ」。


 はじめての「夏」を、永久不滅のフィルムに閉じ込めた。




 体育祭の日に撮った何千枚の写真から、先輩と一緒に何枚かをピックアップして、それを顧問に提出した。


 一斉に歓喜に湧き上がる優勝したクラス。


 必死に同級生クラスメイトを激励する男子生徒の横顔。


 ホースから出る水を浴びる生徒。


 髪を乱して踊るチアダンスのリーダー。


 そして——はじめての夏。色とりどりの傘を差した小学生の姿。




 優勝したのは当たり前に先輩だった。素人目から見ても、どうしたって美しい「夏」だった。


 でも、いいんだ。


 わたしは、人生で絶対に手放さない物を見つけたから。


 このカメラ。そして、はじめて見つけた夏の日。


 もう二度と、わたしの心を掴んで離さない「夏」とそれを焼き付けたカメラだけは、わたしから離れないだろうから。


 カメラを通して見る世界だけは「綺麗だ」と思えるから。



 泣けないわたし、夏を撮れ。人生の夏を、ようやく訪れてくれた春の先を。


       了

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