火遊び



 男女の間に友情はない。


 誰かが言ったこの言葉を、ふとした瞬間に思いだすことがある。


 もしかしたら、若いころのわたしはこの言葉を聞いた途端に、速攻否定していたのかもしれない。


 でも、今はできない。だって、その通りだから。わたしもそうだったから。



「あぁあ、だりぃ……」


 隣でだらしなくあぐらをかいて、品位のかけらもなく酒を煽る彼を横目に見て、わたしも負けないと酒を煽る。


 彼とは、中学からの関係だ。中学、高校、大学といつでも彼と同じところに通った。


 立派な社会人になった今でも、暇を見つけては遊びにいくくらいの大親友。このくらいになるともう異常者みたいだけど。


 思春期に親しくなった彼とは、まるで漫画みたいだねーと言われることも多いけれど——お互いの家を行き来したり、酒が強かったわたしたちだけで飲み直すときとかによく宅飲みしてた仲。


 珍しい関係だというのは知っていた。中学のころから言われつづけた。


 『あの二人だけは本当の友情だ』と。


 今思えば、確かにそうなんだと思う。お互いに、お互いの恋人の愚痴言ったり、ダブルデートとか楽しんじゃった仲だから。


 だからこそ、なんでも、いわば家族にでさえも言えないことをベラベラと、心おきなく話せる仲だった。


 親友、という言葉を違和感もなく受け入れたのは、やはりまぎれもない彼だったから。


 わたしにとって、彼は特段仲がいい大親友! みたいな立ち位置だったから。



 彼はまだまだ飲み足りないようで、ぐびーっと缶を傾ける。


 わたしは明日用があるから、今日が花金だろうが祝い酒だろうがあんまりハメを外すことはできない。


 でも、わたしも同じように酒を煽る。


 所詮やけ酒とはこういうことを言うんだと思う。


 やけ酒するのは褒められたことではないことくらい分かっているけれど、でも、今夜は許してほしい。


 こうして胸の痛みを感じることなく、ハメを外せるのも、きっと最後になるんだろうから。


「最後の晩酌だな、これが」

「独身前、でしょーが。なに黄昏たこと言ってんの」


 わたしがツッコむと、そうだなーと言いながら、彼が気の抜けたようにぼやぁんと笑う。


『結婚するんだわ。おれ』


 危機感をもっていなかったわたしの胸を、無慈悲に突いたその言葉を聞いたのは、今から数か月も前のことだった。


『え、は、え! 結婚? あんたが?』

『んだよー、そんなに驚くか?』


 そう言いながら、彼は視線をわたしから外す。


 その横顔が、あまりにも大人びすぎていて、わたしが知っていたころと違って、なんだか無性に寂しいな、なんて思った。


『えぇ、で、相手は誰なの?』


 驚いた表情を瞬時に消してそう尋ねると、彼はわたしの切り替えの早さに苦笑いしながら答えた。


『社長令嬢。金持ちさまさまってやつ』

『うっわー。出た出た、樹の金持ち自慢。はいはい、どうせわたしは庶民ですよーだ』


 ずきんずきんと激しく痛む胸に気づかないふりをしながら、わたしはそう言って笑った。


 こうやって、繕って笑うのが上手くなっただけ、わたしは大人になったんだなあ、と思った。


 やっぱり、大人になるということは痛みを隠せるということなのかもしれない。



 隣でまだまだ飲み足りないとでも言うように缶を傾ける彼――樹と、わたしとの間に友情があると言ったのは誰だろう。


 わたしと、樹と、どちらもなんとも思っていないとでも、思っているのだろうか。


 なんとも思っていない男を家に招くとでも思っているのだろうか。


 苦しい思いを、胸の内から張り裂けてしまいそうなほどの思いを、していないとでも思っているのだろうか。



 男女の間に友情はない。


 もっともな意見だと思う。現にわたしは、こうして叶わない恋をしてるんだから。



 次期社長として育てられた人が、お偉いさんの娘と結婚する、だなんてドラマの中だけだと思われているけれど、樹曰くそんなに珍しいことじゃないみたい。


 ……どうせなら、珍しい方がよかった。


 それなら、わたしには到底太刀打ちできない、珍しいんだからわたしにそのヘイトが向いたのはしょうがない、運命なんだ、って言い訳がつけるのに。


 鈍感で気が遣えない樹は、わたしにそんなことも、許してくれない。


「……佳奈かな? どうした、考え事かよ? 似合わねえ」

「え? あぁ、ごめんごめん。ちょっとね。……ってなんだよ似合わないって!」


 けらけらと笑う彼につられて笑う。


 ああ、よかった。不自然じゃなく笑えている。大人になることは、痛みを隠せること。心で言葉が響く。


 樹の結婚式は、段々と近づいてくる。抗っても、嫌だと泣き叫んでも。


 怖気づいて彼に好きとさえ言えないわたしを嘲笑うように。色濃く、そして虚しくも。


 カチカチ、と時計の針が鳴るたびに段々とその日が目前に迫ってくる。


 驚くことに、あんなに遠い先の未来のことのように思えた樹の結婚式は明日だ。


 皮肉だけれど、わたしの手元にはもれなく招待状があって、わたしは叶わなかった長年の片思いの相手の結婚式に出ることになっている。


「……アンタも旦那になるのね」


 案外、わたしらしくなく、静かな声がでた。


「……そう考えると、時の流れって早いな。意外に」

「昔はもっとヘタレだったのに。あ、樹。あの高二の夏休みのこと、覚えてる?」


 ソファに座り直しながら言うと、彼も「覚えてるよ」と言って笑った。


 スリルを求めていたわたしたちは、親に内緒で花火を買って、数人で花火をした。そのあとに、火が森に燃え移ってそこだけ焼けてしまったのだけれど。


 今となっては、すごくやんちゃな青年時代だったなぁ、なんてちょっと懐かしく思うのだけれど。


「そのときにアイツが……」

「あぁ! 確かあれって高田だったよね」

「そうそう! んで……」


 わたしたちは昔話に花を咲かせた。


 明日を忘れるように。過去の、色褪せない、美しかったという記憶だけ残して散っていった花火のような昔話に。


 今思えば、あの頃が一番楽しかった。なにも知らず、無垢で、ただただ彼のことを好きだったあの頃が。


 一番綺麗で、爽やかで、美しかった。


 でも今は違う。


 わたしはきっと、彼のことを隣に止めておくことは出来ない。


 わたしは彼にとって、ただのなのだから。


「……そろそろ寝る? 明日結婚式でしょ」

「あぁ、そうだな……」


 そう言いながら、彼は立とうとしない。


 わたしは知らないふりをして、テーブルの上の、残骸を片付けはじめた。あぁ、こんなに散らかってる。掃除大変だわ。


「佳奈」


 彼の声が、いつもと違った。


「んー?」


 あえて知らないふりをした。


「好きだったよ、ずっと」


 あけすけとした口調だった。軽すぎて、それが告白だったと気づくのに数秒を要したくらいには。


 そしてまた、わたしも軽く返した。


「わたしも好きだったよ、ずっと」


 友情はない。確かにそうだ。


 でもきっと、それの先にはきっと、友情は存在するんだと、わたしは思うことにする。


 そして、その友情という道をわたしたちはこれから、歩むつもりだ。



 夜のうちに眠りについた。狭いベッドと、小さいせんべい布団で。おやすみ、とお互いに声をかけて、電気を消した。


 彼はなにもしてこなかった。ただ今は、それがひどく安心した。


 翌朝になって、わたしたちはなにもなかったように支度をした。


 なにかがあったわけでもないけれど、いつもは心地よく感じるはずの沈黙がやけに耳たぶを打った。


 新婦さんは、結婚式の前夜に、他の女のところに自分の旦那が泊まっていたと分かったら、どんな気持ちになるんだろう。


 わたしだったら、絶対に無理だって全身骨折になるまで殴るかもしれないけどなあ。


「佳奈、そろそろ行かないと」

「え、マジ? もうそんな時間?」


 玄関で靴を履いている彼の言葉に慌てて時計を確認すると、確かにもうそんな時間。


 バッグを手にとって、待ってくれていた彼と一緒に家を出る。


 奇妙な関係だと思う。想いあっているけれど、恋人でも夫婦でもない。友達でもない。わたしたちの関係は、本当に滑稽だ。




 ――でも、それでいい。


 愛してる、となさけなく呟いた声が、チャペルの音で消されても。


 白いウエディングドレスに身を包んだ新婦が登場するであろう扉を、本当に優しいまなざしで見つめる彼のことを目の当たりにしても。


 わたしたちが親友であることに変わりはないのだから。


『えぇ、マジ? おめでとう、樹』

『お、ありがとう。佳奈』


 今になっては褒めてあげたい。


 結婚報告をされたとき、しっかりとおめでとうと言ってあげられたわたしを。樹の表情に気づかないふりをした自分を。



 ――新婦、入場です。


 アナウンスが鳴る。


 わたしは目を伏せ、誰にも気づかれないようにスマートフォンの上に指を滑らせた。


 彼のスマホは、今、きっと彼の鞄のなかにあると信じて——わたしは短い言葉を打った。


〝愛してるよ、樹〟


 その言葉を送ろうとしたけれど、送信ボタンにかざす自分の指があまりにも震えていて笑ってしまった。


 やっぱりやめた。送信はしないで、そのままにしておいた。


 わたしはただ、樹に幸せになってくれればいいんだから。


 あんたのこと、忘れられはしないだろうけれど、夏の花火みたいに散っていった美しさだけ覚えていて、懐かしいと思えるようになると思う。


 だから、わたしがあんたじゃない人と幸せになろうとしたその時は、思いきり背中押してね。



 そして、わたしは樹の連絡先を消した。


 新郎新婦が幸せそうに微笑むなか、わたしは後ろのステンドグラスに目を向けた。


 息を呑むほど美しい色彩と、その精密さ、なによりも人を遥かに上回る大きさに圧倒される。


 ——この恋を、終わらせよう。


 この火遊びを、わたしの手で、この手で終わらせよう。



 少し遅れて拍手をしながら、わたしは優しげに微笑む聖母を見上げた。



      了

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