澱み

鈴ノ木 鈴ノ子

澱みの縁


 揉み合いの末に階段を踏み外した男が落ちていく。時の刻みが遅くなり落ちてゆく男の酒に酔った状態ながら鋭く睨みつける視線が未だに脳裏を過ぎった。

 やがて、階下のアスファルトの上に骨の砕ける音とともに頭の後ろから赤い赤い血液がまるで衣服についたシミのように広がっていく。

 夏の日差しに照らされた鮮血が熱せられて現れていた陽炎に揺れて朧げになっているのを見て、彼は倒れたまま動かなくなった人物が死んだことを悟った。

 喧騒に驚いたように部屋から出てきた男の妻が階段を駆け降りると微動だにしない男の胸元で縋るように泣いていた。


「主文、被告人を懲役4年に処する」


 逮捕から裁判までの一連の行程は、なにがなんだか分からぬままに通り過ぎたようなものだ、19歳の未成年のため実名報道は避けられ、また、私が酩酊者に絡まれて殴られていたことを同じアパートに住む高齢女性が証言してくれたおかげもあって、巻き込まれた可哀想な被害者だと世間からは同情された。だが、男の妻は服役をさせるため検察と手を取り合い徹底的に戦い、そして私から情状酌量を見事に取り上げたのだった。

 小さな地方刑務所に収監され服役したのちに、所謂、お務めを終えた私は小さな小さな通用口よりひっそりと外へと出た。

 空から降り注ぐ夏の日差しが眩しい、地面のアスファルトを見て、あの時の光景が思わずフラッシュバックする。あの赤い血溜まりが幻想となって浮かび上がり、思わず身震いした。


「吉川英二さんですか?滝沢弁護士事務所の朝霞と申します」


 入り口のすぐ横に軽自動車が止まっていてその前にパンツスーツ姿のお堅そうな女性が日差しの熱い中、ピンクの可愛らしいハンカチで汗をぬぐいながらそう尋ねてきた。滝沢弁護士は公判中に私に真摯に向き合い弁護をしてくれた先生だった。家族から縁を切られた私に対して、費用など気にしないでいい、未来がある若者が不慮の事故とはいえ罪を犯したにせよ、未来まで奪ってはならないとサポートしてくれたかけがえのない恩人だった。しかし、裁判を長引かせるつもりのない私は最初から考えていた通り一審判決を受け入れ、先生は上告をしなかったことを最後まで悔やんでいた。


「はい、吉川です。その節は先生にも、皆様にも大変お世話になりました」


 刑務所での挨拶が抜けきらない私ははっきりと答えてから深々と頭を下げた。暑さで坊主頭の上にかいていた汗がした滴り落ちる。


「先生も会いたいとおっしゃっていましたが公判でくることができませんでした。それと少しお話ししたいことがありまして、申し訳ございませんが少しお時間を頂けますか?」


「時間はいくらでもありますから大丈夫です。よろしくお願いいたします」


 同世代と思われる朝霞さんの車へ乗り込むとお世話になった刑務所を後にした。刑務所へ続く一本道をしばらく走り、やがて国道沿いにあるチェーン店の喫茶店へと車は止まった。罪を犯す前までは足繫く通ったチェーン店だ。日に照らされたその看板を見ると思わず涙腺が緩む、店内はエアコンの風が程よく店内を冷やしていて、注文を取りに来た店員さんへコーヒーを頼んだ瞬間とき、短いようで長い刑務生活が終わりを告げたことを実感したのだった。


「小泉美江さんという方をご存知ですか?」


 運ばれてきたコーヒーに一口飲んだ朝霞さんは一息ついてからその名前を唐突に言った。頷いた私を見て何かを確信したように持ってきた鞄から分厚い封筒を取り出して卓上へと置く。袋の口がこちらに開いて向けられていて中には丸められたり折り畳まれたりした紙の束が見えていた。

 小泉美江さんのことはよく知っている。アパート入居の際に初めて挨拶した方で大学の行きかえりにたわいもない話をしたり、晩御飯をご馳走になったりした世話好きの老婆だった。よくアパートの階段を掃き掃除したり、敷地の各所に置かれたプランターの花を手入れしたりしてくれていた。

 なにより、私が酒に酔った男に絡まれて殴られたことを証言してくれた恩人でもある。


「私の恩人ですが…それがなにか?」


「実はつい最近、心臓発作でお亡くなりになられたのですが、貴方の弁護で関わり合いを持ってから遺言の相談を受けておりました。こちらが預かっていた書類関係をまとめたものです」


「はぁ?それが私とどんな関係が…」


「小泉さんは家族や親族のいない所謂、独居老人でした。そしてあなたの事件に心を痛められていて吉川さんを相続人として遺贈したいと仰られて遺言を書かれて私達に託されました。この書類に署名捺印をして頂きたいのです。また、お手紙も預かっております」


 朝霞さんが分厚い封筒の中から封書を一つ取り出して卓上へと置いた。しっかりとした筆文字でしたためられた宛名は 吉川英二 と私の名前がしっかりと書かれている。手紙を切らぬように封を手で破ると、お香の焚き染められた白い4つ折りの便箋を開いた。

 労りの文言が気の利いた言葉で書かれた後、遺産相続のことが謝罪を交えながら書いてあった。末尾の締めくくりに一文、―幸せな未来のために使ってください― とあった。

 事件のため両親と親戚から絶縁されていた私は、出所後にすぐに困窮状態が予想されていたが、話に聞いていない金額と山間部の地方都市の片隅に残る築140年の実家などをありがたく相続させて頂くことになったのだった。


 あれから1年が過ぎた。

 元受刑者の就職口というのは往々にして少ないものだ。罪を償ったから良いでは済まないことが外へ出ても良く分かる。いや、そうでなくてはならない。一生を悔やんで生きることが償いになるのだ。人を殺したことを悔やんで生きることは過酷だ。

 コンビニのアルバイトをしながら風景画を描き始めたところ、ある出版社の目に留まり、画集を出すことになった。そこからコンビニ勤務と風景画家として生計を立てながらひっそりと田舎で暮らしている。買い物以外は極力外へ出ることは無い、唯一、必ず欠かさず行うことがある、それは慰謝料という名目で微々たる金額だけれど生活費の足しになればと毎月送る振込だ。晴耕雨読と言えば聞こえが良い、そんな日々を過ごしながら、秋の虫たちが鳴き始める晩夏を過ごし始めたある日のことだった。


 客など訪れることのほぼない我が家に呼び鈴のチャイムが響いた。


 築140年は過ぎている平屋の日本家屋はどこにいても呼び鈴の音が聞こえる。それもそのはずで襖も立て付けの悪い昔ながらの格子のついたガラス戸もすべて開け放して、泥棒も、昆虫も、出入り自由なほどに開け放された家、その奥まったところにある広間に寝転がりながら朝の畑仕事の疲れを癒していた私は起き上がると、近くにあったズボンと着古したポロシャツを着て玄関へと向かった。

 一足の靴と雪駄しか置かれていない、あとは広々とした土間だけが広がる玄関扉を開けると、長袖のワンピースを着た女性が鞄を持って1人立っていた。緊張したような表情で少し青白い顔色をした細い体つきの女性の姿を見た途端、背筋が凍り付く。


「こんにちは、英二さん」


 声が聞こえた途端、私は一歩後ずさった。あの男の妻の声だった。


「友子さん・・・」


「英二さん」


 そう言って彼女の顔が嬉しそうにニコリと笑う。

 送金はしていたが住所は明かしていない、なのに目の前に彼女はいる。幸の薄そうな影を宿した女は笑みをみせたまま、敷居を跨いで私へと向かってきたのだった。


 

 

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