十五、君はかわいい女の子

 それなりに仲の良い男女が、灯りの消えた部屋に二人きり。

 室内にはちょっと前までおかしな空気が蔓延っていたが、結論から言うと、二人の間にはつやっぽいことなど何一つ起きなかった。

 二人とも、とにかく疲れていたのだ。

 ほぼ徹夜明けのユイルと、調査のために一日中あちこち駆け回ったリッド。

 その二人が、もう夜も明けようという時間まで眠らずにいれば、とろんと瞼が重くなるのは当然のことだ。

 今は何より睡眠が必要だと体が言っている。

 二人はさっさと寝る支度をして寝床に入った。

 部屋にひとつだけあるベッドはユイルに明け渡した。最後まで遠慮されたが、「それじゃあ一緒に寝るかい?」と尋ねると頬を赤らめながら枕を投げつけてきた。

 リッドは蓑虫のように毛布にくるまり、板敷きの床に寝転がった。

「本当にそれで寝られるの?」

「旅をしていればもっとひどいところで寝ることもあるから」

「そう。あなたは本当に色々と経験しているのね」

「生きるためのことしかしていないよ」

 小さく笑う。

 ユイルも合わせるようにフフと笑った。

 それじゃあおやすみ、そう言って毛布に深く潜る。彼女も同じようにしたのだろう。ギシッとベッドが音を立てる。そのあとに毛布が擦れる音がして、静寂が訪れた。

 あまりに静かで、時々例の声がこの部屋にまで届いたけれど、もうユイルは反応を示さなかった。

 暗闇に目が慣れてくると薄く差し込む月明かりさえ眩しく感じた。

 その光がちょうどベッドの辺りをぼんやり照らして、毛布に包まれた彼女の体の輪郭を強調する。背中を向けた姿勢が見せるゆるやかな曲線は美しく、深い眠りにつくまでのまどろみさえも煩わしいと思うほどに疲れ切っていたはずなのに、そんなものを簡単に振り払ってしまう威力があった。

 これはマズイ。

 そう思って目を閉じた。

 目を閉じてはみたが、視覚を閉ざせば他の器官が鋭敏になるもので。

 ユイルの吐息は甘いささやきのように聞こえ、時に漏らす声はなまめかしく耳に届き、彼女の衣服にほのかに残る薬草の匂いは、すっかり嗅ぎ慣れた匂いのはずなのに扇情的に漂う。

 リッドは思わずふうっと息を吐いた。

 それほどうるさくはなかったはずだ。

 しかしリッドの呼吸のあとに、ベッドが鳴った。ユイルが寝返りを打ったようだ。

 目を瞑っていても気配が感じられる。

 姿勢を変えたり枕を動かしたりしているらしい。その動きは一端落ち着くのだが、十も数え切らぬくらいの間でまた動き出す。

「眠れないの?」

 そっと、声をかけた。

「ごめんなさい。起こしちゃった?」

 ユイルもそっと声を発する。

 まだ眠っていなかったからと答えると、「そう」と短い返事が返ってきた。

「まだアレが気になる?」

「そんなんじゃないわ」

「それならどうして」

「……誰かの気配を感じながら眠るのは久しぶりだったから」

 ユイルが言った。

 姿勢を変える音が聞こえる。声が少し近くなったけれどこちらを向いたというわけではなさそうだ。まだほんの少し芯がずれている感じがある。仰向けになって天井を仰いだのだろう。

「ずっと静かだったから、ちょっと戸惑っているのかも」

 声に笑みが混じる。声色から困ったような表情が浮かんだ。

「この辺だって――この時間なら静かだと思うけど」

 例の声さえ聞こえてこなければと言うと、ユイルは小さく笑ってから、また体の向きを変えた。今度は声がまっすぐに向かってくる。

「そういうことじゃない。あなたと会ってから、ずっと騒がしいわ」

「誰かがいるから、ということ?」

「誰かと言葉を交わしているし、森以外の場所と関わろうとしている。こんなこと、考えもしなかったわ」

「考えるくらいはしただろ」

「……意地悪な言い方をするわね」

 薄目を開けて様子をうかがうと、暗闇の中でもしっかりこちらを睨みつけていた。リッドは見なかったフリをしてもう一度しっかり目を閉じる。

「そうね。考えることはあった。でもそれは、遠い未来のことだと思っていた。いつかそんな日が来るかもしれないって、そんな風にしか思えなかったし、最後に思い描いたのはもうずっとずっと前のことだわ」

 彼女の言葉ははっきりとしていた。

「眠れないみたい」

 そう言って笑う。

「それじゃあ少し話をしようか」

「いいの?」

「僕の退屈な話を聞いていれば、きっとすぐに眠たくなるよ」

 ただ僕の方が先に寝落ちてしまうかもとさっそくあくびをすると、ユイルは呆れたように笑った。

 リッドはごめんと謝って、しばしユイルの話し相手を務める。

「どんな話を聞かせてくれるの?」

「どんな話が聞きたい?」

「そうね……あなたは、どうして旅をしているの?」

「ああ、それは長くなるかもしれないな。まあ、簡単に言えば僕の国はちょっと荒れていて、僕はそこから逃げてきたのさ」

「とっても短くまとめられたみたいだけど」

「かなり掻い摘まんでみたよ」

「でもそれじゃあ省略されたところが気になって眠れそうにないわ」

 いたずらっぽい声。

「そうか。それは困った。それじゃあ、どんな旅をしてきたか、その辺のことを話そうか」

「それは眠たくなりそうな話?」

「どうだろう。なるべくそうなるように努力するよ」

 そう言ってリッドは今までの旅であったことをいろいろと聞かせた。

 野宿の方法。そこで遭遇した危機。出会った優しい人、恐い人。とある国の変わった風習や、またある国の美味しい食べ物。

 淡々と並べたせいか、初めこそ興味深そうに質問を投げてきていたが、その頻度はやがて減り、相づちさえも少なくなって、たまに意味のわからない言葉が混じるようになった。

 そろそろかと思って声を落とす。

 すると、

「…………魔女の話はないの?」

 寝ぼけた様子でユイルが言った。

「他の国の魔女は…………どんな……」

 言い終えぬまま、すうっと寝息に変わった。

 ようやく眠りについたようだ。

「良かったけれど、複雑だな」

 自分自身で『退屈な話』と前置きしつつも、やっぱりつまらなかったかななどと振り返ると寂しさがやってくる。それでも彼女が眠れたのだから良しとしようじゃないか。そう自分に言い聞かせる。

 リッドはそっと体を起こし寝顔を覗き込んだ。

 緊張の解けた彼女の顔は、どこにでもいる普通の女の子の顔をしていた。普通の、かわいらしい女の子だった。

 そんな子が、信じていた者たちに裏切られ虐げられ、二百年という長い時間をたったひとりで生きてきた。魔女の森という限られた空間で、たったひとりでだ。

 長命の魔女にとっての二百年だから、彼女にしてみればたいした時間ではないのかもしれない。だけどその間、まったく何も思わなかったなんてことはないはずだ。

 母や姉はもう帰らないのだろうか。

 シャルムの街は、ファブールはどう変わったか。

 他の魔女たちは、今はどこでどんな風に生きているか。

 どこかにユイルという一人の魔女を覚えてくれている者がいるだろうか。

 そんなことを考えて過ごす日々は、いったいどんなものなのだろう。辛くて、寂しくて、悲しくて――

「まあ、僕の憶測でしかないんだけどね」

 本当にそんなことを考えていたかは知らない。尋ねたとしてもきっと教えてはくれないだろう。きっと彼女は、何でもないフリをして、胸を張り背筋を伸ばして、ツンと澄ました顔で笑うのだろう。

 その姿を思い浮かべてリッドは笑った。

 ユイルが寝返りを打った。

 さらりと彼女の長い髪が流れ顔にかかる。

 そっと手をのばして払ってやると、リッドはその手をそのまま彼女の頭に当てた。起きていたらまた怒られるかもしれないと思いながらも、ぽん、ぽんと、幼い子どもをあやす仕草でユイルの頭に手を置く。

「本当に、よく頑張りました。これから君にたくさんの幸せがやってきますように」

 魔法の呪文を唱えるように、願いを込めてそう言った。


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