応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • まぁ、何度でも自らの手で滅ぼし、滅びかけなきゃ実感することはないのだろう。広島長崎に原爆を落とし、虐殺し、キューバ危機で自らの喉元に切っ先を当てられなければ、自制も自省もすることもなく、悔い改めるなぞしもしない輩には。。。自ら蒔いた怨念のタネ、闇に食いつぶされるの良かろう。
     他者に他人には関係ないこと。関わり合うのは御免だということだけ。


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    第3話 「論」論 (序)への応援コメント

    えーと、、、自民党という党の成立、成立ちを遡れば、理解しやすいと思いますよ。
    何のことはない、自民党内の反自由党組織=民主党=野盗連中と同じ系統の輩が中に存在してる=超賤人集団が紛れ込んでいるということに気づかなければならない。
    自民党という政党自体モザイク政党だってこと。
    ゆえに、とんでも発言が出るし、選出された閣僚がとんでもない無能であることがしばしば起こる。
     若い連中は掲げる表看板だけ見て、投票するのではなく、人物をしっかり評価して投票・支持しないと、小泉の子倅のようなとんでも発言行動を許すことになる。
     実社会での就労経験、企業経営経験実績のない者が国政や地方行政に携わり意見しようというのがそもそもの間違い。
     ゆえに被選挙権年齢が定められているのだが。。。実社会情勢を反映せず、そのまま35歳で変わらないというのも変な話。
    むしろ国政に関し、40歳以上でもいいし、長寿社会を反映して50歳以上でいいではないか。
     むしろ、50歳以上に被選挙権を与え、労働力として社会現場で無理をさせるのではなく、議員として社会に貢献してもらうのが妥当でしょ。
     実績経験のない者が小さい針穴から世の中を見て、何がわかるというのだ!
     国家100年の計を立て討議する場所に、参加する資格、討議に参加するだけの能力があるのか?結果を出せるのか?
     はっきりいう、今の野党は能力がない!地方行政で経験を積み、実績を積み上げて出直して来い!
     国政レベルでの野党はまさしく野盗、結果を出せない税金泥棒である!
     国政レベルでは自民党一党だけで用は足りる。むしろ、高いレベルでの議論、討議が進み、国民の意見をしっかり反映され、施行されるものになるのではないか? 
     結果を出せない討議に費やされる時間より、実行される施策の方が意味あるものだ。
     実行されることで、実勢に基づいた修正点問題点が見いだされ、修正改定することで良くなっていく。
     討議に要する時間が無駄なのだ!まさに議場のむだなのだ!


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    第2話 エピゴーネンへの応援コメント

    「エピゴーネン」模倣、踏襲、複写、模写などなんだろうけど、技術や技、精神的なものの再現・踏襲するところまで含めたものの再現、といったことかな。
     エピとコピーとの違いとは、そんなところか。

     わかりやすいのは、同じ電動工具でも、中華製模造品と同じメーカー品での中華製と日本製の製品の違い。。。と考えれば理解しやすいか。

     エピゴーネン。。。日本においても、明治期以降盛んに行われた先進工業地域からの技術導入とか、種子島に漂着した外国船から手に入れた銃の模写・復元、日本製火縄銃の製造なんかが<エピゴーネン>に当たるのか・・・な?<(~~?
     しかし、日本人はそこから技術、本質・性能機能を果たすためのしくみを学びとり、磨き上げて本家を凌ぐ性能機能を独自の手法・技術・工夫でこの世にもたらしたわけで、エピゴーネンを越えて魅せたとみる。
     日本製というものラベルにエンドユーザーが期待し、価値あるものとするそのものの本質はそのことにあるように思えるが、どうみます?

     形(外観)をマネてはいるが、中身(=耐久性、加工性、歩留まり、使用鋼材成分・焼き入れ強度)が伴っていない。。。技術の再現ができていないモノのが氾濫する世の中で、ピゴーネンなのか、単なるコピー、外見だけの模造なのかの分かれ目。。。と見るが。
     
     気になるのは、本家・製造元が、エピゴーネンの領域に至らない技術を持たぬものに生産を委託し、世に粗悪品を量産出していることを認めていることに問題がある。
     粗悪品を弾いて世に出さない、流通させないことを怠り、かつ、廃棄再資源化するその手間と費用負担を忌避し、利益を求める本家の在り方そのものが環境問題の根本にあるようにみえる。
     結果、本家が認める性能のものが粗悪品に凌駕され、市場から駆逐され立場を悪くする、信頼を失い市場シェアを失っているように見える。
    (特にドイツ製品をはじめとする欧州工業製品)
    歩留まりを上げ、利益を上げようとして、品質を落とし、信頼を失い、価値を下げることを現在の企業経営者は行って、自らの首を絞め、市場から排除されていってるのが現状のながれ。
     そのことで利を得ているのは、単なる模倣すらできていない粗悪品を市場に流す輩、見た目だけ真似た粗悪品を流す者たちでは?
     
     むしろ、エピゴーネンということばを用いる者には、模倣品、模倣し損ねた粗悪品を見分ける技量・真贋を見分け本物がもつ価値を理解していなければならないと思うが。
     さもなくば、エピゴーネンということばが意味する中身がたんなる模造・粗悪・量産品の低品質の汎用代替品相当のものを意味することに変質していくようになるとおもうが。
     いや、コピーより下の価値しか持たないものを指し示し、顕わすことばになっているのかな?
     その良し悪しは、ことばを選び使う側の責任。

    >>>追記<<<
     エピゴーネン・・・痛感するは、安部氏死去に伴う施策の頓挫。。。
     後任のものが引き継ぐ・・・と公言しても、当人ではない安部氏本人ではないことに落胆の度を深める。
     結局、背負った歴史、人脈、信念、思考は真似できないし、信頼度、ひととなりは真似できない、追従できるものではないことが再確認されただけに、体ーていーを為すことなく亡失したことが惜しまれる。

     「仏(ほとけ)造りて、魂いれず」よっぽどこっちの言葉、表現のほうが的確かつ核心を突いているようにおもうが?(笑)

  • 能力資格が評価するに値しないものであっても女性だから男性だからと差別、優遇して更なる差別をゴリ押ししている事実に気づいていながら、理解して正そうとしない愚か者が蔓延する世の中。
     争うことが嫌だと逃げ回り、居場所を無くして、滅んだものがごまんと存在するというのに。それを義務教育という暗示にかけて、民族を滅ぼそうと図り、国を乗っ取ろうとする輩の存在。┐(´д`)┌ヤレヤレ
     文芸表現のありようをみてもいかにタガが外れた状態にあるか、わかろうというもの。
     これも日本語を正しく理解できないがため。日本語教育の間違いが糺されてこなかったがためでしょ。
     すべての根幹にある国語。その教育が疎かにされてる結果が興していること。
     無能が教育しているがため。
     追及すべきだろう。


  • 編集済

     まぁ、世の中、周囲に流され、情報に踊らされてものごとの有様を歪められていますからねぇ~。教育しかり、経済然り、社会集団行動しかり、マスゴミ・メディア記事報道しかり。。。利己追及、利益権益追及、集団の利より個の権利・利益。。。だものねぇ。言いたくもなりますね。”自決せよ”と。
     現在のまさに衆愚政治の真っ只中。。。その気づきが、古き教育指導を受けた者、戦後80年余り前の戦争終結以前の教育を受けた者に対しての<お叱り>の弁のように受け取れる。
     人としての在り方を説き、教育指導の指針とされた教育勅語が廃されて、まもなく一世紀が経とうとする中、それを知る(識る)者、受けた者が高齢者に在るのみの世にあっては、そこに込められた真意・深意を理解する者、糺す者が居らず誇張歪曲捏造しほうだい。。。なわけで行く末が案じられる。

     教育とは何かということすら、今日では歪められている中で、自決すること、自らの決断行動結果に全責任を負うことと戦前、戦中に教育を受けたものが、戦後教育では破棄され、ひととしてのありようを育てること、教育指導すること心身の修練・修身することを放棄、技や知識のみの伝達・習得に努める期間と化してる。
     技の修練・修得は実社会に出れば否応なく、積むことになるものだが。。。

     営々と明治維新以降の人の養育・教育指針の指標とされた教育勅語を廃し、育んできたモノゴトすべてを戦後教育は根底から破壊し、他に責任を圧しつけ自らの決断行動の責任をないがしろにし、放棄・無視し責を果たさずことが公職者に在る者が公然と行ってきたことが、今日の有様を呈することになった根本原因であると思うが、そういう己も戦後教育を受けてきた者。。。歪んだ基盤の上で育ち老いて在る身には、その歪みを糺さず来た身には、天に唾棄するようなことではあるが。。。

     先行き見えている身に在って、吾が来た道を振り返り見たときに、その根本からの歪みに気づかされる。

     そもそも決断は己がするもの。独断専横わるいこっちゃない。時と場合によりけり。善し悪しの判断がされるのも、時の情勢ありようによる、善し悪しの判断のものさしがあるようなものではない。曖昧模糊、ファジーなもの。その判断決断をするための己が指針・立ち位置・志向?指向?を築き・持つための期間が義務教育機関であったはずなのだが。。。

     自らもそうだが、方向性・志向・指向をもたず、ふらふら。。。カオス状態に在るように仕向けられ、プロパガンダにより集団を操ろうとする気配がぷんぷん。。。
     そう在るのも、決断し、糺すことをして来なかった己自身が招いたこと、責任である。

     海外のことは知らぬが、日本語自体かなり曖昧模糊、操る者の技量・知識によって変幻万化する道具。微に入り細にいり、表記表現できる万能言語。そのことをいまの日本人は、戦後教育を受けてきた者は知らない。知ろうとはしていないことが残念。そんな万能言語を操れぬ日本人は、その万能道具の価値を知らず、知ろうともせずに、放棄・捨さる日も案外間近、近いのかもしれない。

     令和6年、皇紀表記で2684年だったか。。。2700年あまり日本という国を成してきたが、その国に在る者のありよう、有様をみて、その終焉の時は案外近いのかもしれないとおもう。
     できれば存命中にはそのようなことがないことを祈るが、それこそ我亡きあとについては、後は野となれ山となれ。。。我関知せず。。。である(苦笑)


     

  • 「男女平等」「機会均等」も、無茶苦茶だと思います。
    我が社でも、有能でなく、人望もない女性を下駄を履かせて管理職にしています。
    逆に有能な女性は、管理職に登用されるのを辞退している。根本から、働き方を改革しなくてはいけないのに、目先だけを追いかけている。結婚、子育ての問題も同様だと思っています。

    作者からの返信

    >有能な女性は、管理職に登用されるのを辞退している。

    これ、おそらく全国のあちこちでそういう事例は多いと思います。

    政治家を志す人に、本当に有能な人はいない、と誰が発言していたか忘れましたが、本当に有能な人は、割に合わない選択はしない、という事なんだと思います。

    私は有能ではないので、何度も失敗しているのに、懲りずに2025年に起業するために準備中です。死ぬまでに一度は「代表取締役社長」になりたかった、という、本当に子どもじみた理由なのですが、

    管理職にしろ、政治家にしろ、同じように「なりたかった」というそれだけで、それが目的で、実際に我が物顔で、周囲に迷惑をかけている人は多いのかも知れません。

    反面教師にしたいです。

    神崎様のおっしゃる通り「目先だけを追いかけてる」感、ありますよね。

    日本人の多くが、そういう軽薄さを隠そうともしない、それでよしとする風潮が、これから生まれてくる人たちを苦しめることになります。

    コメントありがとうございます。

  • 第3話 「論」論 (序)への応援コメント

    少子化対策の奨学金の件、今回の提言は、真向から反対する。
    まさに、同感です。出生率が下がり子供が減れば、国は滅ぶもの。
    しかし、この提案には道理がなく、最初から違和感がありました。

    僕は自民党支持者でないけど、野党第一党よりも柔軟な考え方の人が幅広くいるとは思っています。ところが、段々とそれも幻想だと気づきました。

    作者からの返信

    結局、与党で政権を担っている方々は、たとえばスーパーでいま卵1パックがいくらなのか、知らない人ばかりなんだ、と思っています。

    総菜コーナーの半額になっている商品を狙って買いに来る自民党の国会議員は、まずいない、と思います。

    結局はその感覚のズレが「わかりあえなさ」をつくっているのかなと感じています。

    自民党に柔軟な考え方の人が誰もいないわけではないとは思いますが、あまりにも失望することが度重なり、やはりもう一度、自民党は大敗した方がよいのではないか、と思うようにもなりました。

    ところが自民党に代わって、それ以上の政治ができる政党というものは、いまの日本にはありません。そこが今の日本の大きな弱点でしょうね。

    コメントありがとうございます。


  • 編集済

    やっぱり「死にたい」という願望は、毎日顔を出す。ところが、死ねなかった。死にたいと思う気持ちは、運命をともにする人しか分からないのかもしれません。

    振り返ってみれば、僕の生きざまも同じようであった気がします。今では生きていて、良かったと思っています。実際、幾度も生と死の狭間に立たされ、苦難にも出会ったけど後悔はしていません。過去の辛い時期があったからこそ、今の自分の存在を、素直に受け入れられます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    「死にたい」と思う気持ちは「甘えである」と、長年信じてきました。誰だって死にたいときくらいあるし、それを言葉に乗せて誰かに伝えることは「甘え」だと。しかし、最近は、別に甘えていいんじゃないかと思うようになりました。誰に?っていうところが曖昧ですが。

    神崎様も、様々な艱難辛苦を経て、いま、生きていて、良かったと感じながら日々を過ごされているのですね。その事実が、私にとって「希望」です。

    結局「生きていて良かった」と思えるかどうかは、自分の心の持ち方次第、感受性次第だと思うようになりました。日々、じぶんの感受性のメンテナンスを怠ることなく、茨城のり子の詩(「自分の感受性くらい」)を時々思い出しながら、人生を楽しんでいきたいと思っています。

    今後とも、よろしくお願い致します。