第6話 動揺

 一度気にしないことにしたことは、基本的に気にならなくなるのが私の長所だ。

 ブラックはいい人で、他の人たちはそれを知らずに好き勝手言っている。可能ならば私が、その誤解を解いていきたいとさえ思う。私は彼の、よき理解者になりたい。

 ……と、思っていたのだけれど。

「ホワイト、お願いだ。文法の課題見せてくれ! 次、発表なのになくしちゃったんだ。お前しか信頼できる奴がいない!」

 食堂でそう友人に頼まれて、私は昼休憩の間にと急いで部屋に戻った。長い廊下を小走りで渡り、部屋の扉に手をかけたとき、中から物音がした。

 おかしいな、と思った。今の時間、生徒は基本的に食堂か中庭で食事を摂っているはずだ。多分、ブラックもそうしているはずだ。たいした貴重品もないので普段から部屋に鍵なんて掛けていなかったのだけれども、もしかして泥棒が……?

 念のため扉を叩いてみると、今度は物音に加えて人の声がした。やっぱり物盗りか。

 身を固くしてノブに手をかけた時、中から「どうぞ」という声がした。落ち着いた、低い声……ブラックのものだ。それを聞いた途端にホッとした。なんだ、ブラックがいたのか。それなら、何の心配も要らなかった。

「ブラック、君いたんだね……」

 ドアを開いて、ベッドに腰掛けたブラックを確認して、それから私は立ち止まった。ブラックのベッドには、まだひとり、男子生徒の姿があったからだ。

「え、誰……」

 見知らぬ男子生徒はベッドから降りると、焦ったように私の前を通り過ぎ、立ち去ってしまった。ぽかんとしていると、ブラックが何ということもなさそうに言った。

「俺の友達だよ。と言ってもまあ、学年は上だけど」

「あ、ああ。そうなんだ。君は顔が広いんだね」

 寮の部屋に友人を招くのは、誰でもすることだ。それがたまたま、珍しいこんな時間帯だったにすぎない。

 それなのに、腹の中が気持ち悪い。朝、必ず整えているはずのブラックのベッドのシーツが、やけに乱れているのが視界に映る。

「昼休憩の時間に部屋に戻ってるなんて知らなかったな。食事はちゃんと摂った?」

 机の引き出しを開けながら聞く。私は今、普通の調子で話せているだろうか。ちらりと見ると、制服のシャツのボタンを上まできっちり閉めながら……ということは、今までそこは幾分か開いていたということだ……ブラックはいつも通りの調子で答えた。

「ああ、簡単につまんだよ。気にかけてくれてありがとう。でもホワイトの方こそ、珍しいな。どうしたんだ」

「私? 私は友達に頼まれて課題を取りに来ただけさ」

 口ではそう答えながら、頭では全然違うことを考えている。すぐに見つかるはずの課題がなかなか探せず、私は何度も引き出しの中を掻き回した。

「何の課題だ?」

「文法……」

「じゃあ、これだな」

 いつの間にそんなに近づいていたのか、すぐ後ろから長い腕が伸びて、ひょいと紙の束を取り上げた。

「ホワイト、何をそんなに焦ってるんだ?」

 息がかかるほど近くでそう囁かれて、心臓が跳ねる。差し出された課題をひったくるような勢いで受け取って、私は首を振った。

「あ、焦ってなんて」

「じゃあ、どうしてそんなに顔を赤くしてるんだ」

 今度は、その声に楽しそうな調子が混じった。

「廊下を走って来たから、じゃないかな」

「ふうん?」

 全く信じていないのであろうおざなりな相槌を打ち、ブラックはそっと、私の髪に触れた。

「さっきの先輩のことが気になってる?」

 答えられず、振り向くこともできず、私はただ、彼の指が髪の上を滑る感覚に耐えた。

 気になっている。気になるに決まっている。

「さっきの先輩の髪の色を見たか?」

「……? ブラウン……」

「正解。それじゃあ、俺が好きな髪の色は知ってるか」

 今度は本当にわからなくて、答えられない。首を振ると、ブラックはくすりと笑った。

「ホワイトの髪の色。この、綺麗な金色だよ」

「……っ」

 彼が私の髪に口付けたのが分かった。見ていないのに、感覚で。途端に体の芯が熱くなって、鼓動が早鐘を打った。

 何、何が起きている?

「ブラック……」

「ホワイト、俺はお前のこの髪も……」

 声がすぐ耳のそばで聞こえ、首に何かが当たる。柔らかな感触……唇だ。

「この細い首筋も……」

 どうしたらいいのかわからなくて混乱している間に、彼の腕が私の肩を抱いた。

「そして何より……お前の白さそのものが好きだよ」

 白さそのもの?

 さっき唇をそっと押し当てられた場所が熱くて、頭が全然働かない。けれど、最後の言葉の意味はよく分かった。

 好きだって? ブラックが、私を……?

「ホワイト、お前も俺のことが好きだろ?」

 どきっとした。耳の中で血液の巡る音が煩い。

「私は……」

「俺を見て」

 こんなときでも、いや、こんなときだからこそなのか、彼の声は甘く響く。もがいて逃げ出そうと思うのに、体がだるくて動かない。首だけ僅かに彼の方へ向けたとき、目の前に、あの黒い瞳があった。

 吸い込まれる。

「……ん……っ」

 僅かな隙に、先ほど私の首に当てられた唇が、今度は私の唇に押し当てられていた。

 キス。

 唇の端が触れ合って、くすぐったくて、じんじんする。呼吸がうまくできなくて、目に涙が溜まる。その間にも、彼の指は私の首筋を撫でる。色々な感覚が押し寄せてきて、何が何だか分からなくなっていく。

「や、ブラック、こんな……」

 言葉は、口づけにかき消されてしまう。うやむやになって霧散した言葉と共に、思考もまとまらないまま、感覚の渦に飲み込まれてしまう。何度も何度も、離れては寄せられる唇に、理性を奪われていくような気がする。どうして、こんなことになっているのだろう。彼は私の髪を、私の白さを好きだと、確かそう言って。

「……っ、やめて、くれ」

 私はようやく彼の腕をほどき、立ち上がった。手の甲で唇を拭き、首筋も拭いた。泣きたかった。

「なんで、こんなことっ……」

 潤んだ視界に、彼の姿が歪んで映る。何を考えているのか、何をしたいのか、分からない。

 自分を好いてくる人間を、取っ替え引っ替え。

 先日聞いた言葉が蘇って、私はよろめきながら、彼との距離を空けた。ドアへと後退りつつ、殆ど泣きながら言葉を吐き出した。

「誰にでもこういうことするの」

 ブラックが口を開いたのが分かったが、返事を聞く前に私は駆け出していた。

 ドアの閉まる音が、遥か後方に聞こえた。

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