第2話 予感

 私とブラックは、瞬く間に打ち解けた。最初感じた謎めいた雰囲気は何だったのかと思うほど、彼は楽しくていい人だった。私たちはその日の午後じゅうずっと喋り、食堂でも隣に座り、消灯の時間になってもまだ話が尽きなかった。

「ホワイトは、どうしてこの学校に決めたんだ?」

 寮長巡回の後、ナイトテーブルを挟んだベッドに寝た私に、同じく寝転がってこちらに顔だけ向けたブラックが、小声で尋ねた。

「うちは熱心なクリスチャンだから……ここはクリスチャンにとってはいい環境だろう。聖書学なんか、特に。私も、主の教えを大切にしたいからね」

「へえ」

 ブラックはちょっと面白そうに、形の良い眉を上げた。

「そういう君は? どうしてこの学校にしたの」

 私の質問に、ブラックはううん、と唸った。

「両親の方針さ。立派なジェントルマンに育って欲しいんだと」

 そう言って、くっくと笑った。

「時代錯誤も甚だしいよな。得られるもんだけはいただいていくつもりで、仕方なしに入ったんだ。全寮制の学校なんていやだって言ったんだが」

 どうやらブラックには、特に信仰心というものはないらしい。でもそれより、私には気になっていることがひとつあった。

「そう言えば君は、楽器をやるのかい。……いや、机の横に、ケースが」

 この部屋に初めて入ったときブラックに吸い寄せられた視線は、挨拶を交わしたあとに、そのケースへ釘付けになった。背負わねば持ち運べないというほど大きくもなく、かと言って軽そうにも見えない。サイズ感から見ると、ひょっとして。

「バイオリンさ」

 こともなげに、ブラックは答えた。

「やっぱり! わあ、弾ける人を初めて見たよ」

「そんなに珍しいもんではないだろう。ここに通わされてる人間なら、楽器くらい大概弾ける筈だ」

 そんなことはない。現に私などは、初等教育の段階で、その方面へは見切りをつけられてしまったくらいだ。

「私は何も弾けないし、歌も全然上手くないから……素直に凄いと思うよ。ねえ、よかったら今度、聴かせてくれないか」

「お安い御用だ」

 気軽に答えてくれたように思えたブラックだったが、その顔に、僅かな影がよぎったのを感じた。

「ブラック……? 大丈夫か。何か悩みでも?」

 私の問いかけに、彼の、不思議な魅力を持った目がちょっと見開いた。

「悩み? なぜ?」

「なんだかバイオリンの話を始めたら、少し元気がなくなったような気がして……。いや、全然問題ないなら、変にうがってすまなかった。ごめん」

 会ったばかりの人間にこんなことを言われるのは、いやだったかもしれない。私は申し訳なくなって言葉を切ろうとした。けれど、ブラックは「そんなことはない」と話を続けた。

「ホワイトの言う通り、ひとつ悩み事……いや、困り事があるんだ。この学年が始まる少し前に、T音楽院から編入の誘いが来ていてね。両親からも強く勧められているんだ」

 T音楽院は、私ですら名前を知っている超エリート音楽学校だ。数々の有名作曲家、演奏家を輩出しており、卒業生は世界各国で活躍していると聞く。

「それは凄いじゃないか。……でも、行きたくないんだね」

「ああ」

 ブラックは天井を見つめた。横から見ると、その鼻筋と唇、顎のラインの形の良さが際立ち、思わず見惚れてしまいそうになる。

「この学校に来るのを了承したのは、それが少なくとも俺のためになるところもあると思ったからだ。でも、音楽院はそうじゃない。俺は音楽で身を立てたいとは思ってないんだ。……世界は広い。俺は、もっと色々なことをしたいんだ」

 たしかに、音楽院に行けば、音楽以外のことにかけている時間などないだろう。ブラックは、のほほんと生きている私とは違って、自らの将来を真剣に考えているのだ。

「親の言いなりになるつもりはない。……編入手続きの書類が送られてきたんだが、サインせずに引き出しの奥さ」

「そうなんだ。君は偉いね、私は将来のことなんてあんまり考えたことがないよ」

 ブラックはそこで破顔した。

「ははっ。俺のはわがままなだけさ。ホワイトは面白いな」

「そ、そうかな。変なこと言ってたらごめん」

「面白いよ。……こんな話、誰にもしたことなかったんだけどな。初対面なのに……なんでだろう。ホワイトになら何でも話せそうな気がするよ」

 そこで一旦、言葉を切ったブラックは、じっと私を見た。カーテンの隙間から差し込んだ月光が、彼の瞳に不思議な彩をもたらす。

「……今年は楽しく過ごせそうだ」

 その言葉に、なぜだか胸が苦しくなった。どきどきして、まともにその顔を見られなかった。なんだろう、こんなこと、今までなかったのに。

 私と会えて嬉しい、という意味にとれる言葉ひとつに、こんなに動揺するなんて。

「わ、私も……そう思う」

「そうか。それは良かった」

 にっこり笑って、ブラックは「おやすみ」と向こうを向いてしまった。私はまだ正常に戻らない胸をどうしたらいいのかわからなくて、暫く天井を見つめていた。

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