第56話 石勒の憂鬱
石勒は側から見てもわかるほど鬱々としていた。
このことには様々な理由があった。
まず、張賓の遺言通り、石勒は
程遐は石勒の考える戦略と真逆のことをしばしば言うので、衝突することは日常茶飯事であった。
徐光は小汚い頭巾と馬乗り袴を身につけた風采の上がらない若者だった。
こちらは、酒浸りで二日酔いを理由に参内しないことがあり、戒めのために降格せざるを得なかった。
そろそろ反省した頃かと、石勒は城門の当直の任についていた徐光を訪ねた。
しかし、徐光はなんと袂を振って、顔をそむけ、石勒を無視したのである。
「俺はムカつくためにやってきたんじゃねーぞ!」
激怒した石勒は徐光を殺そうとしたが、張賓の言を重んじて、獄に下すに止めた。
そんなことがあって後、今度は程遐と石虎の関係が悪化するという問題が起きた。
ある朝、朝堂に現れた程遐は物凄い形相をしていた。
「私の留守中に、邸に賊が入り込んで、妻と娘が強姦されました」
石勒も流石に驚いた。
「それは災難だったな。賊は捕まえたのか、そうでないなら」
「犯人は石虎殿です」
「おい、どういうことだ」
程遐は怒りのあまり赤を通り越して顔が逆に青ざめていた。
「正確には、石虎殿の配下の者です。ああ、あのクソ野郎がしかけたに決まってるんだ。あんたが際限なくあいつを甘やかすから!こんなことになるんだ!」
石勒に掴みかからんばかりの勢いだったので、他の群臣が程遐を取り押さえ、その日のところは帰らせた。
石勒が周囲に聞き取ると、程遐は石虎の屋敷の近くに新しく屋敷を建てたのだが、それが石虎の屋敷よりも大きかったので、石虎になじられたということがあったという。
そんなことがあったため、程遐は妻子の強姦事件が石虎による度を超えた嫌がらせだと推測したのである。
石虎を召して問いただすと本人は泣いて否定する。
「陛下、いや、アニキィ……信じておくれよ。いくら俺が程遐のやつにムカついてるからって、流石にそんなことはしないよ」
結局、証拠もないので石勒は石虎になんらの罰も与えなかった。
家臣は意に沿わず、あまつさえ争いあう有様、石勒の心に似合わぬ寒風が吹き荒ぶ。
「ああ、どうして死んじまったんだ、張賓。俺がいつも大事に臨み、思いを巡らして考えを纏める前に、張賓はすでに決心していた。それに比べて、この連中の体たらくはなんなんだよ。天はこんな連中と俺に事を図らせようってか?」
ため息をつく石勒を皆が心配した。
群臣たちは石勒を元気づけようと、石勒の郷里の人々を集め、盛大な宴会を催した。
「あぁー、リョウのクソジジイ、生きてやがったか」
リョウと呼ばれた老人は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「けっ、クソガキのベイが偉そうになったもんだぜ」
ベイは石勒の本名である。
石勒とリョウは、家が隣同士で、麻を浸す池を取り合って毎日のように殴り合うという仲だった。
本当は殴り合うのは石勒の父だったのだが、彼は酒浸りですぐにのされてしまうので、ベイであった頃の幼い石勒が、かわってリョウと喧嘩していた。
石勒はリョウの胸を軽く小突いた。
「俺は昔、あんたの筋ばった老拳に飽き飽きしていたが、あんたも俺の毒手にうんざりしてたんだろ」
「いいや、ちいとも効いてなかったね」
二人は笑い合った。
宴会が終わると石勒はリョウを抱擁し、沢山の土産を持たせて帰した。
◇
ある日、
師懽は奴隷だった頃の石勒の主人である。
「あんたが解放してくれなかったら、俺はここにおれんかったろうな」
「陛下は、天が間違ってわしなんぞの奴隷にしてあった頃から、只者じゃないとわかりましたぞ」
程遐はーーようやく落ち着きを取り戻して政務に復帰したーー師懽が献上した黒兎を撫でてこういった。
「これは瑞祥です」
「へ?そんな珍しいもんでも……」
「兎はぴょんぴょん跳ねますよね」
「お、おう。跳ねるな」
「これは陛下が龍のごとく飛翔して天子に即位し、天命を改める瑞祥です。晋は金徳の国で貴色を白としています。趙はこれを継ぐと考えると、五行説にしたがって木火土金水で次は水。趙が水徳の国となると、その貴色は黒。この兎は黒い。瑞祥まったなし!これはもう大赦とか改元とかするしかありませんな」
石勒は兎は跳んだら落ちるのでは、と思ったが、程遐の勢いに押されて言った。
「よしわかった。瑞祥?なんだな。じゃあ、大赦と改元の手続きをだな」
その時、伝令兵が駆け込んできた。
「大変です!劉曜軍が洛陽方面を急襲、現在は洛陽手前の金墉城を攻撃しています。陥落は時間の問題です」
「なんだと、高侯に配置した部隊はどうした。あそこには季龍を向かわせたばかりだぞ」
「石虎将軍は既に敗北!生死不明!」
瑞祥どころの騒ぎではない。
「あいつが負けるということは敵将は……」
「劉曜みずからの、親征です」
こうして石勒と劉曜はついに激突することとなった。
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